部屋の隅、机の下に潜り込んで丸くなる私を見つけてくれるのはいつもお兄様だった。
部屋の燭台の灯りは全て落としてあったけれど、雑なところのあるお兄様は扉を開け放したままずかずかと部屋に入ってきた。廊下から漏れる灯りが、お兄様の顔を半分だけ仄かに照らしていた。涙でぐちゃぐちゃになった私の目は、お兄様の表情をはっきりとは映してくれなかったけれど、それでも困ったような顔をしていたのだろうな、と思う。
思い込みなのかも知れないけれど、お兄様の目はその時きっと雄弁だったと私は思っているから、もうほとんど反射で言い訳じみた言葉が浮かぶのだ。
どんなに頑張っても手と足が言うことをきかないの。先生を前にすると特にそう。だから誰かと踊るなんて無理。着慣れていない華美な衣装を汚さぬようにいたいと思ったけれど、目から鼻から容赦なく体液は漏れていた。思ったことはほとんど言葉にならなかったのに。
大事な日だと知っていた。ダフネルが議決権を譲ったという新興貴族のエドマンド辺境伯が開く舞踏会で、子息としてご挨拶に行かねばならないと前々から言い聞かせられていたから。だけど、どうしても無理だ。この状況ならば、馬車に揺られている間に吐いてしまうとも限らない。だってエドマンドはリーガンよりも更に北東にあるのだ。それってすごく遠い。いっそ高熱が出てくれれば良かったのに。そうしたら大手を振ってアレキサンドルに残ることができた。
いざ出発の時刻が近づくと、私は逃げ出したくてたまらなかった。今思えば、ほとんど意地になっていたのだと思う。貴族とは言え、まだ甘えたい盛りの子供だった。我が儘を聞いてほしかった。それ以上に、私のこの感情を理解してほしかったのだ、誰かに。
「そんなに踊るのが嫌いなら、俺がの分も踊るよ」
ため息を吐いた後、お兄様はそう言った。そういう問題だったのかどうかは分からない。歪んだ視界の奥で、まだ小さな頭が僅かに傾いたのが分かった。「父上や母上にもそう伝えておく。無理なものは無理だ、人間なんだから」声変わりの始まりかけていた時期だった。
「その代わり、今後犬を見かけることがあれば俺を守れよ」
不意に裏返ったりするかすかすの声は、差し出されたまだ小さな手は、だけど、それでも私を救ってくれたのだ。
元来無邪気な人だった。本当はきっと領主なんて向いていなくて、常に悩んでいたことを知っている。そんなに考えるのが苦手なら、私も一緒に考えます。そう言ってさしあげれば良かったのだ、幼かったあの日、お兄様が机の下の私に手を差し伸べ言ってくれたように。支えるのではなく、共に、並んで進むべきだった。私達はきっとそうすることでしか一人前になれなかった。
でももう、何もかもが遅い。
帝国兵は猶予を与えてはくれなかった。その間にリーガンと連携を取られる可能性を潰したかったのだろう。寄る辺のない私が他に頼る先はないから。だけど兄の髪を手渡された私は恐らく正常な判断を取るには足りなくて、リーガンのことも、最早頭から抜けてしまっていた。
「…………これは」
降伏を。帝国兵の言葉と、この手にある結ばれた髪の束を思えば、答えなんて聞くまでもなかった。だけど、縋るように顔をあげてしまう。
お兄様が死んでしまうはずがない。何らかの手段を持って髪を奪っただけだ。お兄様は生きている。だってさっき、お別れをしたばかりで。そう思おうとしても、震える肩を押さえる手がどこにもない。
私の前に立っていた兵士のその眼球はほとんど無機物のようだった。精巧に作られた人間を模した何か。そうでなければ、いくら帝国兵とは言えこんな非人道的なことができるはずがない、そう信じさせて欲しかったのだ。だってベレト先生が啓示を受けたあの日、ガルグ=マクに侵入した帝国兵を率いていた榛色の髪をしたあの将は少なくとも。少なくとも、こんな風に徒に命を奪うようなことはしなかった。
だけど、比べることだってきっと無意味だ。あの時と今では状況が違う。あれからたったの数節しか経っていなくても、フォドラは変わってしまった。帝国の、セイロス教会への宣戦布告。ガルグ=マクは落とされ、大司教のレア様はその行方を眩まし、帝国は王国と同盟に向けて開戦を宣言している。
「リーガンへ続く街道に出る手前の道」
私に髪を手渡した兵が、ほとんど抑揚のない声でそう告げる。
「北に広がる針葉樹林帯の中」
薄い唇が動く。私はそれをただ見つめている。
リーガンへ向かう際に必ず使う街道を、木々の葉の色を、私は今、鮮烈に思い出している。
「今なら兄君のご遺体が残っているのではないでしょうか」
血の気が引くとはこのことか。
発作的に右手を振り上げた。呼吸もままならない。体中の毛が逆立ったような寒気を覚えた。左手の中に兄の髪がある。指先が熱を持って震えているのに、だけど、私の手の平は帝国兵の頬を打つには至らない。発作のように、だめだ、と、思ったのだ。だめだ、こんなのなんの意味もない。兵士の鎧にこびりついた返り血と同じものが私にも流れていると思った瞬間、ぞっとして、叫びだしそうになったのに、それすらもできない。だってもう、何もかも終わってしまったのだ。
戦慄く唇を噛みしめて、振り上げたままの手を下ろす。私がどのような挙動を取ろうと、目の前の兵士は目立った反応もしなかった。私のような小娘に殴られたところで、彼は何の怪我も負うことはないし、何も感じないのだろう。
一矢報いようとすることは、きっと現実的ではない。
今リーガンに助けを求めたところで、いずれアレキサンドルは戦場になる。いや、いずれなんて甘いものではない、帝国に仇なす者として、明日明日侵攻を受ける可能性だってあるのだ。この五人の兵士が増援を幾らか呼べば、アレキサンドルはそれだけで呆気なく占領されてしまう。
狭い領地だ。戦える者はほとんどおらず、指揮を執るべきお兄様も失ってしまった。いや、はっきり言おう。
ここで私が彼らの要求に首を振ったその瞬間、今度こそアレキサンドルは終わる。
私は恐らく殺されるだろう。そうすれば民はどうなる。領主一家を失い、彼らは路頭に迷ってしまう。人の良い領民ばかりだ。狭い領地である以上諍いも多少はあれど、終わってしまえば蒸し返すようなこともない。働き者で、明るくて、気さくで、私達アレキサンドル家の人間を信頼してくれている。父亡き後のお兄様のことも、彼らは支えてくれていた。
アレキサンドルはきっと今死に瀕している。その首を落とすか、延命を施すか、それは今、私の決断に委ねられている。それでも、クロードくんならどうしただろう、そんなどうしようもないことを考えてしまうのだ、ほとんど縋るように。
アレキサンドルは体の良い見せしめとして選ばれて、ならば私にできることはもう、それ以上傷を拡げないようにすることしかないじゃないか。
そう思うしかないのだ。
「…………分かりました」
口にしたその瞬間、だけど、まるで現実味がないようだと思った。言葉自体が口から出た途端に浮遊して、そのまま空気に溶けていくような心許なさだったのに、それでも間違いなく私の前に並べられた選択肢の中で、それは最善のものだった。
様、と、気の抜けた声が屋敷の前にいた従者の口から漏れた。責めているようにも聞こえたし、縋り付かれているようにも思えた。途方に暮れてしまいそうになる。だけどもうどうしようもない。
前髪の隙間から彼の目を見つめる。星辰の節、舞踏会の夜に私をガルグ=マクに迎えに来てくれた彼は、なぜか緩く首を振った。ここで私の決断を鈍らせないでほしかった。目の奥が酷く痛む。
お父様が生きていたら、お兄様がここにいれば、そんな仮定にはもう何の意味もなかった。ただ、お母様にだけは胸の内で謝罪する。私達は、いや、私は、至らない娘でした。こうすることでしかアレキサンドルを生き長らえさせることができない。
だけど、貴族として生まれたことに責任を負わねばならぬというのなら、私はここでアレキサンドルを終わりにはさせられないのだ。
「アレキサンドルは帝国に降ります」
淀みなく言えたら良かった。
だけど、どうしたってできなかったのだ。握りしめた手に爪が食い込んで、痛くて、血が滲まないのが不思議なほどだった。「賢明なご判断です」と中央の兵士が口にした。彼らを包んでいた空気の色が僅かに変化したその瞬間、それでも畳みかけるように「けれど」と口にする。
「一つだけ、お願いが」
中央の兵士の眉が小さく動いた。
「……兄の遺体を弔いに参ります。今後の詳しいお話は、それからでも良いでしょうか」
アレキサンドルの屋敷は、小高い丘の上にあった。緩やかな坂道を下ればそこは麦畑が広がっていて、竪琴の節から花冠の節の丁度今、収穫時期を迎えている。半分ほどが刈り取られた今、それは大きな縞模様をアレキサンドルの地に刻みこんでいた。丁度、丸くなった大きなとら猫の背のようだ。天気が良ければきっと、あれは風に靡いて、その腹を撫でたときの毛並みの動きのようにきらきらと輝いたのだろう。生命の証のように。それを伝えたい人はこの世にいない。
幼い頃、屋敷のこの場所から、こうして畑を見下ろすのが好きだった。隣にはいつだって兄がいた。そこから大きく手を振れば、農作業をしている誰かが必ず気づいて手を振り返してくれたから、競って、飛び跳ねるみたいに呼んだのだ。
今、ここには誰も居ない。私と、帝国兵。固唾を飲んで見守る屋敷の従者達。小雨だった雨脚が強まり始めて頬を打つけれど、誰一人その場を動こうとはしなかった。落ちかけていた陽が、それでも重たい雲の切れ間から微かに覗く。
「構いません」
短い言葉に目線をあげた私に、兵士は「明日まで待ちましょう」と続けた。陽が沈みかけていたことを考慮してくれたのかもしれない。本当は今すぐにでも飛び出したかった。だけど「ご遺体の元へは明朝、私が案内いたします」と釘を刺されてしまえば、軽率な行動は出来ない。
少なくとも当分、私の行動は逐一監視されることになるのだろう。彼らは今日、屋敷にほど近い林の中で野営をするらしい。
雲間から漏れた赤い夕陽の線は、舞台上のように麦の穂を照らした。無人の舞台の幕はもうすぐ下りる。次に緞帳が開くとき、私達は一体どこにいるのか、それが今は分からない。