ドロテアさんは翌朝アレキサンドルの屋敷を発った。
 子供達は名残惜しそうにしていたけれど、ドロテアさんに一人ずつ抱きしめられて、何かおまじないか内緒話でもするような様子で二、三の会話をし、頭をぽんと撫でられると、きゅ、と唇を引き結んで頷いた。きっとドロテアさんはあの子達にとって、お姉さん代わりだったんだろう。



「じゃあちゃん。……ちゃんのお母様も、どうかこの子達をよろしくお願いします」



 深々と頭を垂れるドロテアさんに、お母様と二人で慌ててしまう。



「そんな、こちらのことは気にしないでください」

「そうよ。昨日からお屋敷の中がぱっと華やいだみたい。これから可愛い子供たちと暮らせるなんて、幸せだわ」



 お母様の言葉は気遣いではなく本心だ。
 お母様はグロスタールに領主としての権限を受け渡したことで、私以上に時間を持て余していた。私はアレキサンドル地方における税の取り纏めや作物の収穫表を作るなどといった、お兄様が領主をしていた頃からしていた簡単な政務のお手伝いをすることはあったけれど、お母様はもう完全に隠居の身だ。日がな花壇の手入れをしたり、読書をしたり、私と一緒にお菓子を作ったり。お父様が亡くなられてからはずっとそんな日々を過ごしていらしたのに、花冠の節にはお兄様まで失われてしまったから、それこそ本当にこの子たちの存在に救われたように感じられるのだろう。
 ドロテアさんがお母様の言葉に一瞬何かを汲み取ったような目を見せたけれど、彼女がその件について触れることは最後までなかった。触れないでいてくれることが、有り難かった。



「ありがとうございます。何年経っても、必ず迎えに来ますから」



 そう言ってドロテアさんは屋敷を去った。その姿が見えなくなるまで、特に年少の二人の子供達はずっとドロテアさんに手を振っていたし、ドロテアさんも何度も何度も振り向いて、手を振り返していた。
 その姿が完全になくなる頃、項垂れてしまったように俯く子供達の傍にしゃがみ込む。傷ついたような目をしていなかったことが救いだった。きっとドロテアさんを信じているんだろう。
 だから、彼女がいつか戻ってくるその日まで、三人を守らなくては。いつか大人になってこの日々を振り返ったとき、少なくとも彼らが暗い顔をしなくて済むくらいには。



「ねえ、お姉ちゃんとお屋敷の探検しよっか?」



 そう尋ねれば、まだ幼い二人の子供達はそれぞれ表情に差はあったものの、確かに頷いてくれた。最年長の男の子だけには僅かに冷ややかな目をされてしまったけれど、ドロテアさんの前では彼も素直に返事をしていたから、きっと私への信頼が薄いせいだろう。どうしたら良いだろうかと考えながらも微笑めば、分かりやすく目を逸らされてしまった。








 三人の中で一番背の高い男の子はオーランドと言った。十二歳で、本当はアドラステアで働いても良かったんだけど、ドロテアが許してくれなかったとほとんど目も合わせずに口にした。ドロテアさんのことだから、その年齢で働くときに生じる困難を想定して引き留めたのだと思う。
 七歳の小柄な男の子はノエル。この子は一番泣き虫だったけれど、幼いながらにやたらと顔立ちが整っていた。どうやら母親が歌劇団でも人気のあった人だったらしいのだけど、二年前に病気で亡くなってしまってからは、ずっと歌劇団の皆に育てられていたと言う。
 ソフィーは唯一の女の子だ。おしゃまさんで、いつもくまのぬいぐるみを連れている。屋敷に来たばかりの頃、一番怯えていたのはソフィーだったけど、今ではころころと表情が変わって愛らしく、領民たちからも可愛がられている。
 ノエルとソフィーは特にお母様にべったりで、よく膝の上に乗せてもらっていたり、手を繋いで庭園を散歩したりしていた。それをどこか距離を取って見ていたのが十二歳のオーランドだ。お母様には「オーランドのことを気にかけてあげてちょうだいね」と言われたので、なるべく声をかけるようにしてはいるけれど、これがまた難しい。年頃の男の子の考えていることってよく分からないし、そもそも何だか避けられている気すらするのだ。最近では最早廊下の先に私の姿を認めると、すれ違う前にすっと姿を隠されてしまう。
 ローレンツくんに相談したいのに、最近は特にお仕事が忙しいのか、彼がグロスタールからやって来る様子はなかった。最後に会ったのは赤狼の節に入ったばかりの頃だったから、もう一節は会えていない。そう思うとちょっぴり寂しいのだけれど、訴えるべき本人の姿がないのだから胸に秘めておく他ない。



「オーランド」

「……うわっ……なに?」



 庭園で追いかけっこをするお母様とノエルとソフィーの姿を、屋敷の三階から眺めていたオーランドに声をかける。いつもだったら逃げられてしまうけれど、彼の死角から気配を隠して近づけば、近づいてもそうそう気づかれないらしい。「オーランドも一緒に追いかけっこする?」と彼の隣に立って、お母様から逃げる二人の姿を見下ろす。こうしてみると、ノエルもソフィーも、お母様の子供のようだ。



「……するわけない。俺は、あそこまで子供じゃないから」



 一節の半分ほどを彼らと過ごしてきたけれど、早々に打ち解けたノエルとソフィーと違って、オーランドは私にもお母様とも距離を取り、屋敷の中をうろうろするだけの一日を過ごしていた。
 もしも今が収穫の時期だったら、もしかしたら「働きたかった」と言っていた彼も多少は発散する場所があったのかもしれない。領民達に混ざって畑仕事を行うオーランドの姿を想像しようとしても、なかなか上手くはいかなかったけれど。
 そっかあ。追いかけっこは嫌かあ。と、どうしたらいいか考える時間を稼ぐため、少し間延びした声で頷く。



「十二歳だもんね。私が十二歳のときっていったら……剣の稽古ばかりだったかな」

「剣?」



 本当は舞踊の思い出の方が濃く残っていたけれど、それは伏せておいた。オーランドの丸い瞳がちらりとこちらを向く。こうして彼と一緒に暮らすようになってから随分経ったけれど、初めてしっかりと目が合ったように思えた。もしかしたら、興味があるのかもしれない。



「うん、剣だよ。アレキサンドル流剣術、なんて言うほど大したものじゃないけど」

、剣使えるの?」

「使えるよ。士官学校ではずっと傭兵をやってたつよーい先生に筋が良いって褒められたの」

「そうなの?」



 オーランドがこんなに食いついたことは初めてだったから、ちょっと話を盛ってしまった。ベレト先生、利用してしまってごめんなさい。心の中で謝罪しながらも「良かったら剣、教えようか?」と尋ねれば、オーランドはほとんど反射で「やりたい」と言った。けれどその直後、少し躊躇ったように目線を落として「いや、でも俺でもできるのかな」と消え入りそうな声で呟くので、何だか胸がぎゅうとなってしまう。



「できるよ! 大丈夫!」

「本当に?」

「本当! やる前から諦めるなんて、諦めている間こそが時間の無駄ですって私の友達も言ってたよ」

「無駄……」

「時間は有限です。学べるときに学ばずどうするのですか。だよ」



 リシテアちゃんのことを、面識のないオーランドは知らないだろうけれど、私はついつい彼女の口調を真似してしまった。
 彼の榛色の目は、だけどその瞬間確かに迷いを拭い去ったようにはっきりと強くなった。
 オーランドに少しでも夢中になれる何かができるんだったら、きっとそれが一番良い。その手伝いをしてあげたいのだ。お節介かもしれないけれど。








 頭が痛い。
 前々からアケロン=レーテ=フレゲトン領主としてまともな働きもできないボンクラだとは思っていたが、帝国に降伏した今や、その統治は惨憺たる有様だ。内戦に突入したとはいえ、その戦線は常にリーガンに隣接するグロスタールが抑え込むと想定しているのだろう。まともに兵を再編することもせず、領地に盗賊が出るようになっても放っておく。だというのに税だけは戦時中だからと引き上げて、あれでは近く暴動が起きてもおかしくない。あの男のことだから、そんな事態に陥ったところで、武力で抑え込むのだろうが。
 我が領地の外で起きているとは言え、見るに堪えないものがある。父にグロスタール兵を送ってミルディン地方の治安を回復すべきではないかと進言したが、聞く耳を持ってもらえなかった。父は今、リーガンしか見ていない。
 のことを心配していなかったわけではないが、そういったことに気を取られてアレキサンドルから足が遠のいていたのは確かだ。最後に訪れたのは赤狼の節のはじめだっただろうか。日々はあっという間に過ぎ去って、それでももうすぐガルグ=マクの落成日になる。つまり、の父君が亡くなって一年が経とうとしているということだ。
 この一年は瞬きをする間に終わってしまったと言っても過言ではない。僕は今でも士官学校にいた日々のことをありありと思い出すことができるのに、あれはもう遠い過去のことなのだ。
 全く踊ることができないに舞踊を教えた星辰の節の日々、初めて僕と踊りきったときの彼女のあの晴れ晴れとした笑顔。僕はあの時の君の瞳をもう一度見たい。そんなことを思っているけれど、それはもう難しいのかもしれない。だってあの子の世界は、それをきっと許さない。








 星辰の節も半分以上が過ぎた日のことだった。村の視察を終え、早朝にそこを発った僕は当初の予定通りアレキサンドルへと馬を走らせた。の父君の命日をアレキサンドルで過ごすため、前倒しして仕事を片付けてきたのだ。ほとんど休息にあてるつもりでいたから、従者はグロスタールに帰らせた。一人で馬を走らせることも久しぶりだ。風を切る音を耳にしながら、それでも彼女のことを考える。
 は連絡もないままにいた僕に、幼馴染みの持つ気安さをもって笑いかけてくれるだろうか。去年の彼女だったら、そうしたのだろうなと思う。僕は一年前まで理解できていると思っていた彼女の思考を、今では自信を持って「こう考えているだろう」と断定することができない。
 その日は前夜から珍しく晴天だったけれど、熱の放射を遮る雲がないせいか冷え込んだ。霜が降りたアレキサンドルは今、収穫の時期からは外れていて、ひっそりと静まりかえっている。なだらかな傾斜になっている麦畑の脇を緩い速度で通過すれば、の住まう屋敷はもう目の前だ。妙な緊張感を抱いてしまう。たった一節と半分離れていただけで、更に言うならば、これから先、こういうことはもっとあるだろうに。



「力任せに振っちゃだめだよ。ちゃんと相手の動きを見て」



 馬を下りて屋敷の外にある厩舎に馬を繋ぎに行こうとしたとき、不意にそんな声が響いた。の声だ、そう気づいて顔をあげたとき、僕は息ができなくなったような気がした。



「目を瞑らない!」



 屋敷の脇にある芝生だった。がその剣を振っていたのは。僕が思わず呆けてしまったのは、彼女がそうして剣を握る姿を見ること自体久しぶりだったためだ。いや、表情のせいかもしれない。最近の彼女はいつもどこか物憂げで、以前のようにその表情をくるくると変えたり、声を張り上げたりすることはなかったから。
 しかし、あの少年は一体誰だ。
 ガキ、と鈍い音がする。見知らぬ少年の手から弾かれた年季の入った訓練用の剣が、弧を描きながら宙を舞った。それが馬を下りた僕の目の前に落ちたとき、はようやく僕の存在に気がついたらしい。ぱっと目を見開いて「ローレンツくん!」と叫んだは、いつも屋敷で彼女が着ていたような、ゆったりとした裾の長い下衣ではなく、士官学校時代を彷彿とさせるような出で立ちをしていた。
 こんな早朝から何をしているんだ。ほとんど出かかった言葉が喉に詰まる。彼女がこの少年に剣の訓練をつけてやっていたのは誰の目から見ても明らかだったからだ。
 と一緒に居た少年は長いため息を吐いた後、地面に突き刺さった剣を無言で引き抜くと、じっと僕の顔を見つめた。年の頃は十二、三ほどだろう。額に浮いた汗を手首で拭うと、そのまま踵を返す。目鼻立ちのはっきりとしたその少年は、僕に会釈の一つもしなかった。



「あっ、オーランド、この人がローレンツくん!」



 は彼にそう伝えているけれど、本来ならば先に彼のことを僕に紹介すべきではないだろうか。一度はの方に向けた視線を僕に戻したオーランドとやらは、無遠慮に僕の頭のてっぺんからつま先までを見下ろすと、言葉もないままにまたすぐ目を逸らした。まさか何らかの事情で言葉が話せないのだろうかと同情しかけたが、それは即座に否定されることになる。
 剣を鞘に収めた彼は、の傍まで向かった。そのまま彼女の耳元で何かを囁くと、は「えっ」と分かりやすく狼狽してみせるから、僕は状況がまるで掴めないながらも、ただただ仄かな苛立ちを募らせるのだ。話せるのならば自分で名乗るくらいはしたまえと。
 オーランドはを一人放置し、屋敷の扉を開けて中に入ってしまう。彼が何者なのかは分からないが、村の方ではなく屋敷に入っていったところを見るに、どうも客人であるようだ。身なりは悪くはないものの礼節に欠けるという点で程度が知れるが、は「もう〜」と音を立てて閉じられる扉を見送るだけだった。
 彼は一体何なんだ。なぜ剣の訓練を君がつけてやっているのだ。そういったことを問いかけようと開きかけた唇は、の視線によって閉ざされることになる。



「ローレンツくん」



 その頬に赤みが差しているのは、直前まで剣を振っていたからなのだろう。けれど、彼女の瞳の輝きは、僕のよく知るのそれであるように思えた。朝露のように煌めいていたのだ。



「ごめんね、その、あの子ちょっと人見知りで。あとで言い聞かせておくから」



 僕の知らない一節と半分の間に一体何があったのだろう。尋ねたいことは多くあったが、申し訳なそうに謝られてしまえば飲み込まざるを得ない。先の少年の存在が関係しているのかは知らないが、赤狼の節に別れたときよりもずっとの表情が生き生きとしている。僕はそれが嬉しかった。もしも彼女の表情が明るくなったことの理由に彼の存在があると言うのなら、あのオーランドとやらが働いた無礼を見逃してやっても良いように思えるくらいには。



「…………その、。元気そうで、何よりだ」



 は僕の言葉に一瞬、照れたように笑みを浮かべかけたけれど、はっとしたように目を開いて、それから堪えるように唇を噛みしめた。額に浮かんだ汗が、普段の彼女よりもずっと自身を健康的に見せていた。「ローレンツくん」まるで、ガルグ=マクにいた頃のように。



「随分ご無沙汰でしたねえ」



 拗ねるような口調で言われてしまえば、僕は咳払いをして、己の口元を隠さざるを得ない。胸の内側がいっぱいになって、消えて良いはずのない罪悪感が、そのまま飲み込まれてしまいそうですらあった。


prev list next