軽率過ぎはしないか?
 から詳しい事情を聞いてまず浮かんだ言葉がそれだった。
 星辰の節は冷えるから、それまで庭園で語らうことの多かった僕達は、グロスタールがアレキサンドルを併合した後に宛がってもらった僕個人の部屋に腰を落ち着かせた。グロスタールの人間である僕に気を遣ってくれたのか、二間からなるそれなりに広い部屋だ。こちらで過ごすことは滅多にないから未だに他人の部屋のように思うが、今回は少なくとも五日は寝泊まりすることになる。多少は慣れてくるだろう。奥の寝室へ続く扉を閉めてから、椅子に腰をかける。
 しかしあのドロテアさんがアンヴァルから遙々やって来たということだけでも驚きだったが、帝国の子供を預けていったと聞いたときは何かの間違いではないかと思ってしまった。いや、今現在に寄り添う小さな女の子は間違いなく実在しているわけだから、信じ難かろうとそれに関しては飲み込まざるを得ないわけだが。
 はこの部屋に入る前、廊下の柱の陰から部屋に入る僕達を興味津々に見つめていた少女を逡巡なく手招きした。



「ソフィー、ごさいです!」



 とは言えに促されるよりも先にぱっと開いた手の平を僕に向けて年齢を教えてくれたソフィーに僕はすっかり絆されてしまった。さっきのオーランドとかいう少年よりよほど礼儀がなっているではないか。花が咲いたような笑顔に、なんとなく十年前のを思い出す。くまのぬいぐるみを抱いているところなんかも、かつての彼女を彷彿とさせた。



「ソフィー。初めまして。僕はローレンツ」

「うん! 知ってるよ。こんどお姉ちゃんとけっこんするお兄ちゃんでしょう?」

「けっ」

「わあ〜ソフィー、たかいたかーい」

「きゃーっ!」



 ソフィーの話を強制的に終了させようとしたのか、は突然ソフィーの小さな身体を持ち上げて誤魔化した。しかし、結婚。一体誰からどんな話を聞いたのかは知らないが。恐らくの母君あたりだろう。僕に背を向けたの耳が赤くなっているような気がしたが、僕はそれを、先程まで彼女が外にいたからだろうと結論づけている。
 が淹れてくれた紅茶は、以前よりは渋みが抜けていた。上手くなったものだな、と思う。敢えてなのか僕の好む茶葉を用意してくれたところもいじらしく、愛おしく思えてしまうが、自分のためであると決めてかかるのも良くはないだろう。自意識過剰だと自らを戒めながら、机の上の菓子に手を伸ばすソフィーを見た。彼女は今、の膝の上に行儀良く座っている。
 ドロテアさんが庇護の必要がある子供達をに預けてまで向かう先と言えば、僕には一つしか思い当たらなかった。アドラステア帝国皇帝、エーデルガルトの元だ。
 しかし、ならばこそ今の状況は敵に塩を送ってやったものではないだろうか。僕は現段階では父のように自らの敵を同盟内にありとは考えては居ないから、必然とそういう結論に行き着いてしまうわけだが、実際はどう考えているのだろう。
 くまのぬいぐるみを抱えたソフィーのその髪を梳きながら、は鼻歌を歌っている。そうしているとまるで年の離れた姉妹のようで微笑ましい。じっと見つめていると、ソフィーの空色をした瞳が僕を正面から捉えた。首を傾げた僕に、ソフィーはあどけない表情のまま尋ねたのだった。



「お兄ちゃんはお姉ちゃんのどこが好きなの?」

「ぶっ」

「うわーっ!」



 飲んでいた紅茶が気道に入って盛大に咽せる。はとうとう立ち上がって、ソフィーを抱きかかえたまま彼女の小さな手の平にいくつかお菓子を握らせると、そのまま走って部屋を出て行った。その後ろ姿を見送りながら呼吸を整える。
 扉の向こうで足音が遠ざかっていくのを感じながら、もしかしたらもうは戻ってこないのではないかと考えるが、どうにか僕の方も落ち着いた頃、なじみ深い、足の裏をぺたぺたとくっつけて走る足音が再び部屋の前で止まったから、ほっとする。扉を叩かれて返事をすれば、おずおずと顔を出すがいた。「失礼しました……」どうやら母君の元へ送り届けてきたようだ。



「ソフィーってばあんなに小さいのにおしゃまさんでね、その……そういう話が大好きなの……」

「……いや、気にしていない。しっかりしている子だな」



 咽せておきながら気にしていないも何もないが、そうとでも言っておかなければ彼女を困らせてしまうだろうと思った。
 僕の言葉には乾いたような笑顔を浮かべて、気まずそうに目線を落とすだけだ。続けられた言葉も、何かを誤魔化すように、ぎこちない。



「ソフィーは、でも、甘えん坊さんなんだ。もう一人男の子がいるんだけど、ノエルっていってね、その子はソフィーと比べると結構人見知りするから、もしかしたら慣れるのに時間がかかっちゃうかもしれないけれど、とっても良い子なの」



 ソフィーにノエル。それからさっきと剣の訓練をしていた少年。年齢も性別もばらばらの彼らは、それでも帝国の出身であるという一点において、確かに繋がっている。



「……さっきの彼は?」

「ああ、オーランド? あの子は気難しいねえ。さっきもごめんね、あんな態度で……」

「いや、それは良いんだが」



 こちらの件に関しても良くはないが、心の狭い男だと思われるのも嫌だ。しかしも僕がそういった礼儀に関しては煩い男だと思い出したのだろう。「ごめんね、でも優しい子なんだよ」と取りなすように続ける。



「あの時もね、まだ訓練を始めて間もなかったんだけど、婚約者が来たなら今日の訓練は終わりにしても良いって言ってくれて……」



 の耳元で何かをぼそぼそと囁いていたときだろうか。確かにあの直後、は分かりやすく狼狽してみせた。挨拶はできずとも気が利くじゃないか。満更でもない気持ちになりながら紅茶を口に含む。その時机の向こうでがなぜかはっとしたような表情で口元を押さえていたが、どうかしたのかと尋ねても首を振るばかりだった。触れないでおくべきなのだろう。気を遣って、話題を変えてやることにする。



「……しかし、まさか君が教える立場になるとはな」



 そう口にすると、は分かりやすく眉を八の字にしてみせた。気恥ずかしいのを隠すためだろう。彼女は時折、こうして困ったような顔をしてみせることがある。



「士官学校じゃあ教わる立場だったからね。先生からだけじゃなくて、リシテアちゃん、ローレンツくんからも。……誰かに何かを教えることなんてなかったから、責任重大だよ」



 剣を扱うのに変な癖がついても良くないし。と真面目な顔で呟く彼女に、その行動を軽率だと指摘することは出来なかった。
 預けられた帝国の生まれの子供に剣技を教える。一歩間違えれば、それは敵国の兵士を育成していることになるのではないだろうか。僕はそれを危惧しているのだ。
 あのオーランドという少年が、いざという時に帝国につくことがないとは言い切れない。帝国兵を同盟内に侵入させヴァイル殿を死に至らしめるきっかけを作ったアケロンのように、あの少年が裏切らない確証など、どこにもないのだ。は恐らく、そういうことまでは考えていない。



「でも、ずっとつまんなそうにしてたオーランドが、剣の訓練をしている間は生き生きしてるの」



 座ったまま両手を腿の上で重ねるの視線は、机の上にある僕の手の甲に落ちている。



「その顔を見ているとね、私も嬉しくなるんだ。ああ、オーランドにとって楽しいことがあって良かったなあって。私にそのお手伝いが出来るなんて、嬉しいなあって」



 僕はそのとき不意に息を飲んだ。彼女と再会したときに過ぎったあの考えは、強ち間違いではなかったのだ。が剣を振っているのを見た、あの時に感じた漠然とした思いは。
 オーランドの存在を通して、は何か感じるものがあったのかもしれない。僕はあの時、そう思ったのだ。彼女の瞳に、ヴァイル殿の命と共に失われた光が宿っていることに気づかないほど、僕は彼女に対して無頓着ではないから。君はきっと、ようやく前に進もうとしているのだ。ならばどうして、君がその思いに従って行ったことを、僕が咎めることができようか。
 はヴァイル殿が亡くなられてから、色んなものが欠けてしまって、どうにもならないようであった。僕はそれを、どうしてやることもできずにいた。
 どんな顔をしたらいいのか分からなくて、それでもどうにか笑みを貼り付ける。僕の笑みを不自然に思ったのか、が首を傾げるから、咄嗟に「紅茶を淹れるのが上手くなったな」と褒めれば、は分かりやすく、ぱっと表情を輝かせてみせた。去年までののように。ただの天真爛漫だった少女の頃のように。



「美味しいよ」



 君を笑顔にさせてあげることもままならなかった僕は、いつか君のためにも、君を手放さなくてはならない。だが、それでももう少しだけ、傍にいることを許してもらえるだろうか。
 の幸せを遠くから祈ることが出来るほどの男になるまで、もう少しだけ時間はかかりそうだけれど。








 オーランドの言葉を伝えるとき、うっかりローレンツくんのことをオーランドの発した言葉通りに「婚約者」と口走ってしまって、焦った。とは言え目の前にいたローレンツくん本人は気づいていなかったようだったから、安堵の息をこっそり吐き出す。細く、長く。この動揺が部屋の空気に溶けてしまうように。
 ローレンツくんは多分、私の婚約者として扱われることを好ましく思っていない。実際に二人きりになっても今後の、結婚についての話をされる気配はないし、私達の関係性は士官学校に居る頃からなんら変わらなかった。折を見てこの関係を解消されるだろうことは明白だ。それは何も今日明日のことではないだろうけれど、この内戦がある程度落ち着く頃には、切り出されることになるだろう。それくらいの覚悟しておくべきかもしれない。
 私はローレンツくんの考えていることがさっぱり分からないし、かといって、本人に直接確かめる勇気もない。そもそも私達のこれは、同盟のための婚姻だ。帝国の侵略を逃れるためこうする他なかった以上、私はこの婚約を真に受けるべきではなかったのかもしれない。
 婚約が解消されたその時、アレキサンドルは一体どんな形になっているのだろう。グロスタールに統合されたままなのか、或いは独立を認めてくれるのか。いずれにせよ私はローレンツくんの、グロスタールの決断に従うしかない。
 彼のためを思うならば、その未来を祝福するために、いつか私は彼の支えがなくても一人で立てるようになっていなければならないけれど。
 私は自分がだめになりそうだった時に傍にいてくれたローレンツくんのことを大切に思っている。
 だけどそれが果たしてどういう感情によるものなのかを説明することは、まだできそうにない。


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