それがなんだ、と思う。
 私はあの道を歩くと誓ったのだ。屍の重なる、腐臭のする道だ。私はそれでも彼女に報いねばならない。私達だけは彼女を否定してはいけない。だから、それがなんだと思うのだ。それがなんだ、それがなんだ。何でもないさ、彼女の痛みに比べれば。
 意識的に瞬きの回数を減らしてあの背を追う。噛みしめた奥歯が、ぐらりと揺れたような感覚があった。だけどきっとそれすらも気のせいだ。
 似ていたからなんだ。面影があったからなんだ。見たような覚えがあったからなんだ。何もかも関係があってたまるか。
 逃げるために馬を使おうと考えたのだろう。馬車に繋がれていた馬を手際よく離した彼は、それに跨がる瞬間、息絶えた御者をそれでも足蹴にせぬように気遣った。そんなもの構わねば、あと数刻はその命は延びたかもしれない。剣はさほどではないが、乗馬の腕は確かだと聞いた。もし馬さえあれば、それこそリーガンまで逃げ切れたのではないか。
 だけどこれからの世を生きるには、あなたはきっと優しすぎる。
 猫があまりにも多いガルグ=マクで僕がその理由を問うたとき、何年か前にやたらと猫に好かれる学生がいてねと、あまりにも心優しい子だったからと、そう彼を評したのは一体誰だったか。そんなことばかりが脳をちらつくのだ。嫌になる。
 彼を護衛していた兵はなかなか腕が立ったが、それでも我々には敵わなかった。切り落とした手首の飛んだその先にあの背がある。ああ、だからどうか諦めてはくれないか、縋るように思ったのだ、ここで彼が帝国に降ると命乞いしたところで、殺せと命じられていたはずなのに。
 馬に跨がったその外套を掴んで引きずり下ろした。低い悲鳴と共に地面に叩きつけられた男の肩を押さえ、顔面、その脇に剣を振り下ろす。蒼白になったその顔は、どうしたってあの子に似ていた。
 同じ色の瞳をしているのだな、と、どこか冷静な頭でそう考える。
 私が殺さなくとも同じだ。背後には五人の兵士が控えている。私がやらずとも。
 だが、そうでなくとも私の逃げ道は今塞がねばならない。覚悟を決めたのだ、私は。エーデルガルトがあの外套を身につけてもう一度私たちの前に現れた春に。
 あの孤月の節の日、私は、けれど貴方の妹に命を救われました。
 あの時、もしも弓砲台の傍にいた兵士に彼女が気つくのがあと一歩遅ければ、彼女の剣が届かなければ、そうしたら今、貴方は殺されなくて済んだかも知れない。少なくとも私には。
 だけどそんなのもう、関係がないな。
 アレキサンドルには、私が引導を渡す。
 と同じ髪の色をした当主のその首に、今度こそ自らの剣を突き立てた。








「私は皇帝へ報告するため、このまま一度帝国へ戻る。後の処理は任せたぞ」

「は。……フェルディナント様、アレキサンドルへの土産はいかがいたしましょうか」

「……」



 返り血を拭いながら、目線を落とす。
 恐らく、この部下は首を持ち帰ってやれと言う私の言葉を待っているのだろう。なるほどその方が効果としては覿面だろうが、趣味が悪い。「髪でも持って行けばいい」ほとんど吐き捨てるように言った私に、部下は些か物足りなげな表情を浮かべてみせた。この男が特別残虐であるというわけではない。これはほとんど政治的判断の延長だ。より同盟の戦意を削ぐために。だけど、ならば送る先はアレキサンドルである必要はない。



「……首はリーガンに送り届けよう。新盟主への祝いに丁度良い」



 思っても居ないことがすらすらと口をついて出る。「ではそのように」と目礼だけをした兵士を、本当は呼び止めたい。埋葬してやれ、できればアレキサンドルにほど近い場所に。ほとんど喉元まで出かかったその言葉を飲み込むのは、一筋縄ではいかなかった。奥歯を食いしばり、自分が手にかけた遺体の、これから硬直が始まるであろうそのつま先に目を落とす。
 私はエーデルガルトの信頼を得ねばならない。ならば、この程度の冷酷さは持ち合わせて然るべきだ。
 だがアレキサンドルへ向かうことを部下に押しつける時点で、冷酷も何もないな。
 部下が彼の遺体の髪を掴む。私はそれを、視界の端で見ている。








 いつどんな時でも毅然としていなければならない。
 私たちは貴族だ。民を守り、民のために生きる。生まれながらにして多くのものを持ち得ている私たちはそれに報いねばならず、如何な事態であれ、矜持を失ってはならない。



「あなたは貴族らしくない」



 そもそも、貴族に向いていないのではないか。初めてそう言われたのは、まだ十にも満たぬ頃でした。あまりにも不格好な踊りをしてみせる私に舞踊の先生が仰ったそれは、当時の私の皮膚をそこまで傷つけはしなかった。もっと分かりやすい罵倒の言葉の方が、幼い私には痛かったから。だけど、あれから十年近くが経ち、それは遅効性の毒になって私を侵食している。
 向いていない。だけどそれはきっと舞踊が出来ないからではない。決断できず、人に頼ってばかり、父が死んでも尚私はお兄様の支えになりたいのだと、疑いもなく口にしていた。考えもしなかったのだ。お兄様に何かがあったとき、全ては私が背負わねばならないことを。
 女だから、兄がいるから、ガルグ=マクで誰か良い人を見つけて結婚をすればいい。聞き心地の良いその言葉を真に受けて良い日々はもう終わっていた。
 だけど、こんな風にそれを知らしめるなんて、あんまりだ。








 帝国兵がアレキサンドルにやって来たのは、兄がリーガンへ出かけて半日以上が経った後のことだった。
 どんよりとした空からは小雨が降っていたが、作物にとっては恵みの雨だった。泥濘んだ地面に軍靴を沈み込ませる彼らは物々しい雰囲気を隠すこともしない。農作業を行っていた民が不穏な空気を感じ取り、慌てて家へと引き返す。彼らの鎧に血がついていたことを誰も気がつかなければ良い。彼らが手に持ったそれを、誰も、見ていなければ。
 いずれそれが同盟領中、いや、フォドラ中へ知れ渡ることとなっても、今だけは。



=フォン=アレキサンドル殿はおられるか」



 屋敷中がざわめいていた。ほとんど強引に屋敷の内部に向かおうとする兵士を従者が止めようとして突き飛ばされる。武装した帝国兵の数は五人で、軍隊というよりも一個隊であると表現した方が適切であるように思えた。胸がざわめくのは、彼らから血の臭いがしたからだ。
 私はその時ちょうど父の墓前に兄の無事を祈るために外に出ていたところだった。屋敷の前の騒々しさに、何事かと飛んできたのだ。
 兄に留守を頼まれたばかりだったから、屋敷の主人の代理として堂々としていようと、異様な空気に飲まれぬように背筋を伸ばした。



=フォン=アレキサンドルは私です」



 声を張り上げてそう言えば、屋敷の扉に向けられていた十の目が私を見た。それはほとんど値踏みするような視線で、私はそれだけで逃げ出したくてたまらなくなる。理解ができなかったのだ。帝国兵が同盟領内の内陸であるアレキサンドルにまでやって来るその意味を。真新しい血の染みこんだその鎧のままに領地に踏み込む現状を。兄ではなく私の名を呼ぶことも。まるで兄の不在を予め知っていたかのようで、ただただ気味が悪かった。
 五人の兵士の顔には当然だけど見覚えはなく、それがどこか心細くもあったけれど、それよりも私は安堵していたのかもしれない。アレキサンドルが帝国に敵対することを決めた以上、アドラークラッセの皆とは武器を交えることだって起こりうるのだ。できれば、顔見知りには会いたくなかった。



「当主は不在ですが、留守を預かる者として、御用があるのでしたら伺いましょう」



 声が震えてしまったのは、どこかで異常事態であることを察していたからかもしれない。恐らく屋敷にいた従者も。皆、立っているのが不思議なほどその顔面は蒼白だった。表情の一切を変えていないのは帝国兵だけだ。真ん中に立っていた茶色い髪の兵士が、後ろに控えていた若い兵に目で合図をする。
 助けて、と、私は未だ思ってしまうのだ。
 誰か、どうか助けてと。お兄様、どうして帝国兵がアレキサンドルにやって来るのですか。もしも今ここで彼らが武器を構えたら、私一人じゃアレキサンドルを守れない。クロードくん、私たちはもっと早くあなたに助けを求めるべきだったのかもしれない。後手に回ってしまったのだ、半ば直感でそう思う。民を守ること、それが貴族としての務めであるならば、私はどうすればいいの、ローレンツくん。
 私一人じゃどうしたらいいかも分からない。
 兵が私に差し出したものを見たその瞬間、思考が切断されたような感覚を覚えた。
 眼球が痛かった。どれくらい目を見開いていたのかも私は分からない。喘ぐような呼吸が喉のあたりから漏れて、それが悲鳴に変わる頃、ほとんど反射で口元を押さえた。瞬間、手首につけた、ヒルダちゃんが作ってくれたお守りがかしゃりと音をたてる。黄昏の光の中、その私と同じ色の髪の束は、ほとんど不揃いで、だけど分かってしまうのだ。
 その髪束は紛れもなくお兄様のものだと。



「勧告ではなく、命令です」



 何とか視線をあげた先で、降伏を、と、その口が動いたのだけは分かった。こんな時なのに、どうしてだろう。ほとんど耳元で「お前は好きに生きてもいいよ」と言われたような気がしたのだ。
 都合の良い幻聴だ。


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