1181年 冬
グロスタールとリーガンの間に勃発したレスター諸侯同盟における内戦は、リーガンがグロスタールとの境である街道を封鎖したことから始まった。
おじさまもこれに負けじと兵を置いたことで、規模はそれほど大きくないもののあちこちで衝突が見られるようになる。反帝国派の中心となるリーガンを支持したのはゴネリル、エドマンド、それからダフネルで、北部の小さな諸侯がそれに続く。一方親帝国派の同盟領南部をまとめていたのがグロスタールだ。国力を失い衰退しているコーデリアと、元々問題児として白眼視されていたアケロンの治めるミルディン地方北部、それから既にグロスタールの一部にはなったけれど、兵糧はあるものの武力をほとんど持たないアレキサンドル。武力にしろ財力にしろ、反帝国派が安定した力を持っていたのは誰の目にも明らかだったと思う。
この年の赤狼の節には、元アレキサンドル領の付近も、時折リーガンの兵が哨戒に来る姿が見られるようになった。それを常駐するグロスタールの兵士が武器を持って追い返す。リーガンの兵はいつも、まだ攻撃する意図はないとでもいうかのように後退していくそうだ。
リーガン兵を追い返した彼らが領民たちに出迎えられる姿を見ていると、何だか不思議な気持ちになる。あの時何か一つでもずれていたら、こんなふうにはなっていなかったんだろうなと、まるでどこか他人事のように考えてしまうのだ。
もしかしたら今頃帝国に飲み込まれていたのは王国ではなくて同盟だったかもしれない。もしかしたら今アレキサンドルの領地にいたのはグロスタール兵ではなくてリーガンの兵であったかもしれない。無数の「もしかしたら」は夥しい数の後悔の粒になって私を襲うから、だから、そういうことを考えるとき、私は自分が自分でなくなったような感覚をもって、空想する。同時にこの空想が全くもって無意味であることもまた自覚している。
だけど抗えない流れというのは目に見えないのに確かにここにあった。私はもうずっと昔からそこに足を浸しているように思う。いつからだったかなんてもう分からない。私は一人じゃないはずなのに、ふとした瞬間どうしようもない孤独に襲われるのだ。
考える時間を自分に与えないように、私は兎に角自分自身に課題を課した。グロスタールから来てくれた兵士の皆さんの顔と名前を覚える。領民たちの農作業に混ざる。墓石を磨く。お母様の話し相手になる。読書をする。お父様のお部屋にあったセイロス教の本を眺める。焼き菓子を作って皆に振る舞う。剣の鍛錬に混ぜてもらう。
そんな日々でも、恐ろしいほどに時間が経つのが遅かった。そのどれもが充実していたはずだ。私は笑っていたし、皆は優しかった。例え足下は濁流でも、支えてくれる人がいる。ローレンツくんは腫れ物に触るようにしてくれる。そんなことしなくていいのに。前みたいに呆れたり、叱ってくれて良いのに。だけどそういうことを飲み込んでしまう私も、もう前みたいに、何の疑いもなく笑っていられるような子供ではなくなってしまっている。
冬になる。王国の方では、既に帝国がフェルディア以西の制圧を、ほとんど完了しているらしい。
その人は前触れもなくアレキサンドルの屋敷を訪れた。
星辰の節に入ったばかりのある日だった。気温が下がり、天候も安定しないこの時期は、領民も農作業を休む。他の節に比べれば静かな昼下がりだった。丁度一年前の舞踏会の夜、私の手を取って微笑んでくれたその人は、出迎えた私の手をあの時と同じように取った。驚くほど冷たい手だった。
彼女はそして、あの頃と変わらない笑顔で「久しぶりね、ちゃん」と小さく首を傾げたのだった。士官学校の制服を脱いだその人はやっぱり垢抜けていて、アレキサンドルの長閑な風景には不釣り合いだったけれど。
「……ドロテアさん」
驚きすぎると、もうそれ以上声も出なくなってしまうらしい。
商人や一般人が帝国領から同盟領に入ることは、今はさほど難しいことではない。国境沿いは親帝国派のアケロンが治めているから、同盟と帝国の間に流れるアミッド川に架かるミルディン大橋は、手続きさえしてしまえば行き来を許可されている。勿論内戦が起こっているため、そこからリーガンのある北側に向かうことはそう簡単ではないけれど。
そうはいっても彼女の所属していたミッテルフランク歌劇団は、帝都のアンヴァルに拠点を構えていたはずだ。フォドラの大陸の南に位置するアンヴァルからとなると、レスター諸侯同盟の内陸にあるアレキサンドルまでやって来るには簡単なことではない。
ましてや、子供達を連れてだなんて。
ドロテアさんの後ろには三人の子供達がいた。性別も年齢もばらばらで、共通点と言えば皆揃って痩せていることくらいだろうか。その身なりが汚れているわけではないけれど、どこかアレキサンドルの子供達とは違うのは、彼らが怯えたように、ドロテアさんの陰から私を見つめていたからだ。ドロテアさんの弟妹だろうか。いや、それにしては似ていない。無遠慮に見つめすぎていたのか、一番小さな女の子が完全にドロテアさんの両足に隠れてしまったので、「わあ、怖くないよ!」と慌てて口にしてしまった。
屋敷に招き入れると、ドロテアさんは「ごめんなさいね、突然押しかけちゃって」と一年近くの隔たりを感じさせない口調で言うから、私もすっかり戸惑いや動揺をなくしてしまった。
「いえ、それは全然。嬉しいです。まさかドロテアさんに会えるなんて……」
こんな戦争が起きてしまっては、アドラークラッセやルーヴェンクラッセに所属していた皆とはもう一生会えないかもしれないとすら思っていたから。その言葉は、さすがに飲み込んだけれど。
応接室にドロテアさんたちを案内する道中、お母様が騒がしさに気づいたのだろう。部屋から出てきてくださったので、「士官学校のお友達です」とドロテアさんを紹介する。
途端にお母様ははっとした顔をなさるから、何事かと思ったけれど、よく考えればお母様は去年、ミッテルフランク歌劇団の演劇を見てからその世界にどっぷりはまっていたのだった。数年前まで世間を騒がせていた歌姫だったドロテアさんを知らないはずがなく、ほとんど少女のように目を輝かせて「まあ〜! ミッテルフランクの!」と歓声をあげられるので、私はすっかり恥ずかしくなってしまった。
ドロテアさんの方は慣れているのだろう。完璧に整えられた笑顔で「ご存知いただけているなんて、光栄です」とお辞儀をしてくれるから、お母様は益々喜ばれる。
「あら」
その時、ドロテアさんの傍にくっついている子供達の姿をみとめたお母様は、わざわざ目線を合わせるために屈まれた。
「坊や達、お嬢ちゃんも。お腹すいてないかしら。向こうにお菓子があるのだけど、一緒に食べましょう」
お母様の言葉に、子供達はぱっと目を輝かせる。それまで頑なにドロテアさんの傍から離れなかった子供達が、もじもじとドロテアさんを見上げている姿はいじらしく、可愛い。一番背の高い男の子は、一人、どこか困惑したような表情を浮かべていたけれど。
「すみません、良いんでしょうか」
恐縮したように眉を寄せるドロテアさんに、お母様は微笑んで「勿論よ」と答えると、そのまま別室に子供達を連れて行ってくれた。元々子供が好きな人だから、久しぶりに領民以外の子供と関わることができて嬉しいのだろう。とは言え、それが気遣いによるものでもあることはわかりきっていたから、小さな声でお礼を言う。
お母様は私に笑みを返すと、一番背の低い子たちの手をとって、並んで歩いて行ってしまった。その背中を見送るドロテアさんは、どこか安堵したような顔をしている。気の抜けた、優しい目だった。
少なくともガルグ=マクでは、ドロテアさんのこんな顔は見たことがなかった。
「あの子達ね、孤児なの」
二人で話すならばと自室に案内したとき、ドロテアさんはそう言った。
ローレンツくんのためにお茶を淹れる練習は欠かさず行っているから、それなりに飲めるものは出せるはずだ。好きな茶葉を聞いて、適切な時間蒸らしていると、それでも何だか落ち着かないような気持ちになってしまう。自分の部屋にお友達、それもドロテアさんがいるなんて。
どうして彼女はアレキサンドルに来たんだろうか。あの子たちは一体ドロテアさんとどういう関係なんだろうか。そういうことを、果たして聞いても良いものだろうかと考えている私を見透かすようにドロテアさんが切り出したから、私は目線だけを彼女に向けた。
「孤児っていっても、今回の戦争による孤児、ってわけじゃないのよ。美しい帝都にもね、そういう影みたいなところってあるの。路地裏では毎日人が死んで、子供は親に捨てられて、病気は蔓延する。理不尽な暴力で命は奪われる。救えなかった子たちが、何人もいる」
「……そう、だったんですか」
「それに比べれば、この辺りは良いわね。長閑で、空気が澄んでいて。間違っても人がおかしくなるような淀んだ臭いはしない」
だからちゃんみたいな子がいるのね。嫌みでもなんでもないように、彼女はそう言う。
私は帝都に行ったことはないから、ドロテアさんの話を聞いてもぴんとこない。アンヴァルは温暖で、美しい街並みをした、華やかな都市だと思っていた。だけど、裏を覗けばドロテアさんの語るような世界が広がっている。それでも想像しにくくて、視線を彷徨わせる。
「本当はね、歌劇団でそういう子達の面倒を見ていたの。でもこの時世でしょう? 歌劇なんてものは求められない。結局休業することになっちゃってね。この半年は昔の仲間達の疎開を手伝っていたんだけど……あの子たちだけは行き場がなくて」
そこでドロテアさんは、一度言葉を切った。
「ちゃんが今大変なのも、知っているわ。……お兄様の件だって、帝国の人間としては謝罪してもしきれないもの。帝国の進軍は免れたとは言え、同盟だって安全な場所とは言い難い。戦火に巻き込まれないっていう点で言えば……こんなこと言うのもおかしな話なのかもしれないけれど、アンヴァルの方がきっと可能性は低いかもね。でも」
机の上に置かれたその滑らかな手の平が、躊躇いがちに私のそれに重ねられる。明るい翡翠の色をしたその瞳が、強く私を見据えた。私が失った熱を、彼女はまだ持っているように思えた。
「私はどうしても行かなくちゃいけないところがあるの。だから、どうかあの子達の面倒をあなたに見てほしい」
それは、エーデルガルトさんのところなのだろうか。
彼女ははっきりとは言わなかったけれど、きっとそうなのだろう、私はそう考える。ドロテアさんは、なんだかんだ言ってエーデルガルトさんのことが好きだったんだと思う。士官学校でも、隣を歩いている姿を見かけたことは何度もあったから。そういう時、彼女はいつも自分に近寄ってくる男性を追い払っていた。呆れたように目を細めるエーデルガルトさんを、彼女は誰に向けるよりも優しい目で見つめていた。
歌劇団を一時的にとは言え解散することになった今、他のアドラークラッセの皆と違って、しがらみはもうドロテアさんにはないはずだった。それこそ、そのままどこかへ移住したって良かった。それでも彼女は戻ろうとしているのだ。そしてその時、居場所のないままの子供たちを放っておくことがドロテアさんには出来なかったのだろう。心に迷いがある状況で、エーデルガルトさんの元へは行けなかった。ドロテアさんにとっての最後の「迷い」があの子たちだ。
私の瞳を、ドロテアさんはじっと見つめている。その指先が震えているのが分かる。小さな子供達の、怯えたような瞳がどうしてか彼女のそれに重なって見えた。
本来であれば臣従を表明したとは言え、敵国の人間に託すなんて、おかしな話だとは思う。だけど多分、ドロテアさんは帝国の人間として、同盟の私に頼んでいるのではなく、一人の友人として私を頼ってくれているのだ。
それをどうして断ることができるだろう。
「わかりました。……私にできるだけのことはします」
そう続けた私に、ドロテアさんがぱっと目を見開く。幸い、アレキサンドル地方は食糧だけは豊富だ。屋敷には部屋もあまっているし、お母様もきっと快諾してくださるだろう。
ローレンツくんは、この内戦は恐らく帝国に攻め込まれるのを避けるため、意図的にクロードくんが引き起こしたものであるだろうと口にしていた。そうでなければ、こちらに比べて武力のある反帝国派にあっという間に攻め入られ、制圧されて終わりだと。リーガンの兵士が小競り合いを起こすことはあっても決して領地の侵攻には至らなかったのが、その証左だ。私達親帝国派の膜を失えば、同盟はそのまま帝国に潰される、恐らくそれを読んでいるから、クロードくんは本気で戦うことはしないと。つまりこの内紛劇は帝国の目を他に向けさせるための時間稼ぎらしい。それがいつどのような形で次の段階に移行するかは、ローレンツくんにも分からないようだけど、でも、クロードくんのことだ。きっと何か策があるに違いない。私達はそれを信じているのだ。
内戦中であるとは言え、すぐに激しい戦火に見舞われる可能性はない。それを予想していたからこそ、私は頷けた。預かった命を奪われてしまうことだけは避けたかったから。
そういう事情を、ドロテアさんに伝えるわけにはいかなかったけれど。
「ありがとう、ちゃん!」
「わっ」
机越しにドロテアさんに抱きしめられる。思いのほか腕の力が強く、一瞬息ができなくなってしまった。
「ド、ドロテアさん、く、くるしいです」
「うふふ、嬉しくて、つい。嫌だった?」
「い、いやじゃない、ですけど」
帝国に戻ってエーデルガルトさんの元に行くのであろうドロテアさんは、きっとここを出た瞬間、本質的には本当に敵同士になる。だけどドロテアさんが何も言わないから、私だって知らないふりをするしかない。少なくともここにいる彼女は帝国の兵ではなくて、私の友人だ。
「そうだ、大事なことを言い忘れていたわ」
その時不意にドロテアさんが口にする。抱きしめられたまま、頬に手を添えられて、ほとんど至近距離で彼女は目を細めて、言った。
「婚約したのよね。おめでとう、ちゃん」
その時、蒸らしすぎた茶葉の存在に気がついたけれど、もう今更どうしようもなかった。
おめでとう。その言葉が、じわじわと私を侵食していく。翡翠の瞳のその中で、私の顔が歪んでいく。鼻の奥が痛くて、泣きそうになっている自分に気がついた。そうか、おめでたいことなんだ、本当は。
面と向かって言われたのは初めてだったから、そんな当たり前のことも忘れてしまっていた。