1181年 秋


 お母様が私の部屋の扉を叩いたその時は、雨が降っていた。
 ほとんど小雨で、あれはすぐにやんだはずだけれど、お母様のお話を聞きながら私は自室の窓を緩く叩く雨粒の数を脳の別の部分で数えていた。だから、あの瞬間を思い出そうとすると、私は雨粒の中でただぼんやり息だけをしている人の形をした何かになるのだった。
 細やかな雨音に子供の笑い声が紛れている。それは過去の私やお兄様のものであるように聞こえる。机の下に潜って泣く私を、根気強く宥めてくれたお兄様の背中がすぐそこにある。今より少し髪の短い幼い私は、どうして我が儘ばかり言うのだろう。お兄様を困らせたりしたのだろう。幻のお兄様が何かを発したその瞬間、目の前のお母様が口を開かれたから、お兄様は泡になって消えてしまう。



「アレキサンドルが……同盟が滅びないためには、これしか方法がないの」



 私は間違っていたのだろうか。――間違っていたのだろう。自分に出来ることをしたはずだったけれど、あと少しで三百年続いたレスター諸侯同盟の幕を私が下ろすところだったらしい。それを食い止める方法は一つしか残されていなかった。アレキサンドルをグロスタールに併合してもらうこと。さもなければ、アレキサンドルは帝国の支配するところとなってしまうと、お母様は私に話して聞かせてくださった。お母様だってお兄様を失ってお辛いのに。私は同盟の行く末と同じくらい、お母様のことを案じている。
 この状況下に於いて円滑に事を進めるには、私とローレンツくんが婚約する必要があるらしかった。そう聞かされたとき、私はほとんどまともに動かない思考で、申し訳ないな、と思ったのだ。ローレンツくんの未来を、アレキサンドルが狭めてしまったと。
 どうしてか、同時に去年のことを思い出していた。大樹の節に皆と出会ったこと。足を怪我して、諸々の活動に遅れが生じてしまったこと。級長のクロードくんが責任を感じて面倒を見てくれたこと。ローレンツくんしか知り合いがいなかったのに、私はガルグ=マクでたくさんのお友達ができた。思い出だってたくさんある。レオニーちゃんとお買い物に行った、大浴場でヒルダちゃんといつまでもおしゃべりしてのぼせてしまった、鷲獅子戦も、舞踏会も、何もかも。楽しかったことの半分くらい辛かったことがあって、悩んで、乗り越えて、支えてもらった。私は皆がいる同盟を愛しているし、何が何でも守りたかった。
 アレキサンドルの存在が同盟を滅ぼすなんてあってはならない。同盟の、皆のためだったら、私は何も躊躇いはしない。
 お母様。そう声を出したら、存外それは掠れて、酷くみっともなかった。ご安心下さい、同盟を終わりにはさせません、と、それでもすかすかの声で呟く。だけど。



「……アレキサンドルを守れなくてごめんなさい」



 そう続けた私の身体をお母様は抱きしめるのに、私はこのとき、まだ、少しも泣けずにいた。
 そして私は帝国への宣言通り、ローレンツくんと婚約することになる。








 グロスタールがアレキサンドルを併合したと言う話は、あっという間に同盟領内に伝わっていた。
 併合というと、武力衝突の結果による帰順以外では領主同士での話し合いの結果至るものが大半であるが、今回両家を結びつけたのは、婚姻だった。アレキサンドル家当主の死により残された妹と婚姻関係を結ぶことによって、その領地や民をグロスタールは吸収した。
 要するに、ローレンツはと婚約したのだ。
 もしもこれが平時であれば、見方によっては婚姻を利用した領土の伸長であると批判されることもあったかもしれない。だが、今回は事情が違う。アレキサンドル伯を殺したのは帝国兵で、彼らはそのまま当主を失い混乱するアレキサンドルを傀儡するつもりでいたというのは、その状況が物語っていた。もしも帝国の思惑通りに事が進んでいたら、同盟は今の形で次の春を迎えることができなかっただろう。
 政略結婚と言えばそれに違いはない。だが、もしもこの婚姻が成らなかった場合に起きる悲惨な状況を思えば、この婚約は間違いなく正しい判断だったと言える。
 アレキサンドルを併合したグロスタールは、直後に帝国への臣従を表明した。ここに、親帝国派の筆頭と言える勢力が誕生し、同盟は二分される形となったのだ。



「いやあ、ローレンツが出来る男で助かったよ」

「あの子の機転のおかげで、首の皮一枚繋がったねえ、坊や」

「坊やはよせって言ってるだろ? ……だが、まあおかげで最悪の事態は免れた。後は俺の読み通りに帝国が動いてくれれば、同盟は多少なりとも生き長らえるさ」



 ジュディットはなぜかその時、俺の言葉にもの言いたげにその目を細めてみせた。それが何に対してのものなのかを推し量る気は俺にはないから、曖昧に笑ってねじ伏せる。代わりに「アレキサンドル伯の件はどうした?」と尋ねれば、ジュディットは思い出したように頷くが、その表情は、険しいままだった。



「ローレンツからの書簡にあった通り、アレキサンドルに送ったよ。……この時期は遺体が傷むのもはやいからね」

「悪いな、手間をかけさせちまって」

「いや、私にとってもあの子は……ヴァイルは、年の離れた可愛い弟みたいな存在だったから」



 どこか遠くを見るような目で言われたその言葉にどんな表情を浮かべて良いのか分からず、目線を机の上に落とす。俺は彼を良くは知らないが、情に厚いジュディットは割り切れないものがあるのだろう。
 首だけになったアレキサンドル伯をリーガンに埋葬する案もあるにはあったが、ローレンツの動き出しはそれを上回っていた。グロスタールがアレキサンドルを吸収し、帝国に臣従を表明したことが伝えられたのとほぼ同時にリーガンに送られてきた書簡には、アレキサンドル伯の遺体の一部の返却を願う旨が記されていた。見慣れたグロスタールの印はこれまで送られてきたものに比べると均一で、全体的に薄かった。几帳面で癖の少ない丁寧なあの字は、間違いなくグロスタール伯ではなく、ローレンツのものだった。
 その書簡にはそれしか記されていなかった。と婚姻を結んだことも、帝国につくことを選んだことも、今後のことについても。信頼されているのだろうな、というのは、それでも分かる。これからのフォドラのため、互いにその時の最善を尽くそう。そういう念が書簡に込められているようにすら思うのだ。だから、ああ、参ったなと思う。俺は縛られるのは、得意な方ではない。
 机の上に広げたフォドラの地図は、もうとうに見慣れた国境をもってそれぞれの国の形を知らしめていた。近くこれは急速に形を変えていくことになるだろう。俺の読み通りならば、王国の西から順に。
 同盟内はこれから内乱に突入する。反帝国派であるリーガンを筆頭としたこちら側と、親帝国派のグロスタール率いる諸侯達との争いだ。
 俺を当てにするなら、どうかこっちの意図も汲んでくれよ、ローレンツ。
 そう思いながら、地図上のアレキサンドルという文字に、線を引き、消す。
 こんな形で結婚なんてさせて、悪かったなと、心の端で思う。








 には伏せたままリーガンへ書簡を送った。ヴァイル殿の首を、彼女が気づかぬうちに埋葬するためだった。
 まだ夜が明けきらぬ早朝のことだった。空には薄く星が瞬いていて、夏だったというのに、やけに肌寒かったのを覚えている。すすり泣く従者達と共に、今度こそ本当にヴァイル殿を弔った。その日の前日、彼の墓石には文字が彫られたばかりだった。
 ヴァイル殿の首は腐敗が進みかけていたが、まだその面影は残っていた。伏せられた瞳の色を知っている。彼がどんな声をしていたかを覚えている。どれほどを愛していたかも。去年の守護の節、いざとなればグロスタールを頼ってほしいと僕は言ったのに、どうしてそうしてはくれなかったのだ。責めるようにそう思ってしまうのは、貴方がこの世からいなくなってしまったことで、が押し潰されそうになっていることを知っているからだ。
 彼の魂が、天上へと導かれるように祈る。
 僕は元々セイロス教の敬虔な信者とは言い難く、聖句を諳んじることはできてもその意味を正しく解釈し飲み下す域には至っていないし、今後も深く学ぶ気はない。形だけのものになってしまうが、それでも、どうか安らかに眠って欲しい。そう願う。貴方がいたからこそ、として、朗らかで、優しく、天真爛漫な少女として成長したのだから。
 従者達が捧げる祈りの言葉に紛れるように、梟が鳴く。僕は翌朝、アレキサンドルを発つ。 








 その年の夏の終わりに、王国で政変が起こった。
 ディミトリくんの代わりに国政を担っていた摂政、リュファス様が暗殺されたのだ。
 リュファス様はダスカーの悲劇で命を落とされたランベール前国王の実兄にあたる方で、その政治の手腕に関してはあまり良い噂は聞かなかった。彼の治世になってからファーガスの各地で争乱が相次ぎ、その体制が揺らいでいたというのは王国内外でも有名な話だ。王国の政を担っていたリュファス様が亡くなられたのなら、後継として立つのはディミトリくん以外にいないだろう。誰もがそう思っていたはずだ。
 しかし、リュファス様につけられた厳重な警護を掻い潜り彼を殺害したとして糾弾されたのは、ディミトリくんその人だったと言う。リュファス様を殺害せしめるには、彼以外には到底不可能だった、そんな言い分をもってして、彼は処刑された。
 彼の処刑を先導したのは、王国に長く仕えていたコルネリアという魔道士の女性だったそうだ。
 王国で一体何が起きているのかは私には分からない。だけどこの一連の事件について、秋口、アレキサンドルの屋敷を訪れたローレンツくんは眉を顰めて、ほとんど独り言のように「きな臭いな」と言っていた。
 その日私が淹れた紅茶は贔屓目に見たって渋かったのに、ローレンツくんは黙って飲み干すから、私は「お茶も上手に淹れられずごめんなさい……」とお茶請けの甘いお菓子を彼に勧める。そっちの方は口に合わなかったのか、あまり食べてはくれなかったけれど。
 ローレンツくんは、もうずっと忙しいみたいだ。ほとんどをグロスタールで過ごして、グロスタールのおじさま(いずれはお義父さまと呼ぶべきなのだろうか)の政務を補佐している。あの大々的な帝国への臣従表明、及び私との婚姻に依る領土の伸長を公表した後は、私の過ごすアレキサンドル地方には一節に一度訪れるかどうかだ。
 アレキサンドルにはグロスタール兵が常駐することになったけれど、皆気の良い人ばかりだった。平和すぎるからって、農作業に混ざってくれるくらいには。領民達も彼らを快く受け入れて、今では鎧姿と作業着姿の大人達が角弓の節の晴れ渡った空の下、並んで食事を摂るのが当たり前の光景になっている。
 元々グロスタールはアレキサンドルよりも税が高かったけれど、とりあえず何年かの間は、これまでと同じ額を納めるということで話がまとまった。おじさまも、此度のアレキサンドルの合併についてはグロスタールに大きな利があることを認めた上で、そういった税の問題に関しては受け入れてくださった。
 ただ、一度グロスタールにご挨拶に出向いたとき、おじさまはほとんど私と目を合わせて下さらなかった。アレキサンドルの尻拭いをさせられているのだから当然かもしれない。それ以前に、リーガンの後継者の出現によりグロスタールと分かりやすく距離を置いたアレキサンドルを、おじさまはお許しになっておられないのだと考える方が自然だった。
 グロスタールは今帝国についてはいるけれど、おじさまも帝国と戦って勝利を収めるだけの可能性を同盟に見いだせば、同盟側につきたいとは思っていらっしゃるはずだ。元々人一倍同盟のことを考えておられる方だから。だから、同盟が危機に瀕したあの状況で最善の選択を取ることが出来たローレンツくんを、おじさまは誇りに思っていらっしゃる。



「気難しい人でね、気を悪くさせてしまったらすまない」



 ご挨拶の帰りしな、そうローレンツくんは言うから、私は慌てて首を振った。



「だが婚約からの領地統合という形で帝国兵を追い出した以上、それを今すぐ解消するわけにはいかない」



 そう彼は続ける。



「息苦しいかもしれないが、少しの間我慢してもらえるだろうか」



 解消とか、少しの間、とか、それってどういうことなんだろう。聞けば良いのに、ローレンツくんが何だか泣きそうな顔をするものだから、上手く言葉を口に出来なくなってしまう。
 私達は普段、グロスタールとアレキサンドルの屋敷でそれぞれ過ごした。こんな状況になっても民は私を慕ってくれるし、グロスタールの兵士たちも私を未来のグロスタール伯爵夫人として扱ってくれる。それはなんだかこそばゆいけれど。
 私はお父様とお兄様の墓守のような真似事をしながら、お茶の淹れ方を勉強したり政治の本を読んだりして、一節の間に一度か、多くて二度やって来るローレンツくんを待っている。「婚約」であって「結婚」ではないのだからそれでいいのかもしれないけれど、何だか気勢を削がれてしまったような気分だ。
 ローレンツくんは、ちょっぴり余所余所しい。あまり目を合わせてはくれないし、どうしてか、良く謝るようになった。謝らなくてはいけないのは私の方なのに。
 だから、ローレンツくんは本当には、こんな私とは結婚する気はないのだろうなと漠然と考えている。
 私は彼に、無理をさせてしまっている。








 一方王国では、コルネリアがディミトリくんの刑の執行を宣布した後、王都フェルディアを含むブレーダッド領を制圧するに至った。その後はファーガス公国と自称して帝国の支援を受け、軍を再編し、王国東部にて抵抗するフラルダリウス家やゴーティエ家の掃討をすべく兵を向けている。これを受けて王国西部に位置するローベ家をはじめとした領主は帝国への臣従を表明した。王国の中心が突然崩壊したのだから、それは仕方のないことだったのかもしれない。
 ローベ家と言えば、思い出されるのはアッシュくんだ。彼の養父であるロナート卿が治めていたガスパールはローベの支配下にあったはずだけれど、ならば彼もまた帝国への臣従をする選択をしたのだろうか。今の同盟内でヒルシュクラッセの皆がどんな風に過ごしているのかも分からないのに、外の皆のことなんて、想像もできなかった。
 帝国軍は王国の政変に干渉して勢力を伸長し、フォドラ西部の制圧を着々と進めている。
 帝国がその矛先を同盟から王国へと変更したらしいことは、誰の目から見ても明らかだった。
 他方同盟内においては、リーガン率いる反帝国派と、親帝国派のグロスタールとの領界で小競り合いが起こるようになっていた。
 1181年の秋、フォドラの地図はここから大きく塗り替えられていくことになる。


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