アレキサンドルからリーガンへ向かうには、途中大きな街道に出る必要がある。リーガンとグロスタールを結ぶその道は商人が多く行き交うから、「荷物」を頼むには都合が良かった。
南から馬を走らせて来た男を呼び止めて、アレキサンドル伯の首が入った木箱を手渡す。
「これをリーガンの盟主に届けてもらえないだろうか」
そう告げる私は帝国の鎧を着ているわけだから訝しがられて当然だが、それでも金を払えば何の文句もないらしい。先の村でもそうだったが、やはりこのレスター諸侯同盟という共同体が、自立心を尊ぶ一方で利己的な側面も持ち合わせているというのは、確かな事実であるようだった。
「……丁重に運べよ」
そう念を押せば、男は恭しくそれを抱えて馬を走らせた。あれは確か、ガルグ=マクにも商売に来ていた男だな。その後ろ姿を見送りながら、ぼんやりと考える。少し想像力を働かせれば、或いはあの男の勘が良ければ、あの箱の中身が重さや状況から何であるかは察せられそうなものだが、金を積まれたことで浮かれているらしい。リーガンにあれを送り届ければ、事情を聞かれるために数日は商売どころではなくなるだろうに、愚かなものだ。
これで役目は終わった。アレキサンドルの件を部下に任せた以上、私がこれ以上同盟領内に留まる理由はない。
帝国に帰るにしろ、しかしこのまま南下し、グロスタール領のど真ん中を堂々と通過することはさすがに出来かねた。グロスタールはアレキサンドル伯の指摘通り、まだ帝国への臣従を表明してはいないのだ。アレキサンドル伯の死によって、その意思は恐らく固まるだろうが。いずれにせよこの状況下において同盟内を堂々と闊歩することは避けるべきだろう。
大きく迂回せねばならないが、来た道を戻るのが賢明か。そう判断し、馬に跨がり、針葉樹林の林が伸びる道を行く。このままアレキサンドル領を突っ切り、グロスタールの西端を通過、そしてミルディン大橋を渡れば帝国領だ。帝都に戻るにはまだ距離があるが、部下達が滞りなくアレキサンドルとの「話し合い」を終わらせることができれば、もしかしたらどこかで合流できるかもしれない。
そういう計算をしていなければ、息が詰まりそうだった。
来た道を戻るというのは、そういうことだ。穀倉地としてしか価値のないアレキサンドルに商人の類がやって来るのは収穫の時期が終わってからだし、あそこの領民がわざわざ人手の足りないこの時期に街の外に出ることはない。この道は今、ほとんど使われることはないのだ。つまり私達が数刻前に襲撃した馬車も、数人分の遺体も、誰にも発見されることのないまま放置されていると考えて良いだろう。
あの時、真っ先に御者を殺したため、馬車は制御を失い、道を外れて林の中に突っ込んだ。逃がす気も、話を聞く気も最初からなかったのだ。とは言え、あれではほとんど山賊だ。自らの行いを省みて、思わず首を振る。
道から林の中に入ってしまった馬車が木の幹にぶつかって止まるまでは、さほどの距離でもなかった。車輪の外れかけたアレキサンドルの家紋が入った馬車も、そこで息絶えている人間の身体も、あの辺りを通りかかりさえすれば気がつく。遺体は、緑の中では痛いほど目につくはずだ。
あの時の映像ばかりがこびりついていた時点で、私が改めてそこで馬を止めてしまうことになるだろうとは、私自身も予測がついていたのだ。
戦闘の痕跡が生々しく残るその先で、彼らは数刻前と変わらない姿で事切れていた。
私が奪った命だった。馬車の傍で仰向けに倒れた御者、手首の飛んだ兵士、首のない男の身体。馬から下りて、歩み寄る。雨が降っていたが、雑草を濡らした大量の血を洗い流すには足りなかった。アレキサンドル伯の身体の横に落ちた首飾りに気がつく。首を切断する際に一緒に切れてしまったのだろう。その飾りは一見して宝石の類でないことは分かったが、ほとんど無意識に切れた紐を軽く結び直した。それ以外、どうしたら良いのか分からなかった。
一年も前の私であれば、ここで聖句の一つでも諳んじたのだろうが、今となってはそうすることで自責の念から逃れることもできない。帝国はセイロス教会と袂を分かったのだから。
本当は領地に戻してやるのが一番良いのだろう。そのためには一晩このまま放っておくのがいい。いずれにせよ明日にはがここを訪れるはずだし、そうすれば彼女は兄の遺体をアレキサンドルの土に還すだろう。
だが、にこれを見せるのはあまりにも酷ではないだろうか。
周囲を見回す。小高い丘でもあれば良かったが、生憎周囲一帯は林が続くばかりだった。同盟領の地理に疎い私は、貴方をどこに弔ってやれば、アレキサンドルを見守る英霊になれるかを知らない。
エーデルガルトには甘いと言われるのだろうか。ヒューベルトならば間違いなく口にするだろう。考えながら、アレキサンドル伯の身体の横に膝をつく。
雨で水分を含み、泥濘んだ地面を掘り起こす。道具があれば良かったが、首を送りつけるための箱は嫌になるほど気の利く部下が用意していても、埋葬のための準備などしているはずもない。
私はとうとう剣を抜いた鞘を地面に突き立てた。指よりはよほどまともに掘れるが、それでも土を掬うのは容易でなかった。だが、これが命の重さであっていいはずがない。黙々と地を掘り続ける。どうか貴方が空を瞬く星になれるように、そう考えたところで、染みこんだセイロス教の教えはそう簡単に私から剥がれ落ちてはくれないのだと知った。
完璧に埋葬し終えるまで、どれほどの時間が経ったか。ただの自己満足だ。こんなものは何の報いにもなりはしまい。だがそれでも全てが終わって見上げたフォドラの空に星が瞬いていたとき、私は、これから先も立ち止まりはしまいと誓った。誰を手にかけることになろうと、誰に恨まれようと、何を失おうと、いつか相応の報いを受けることになろうとも。
その命の限りまで、私は私の成すべきことをする。
だから今は、貴方にも、貴方の妹にも、謝ることはしまい。
墓石の代わりに地面に突き刺したアレキサンドル伯の剣に、亡骸の傍に落ちていた首飾りをかける。
その夜、執務室で書類の整理をしていたところにお母様がやって来た。
夕食の時は席に現れなかったお母様は、もしかしたら一人自室で泣いておられたのかもしれない。お父様を失って半年と経たぬうちに、帝国兵にお兄様の命が奪われたなどとあっては、気が狂ったって不思議ではなかった。けれどこうして私の前に立ったお母様は、まるで今日息子を失ったとは思えぬほどに毅然としていらした。幼かった我々に剣を教えてくださった日のように。
「」
お母様に名前を呼ばれ、しばしの間見つめ合う。やがて、お母様は私の頭をその身体に抱き寄せた。
その時視界が明滅したのは、不意に髪を後ろに引かれたように頭蓋が傾いて、天井に吊された灯りに目が眩んだせいだと思った。だけど、違う、私の目はお母様の薄い肩に落ちていて、そこには他に何もない。なのに、私は息が止まったのだ。そのあたたかさに、人の身体の柔らかさに。
罵られても仕方がないと思った。小さな領地で、紋章も現れなくなって久しいとは言え、アレキサンドルは同盟の中でも歴史ある家だ。それがここで、帝国に降る。母の腕の中で、それでも泣けない自分に驚いた。ただ胸が軋むような音をたてていた。鼻を啜ったのは母だ。あなたに泣かれたら、私はもう泣くことはできない。
「……申し訳、ありません」
そう呟いた私に、お母様が緩く首を振られる。あの時私が降ることを宣言したときの従者のそれとは違って、そこに含まれていたのは、ほとんどが悲哀の情だったように思う。吐き出した息が震える。昨日までお兄様が座っていた領主の椅子が視界に映る。窓の外から、帝国兵は私達を監視しているのだろうか。私が良からぬことを企まぬようにと。だけど、私にはそんな力は、最初からない。
とうに陽は落ちて、林に囲まれたアレキサンドルは一面を黒で塗りつぶされたように暗くなっていた。兄が死んだことは、リーガンやグロスタール、さらに他の領地にもいずれ伝播していくのだろう。もしかしたら王国にだって。
帰ってきてくれないだろうか。すべて間違いだったと笑って。そんなこときっとないのに、私は夢を見てしまう。
その日も朝から小雨が降り注いでいた。ほとんど霧状に降り続けるそれは、外套を目深に被った私の頬を撫でるように濡らしていく。
翌日、一人の帝国兵に連れられて向かった林に兄の死体は残されていなかった。ただ争いのあとは生々しく、ここで誰かの命が失われたらしいことは、私の目から見ても分かった。半壊した馬車は間違いなく私が手配したもので、一帯には血の臭いが染みこんでいるようだった。動悸で倒れそうだと思ったのは初めてだ。視界が狭まって、ほとんど焦点の合わない目で私は地面に突き立てられた何かを見る。
誰かが埋葬してくれたのだろうか。
剣が突き立てられたそこに、恐らく兄は埋められていた。帝国の兵士が私の隣で首を傾げるような仕草をしてみせたところを見ると、きっと心当たりがないのだろう。ならば一体誰が、疑問が一瞬脳裏を過ぎったけれど、そんなことはどうだって良かった。
付き添ってくれた帝国兵に止められる間もなく膝をつく。指で土を掘り起こす。水分を含んだそれは私の指先にこびり付いた。そうしているうち、すぐに触れた何かがあった。指に力を入れて掘り返せば、それはお兄様が履いていらした靴だとすぐに分かった。
鼓動だけが耳についていた。土の中から現れた黒い靴に、どうして吐き気を催さぬことがあるだろう。どく、と、痛いほど胸が鳴る。弾かれるように手を引いたその瞬間、墓石代わりにされていた剣の柄に手が当たった。その端にかけられていた首飾りが地面に落ちるのを、視界の端でみとめる。私と同じ、魔除けの石のついた首飾りが、まるで置いてきぼりになっているかのように転がっていた。
手を伸ばす。紐が切れたのか、それは一度人の手によって結ばれたらしい。それが生前の、アレキサンドルを発つよりも以前のお兄様によるものなのか、それとも第三者によるものなのかも分からない。その感触は確かにあるのに、思ってしまうのだ。
悪い夢を見ているのかもしれない。
現実味がなかった。帝国兵が現れようと、髪の束を渡されようと、母に泣かれようと、私はどこか自分がここにいないような感覚を覚えていた。
もしかしたら兄は無事にリーガンに辿り着いているのではないか、何もかも帝国兵の嘘なのではないか、この現状はアレキサンドルを陥れるためだけに作られた舞台なのではないか、そう信じたかったのだ。例え現実の全てがそれを否定していようとも。
だけど、もうだめだ。だって、ここに兄は眠っている。
これは何もかも、取り返しのつかない現実だった。
「……誰の手によるものかは分かりませんが、既に埋葬されているようですな」
地面に両手をついたまま項垂れる私の真横に、帝国兵の長靴の先を見る。
「手間が省けて良かった。さあ、屋敷へ戻りましょう。貴方にはまだ、成してもらわねばならないことがありますので」
その時感情にまかせて、彼に叫ぶことができれば良かった。
ここを兄の墓にするわけにはいかない。どうか連れて帰らせてほしい。手間などという言葉を選ぶな。この状況で一体私に何を成せと言うのか。だけどそのどれもが声にならない。だって、立ち上がることもできないのだ。
感情にまかせて、なんて、無理だ、だってもうほとんど凪いだ海のように、今はただただ、平らなまま、動きもしない。震える指先で、突き刺さった剣に触れる、深く、深く地面に突き立てられたそれは、びくともしなかった。お兄様が士官学校を卒業して以来ずっと帯剣していらしたものだと、私は知っている、知っているから、影どころか、皮膚ごと地面に縫い止められたように動けないのだ。
お兄様。
立ち上がらない私に痺れを切らしたらしい兵士が、私の腕を無遠慮に掴む。
お兄様。お兄様。どうか、どうか一人にしないで。置いていかないで。
助けて。
「」
不意に名前を呼ばれた。
小雨のもたらした幻聴かと思った。だけど、その一瞬、私の腕を掴む兵士の指先に警戒したように力が込められたのを、私は確かに感じ取っていた。
それまで二度と動けないようにすら思えていた身体は、呆気なく、ほとんど弾かれるように反応した。振り向いたその先、雨で霞んだ林の中に、確かにその人はいる。数節前まで、毎日顔を合わせていたはずの彼は、たった二、三節しか経っていないのに、まるで知らない人のように思えた。ほんの少しだけ、髪が伸びたのかもしれない。そういう変化を「変化」と捉えてしまうほど、今の私達は遠かった。
彼が私の見る都合の良い幻覚でもなんでもないのは、私の腕から手を離し、身構えた隣の帝国兵が証明している。
馬から下りた彼は、気色ばんだ顔で目の前までやって来た。彼は私を見てはいなかった。その眼球は、私の身体の後ろにある兄の墓標に向けられている。彼がこの状況を全て飲み下すのに、きっと数拍の間が必要だった。
背の高い人だから、帝国兵は自ずと彼を見上げる形になる。「ローレンツくん」呼びかけた瞬間、その手の平で制された。
「……僕はグロスタール家の者だ」
彼にしては静かな声音だった。外套は既にぐっしょりと濡れ、裾からは滴が滴り落ちている。どれほど馬を走らせてきたのだろう。その前に一体、なぜここにいるのだろう。グロスタールから駆けつけてくれたのだろうか。夢ではないのか。私はその滴が膨らんで、耐えきれずに落下する様を、ただ眺めていた。手の平の中に、兄が生前肌身離さずつけていた首飾りを握りしめたまま。
「……アレキサンドル領の今後については、グロスタールを通してもらいたい」
三つ分の滴を見送ったとき、ローレンツくんの言った言葉がじわりと脳に浸透した。葉を打つ雨音は、ガルグ=マクで聞くそれよりも随分と籠っているように思えた。私達だけが取り残されているみたいだ。
顔をあげる。あの時私の頭上に傘を作ってくれたその腕は、一年が経っても何も変わらない。
「アレキサンドル家はグロスタールが併合する」
変わったのは私達ではなく、世界の方だ。