雨が降っていたせいもあって、アレキサンドルを出た馬車の速度は実に緩やかなものだった。
 これならば「当主なのですからきちんと馬車を使ってください」などというの言葉を真に受けず、自ら馬を操るべきだったかもしれない。俺は乗馬の技術には自信があるし、愛馬ならばこの程度の雨の中、リーガンまで駆け抜けることも容易い。ただその場合、護衛の兵士がその役目を全うできなくなるのが困るが。俺の馬についてくることのできる兵など、アレキサンドルにはいない。
 しかし、領主というのも肩が凝るものだ。父上が亡くなられて半年が経とうとしているが、未だに上手くいかないことの方が多い。父上が傍に居てくれればとどれだけ思ったことか。だが、今回リーガンの後ろ盾を得ることに成功したことについては手応えがある。これを土台にして、アレキサンドルも軍備を強化するべきなのかもしれない。その件についても、新盟主であるクロード殿と相談するべきだろう。



「アレキサンドル家の当主、ヴァイル殿が乗っておいでですね?」



 そんなことを考えていた俺の耳に、雨を縫うようにしてその言葉が届いたのは、アレキサンドルを発って数刻経った頃だった。
 その一団は臆せず御者に声をかけたようだった。恐らく馬車の側面に記された家紋を見て判断したのだろう。リーガンの迎えだとするには、少し距離がありすぎる。
 そう考えた瞬間、獣の咆哮というには実に人間くさい悲鳴が響いた。徐々に速度を緩める馬車の中、斜向かいに座っていた護衛の兵に目配せをする。馬車が僅かに傾いたような感覚を受けてから暫く、とうとう馬が動きを止める。だがそれは御者の手によるものというよりは、馬がその意思で歩むのをやめたという風に捉えるべきであるように思えた。
 すぐ傍で、何か力を失った大きなものが地面に落ちたような音がする。恐らく御者の身体だろう。この状況でリーガン行きを阻止する相手がいるとしたら一体、何者か。
 動きの読めないグロスタールか、それとも既に帝国に降ったアケロンの手の者か。或いは、また別の。
 だが、難しく考えることはなかったのだ。
 護衛に続いて馬車を降りた俺は、そこに帝国兵の一団を見た。鞘から抜かれたままの剣を手にした一人の兵は、御者の返り血を浴びていた。視界の端に、倒れた御者の姿がある。息絶えているのはこの位置からでも分かった。雨に濡れたその身体は、ぴくりとも動かない。
 やられた。そう考える。



「……まだ帝国には返事はしていなかったはずだが」



 帝国にとって、アレキサンドルが従おうが従うまいが、それは些事だったのだろう。勧告を飲み込めばそれで良し、拒否するようであれば、見せしめという形で潰す。
 俺の言葉に答えるため、数人の兵士の中から一人の男が一歩前に歩み出た。



「その返事を待てるほど、こちらも悠長にはしていられないのですよ」

「……アレキサンドルだけでなく、この件はグロスタールも保留にしているだろう」

「すぐにグロスタールも追随することになります」



 年若い男だった。とそう年の変わらないように思えるくらいに。



「追随?」

「……それに、貴方は今リーガンへ向かわれている。それが示すことが全てではないのですか」



 静かな殺気に、護衛の兵士が俺を後ろ手にやるが、この数では敵うまい。俺もアドラステアの兵士を相手取れるほど剣の腕に自信があるわけではなかった。それでも共に戦うべきか、そう考えるも、護衛の手は俺を押す。「逃げてください」と彼が言う。
 ああ、そうか、そう簡単に死ぬことは出来ないか。俺はもう、領主なのだから。駆けだした俺の背に、明るい髪をした男が兵に叫ぶ。「逃がすな!」その瞳の色が、もう分からない。
 逃げねば、兎に角今は、一歩でも遠くへ。まともに戦えば勝ち目はないだろう。逃げねばならない。だが複数の帝国兵を前に逃げ切れるか。馬がほしい。馬があれば、或いは。先程まで自分たちを乗せていた馬車に目をやる。
 もしこれが叶わなければ、アレキサンドルは恐らくここで終わるだろう。この日、俺の死をもって、帝国と同盟との間に戦争が始まる。
 雨で泥濘んだ道に一瞬足を取られかけたその時、不意にの顔が頭を過ぎった。好きに生きていいよと、そう言ったばかりだったのにな。俺が死ねば好きに生きるも何もない。、すまない。そう呟いたとき、誰かが息を飲んだ気がしたのだ。きっと幻聴だ。
 お前に始末を頼むことを、どうか許してほしい。
 視界の端で護衛の兵の手首が飛ぶ。








 僕たちは恐らく羊のようなものだ。
 方々から帝国という名の犬に吠えられ、彼らにとって正しいと思われる道を進まされる。列から離れ逃げ出す群れの最後尾、そこに居たアレキサンドルは、きっと恰好の的だったのだろう。
 グロスタールは降伏勧告を受けた。以南は総じて帝国に従属を命じられている。だが、アケロンが帝国につくことなどわかりきっていた。常々領界問題を蒸し返しグロスタールの手を焼かせたあの当主が権力に弱く、利己的な男であることなど誰しもが知るところであるのだから。結果、予想通りにアケロンは帝国に降り、おかげでグロスタールはいつ帝国に攻め込まれるとも知れぬ状況に陥ってしまった。
 父はまだその立場を表明してはいまいが、十中八九帝国に歩み寄ることになるだろう。リーガンへの対抗心と言うよりも、それはほとんどグロスタールの延命治療のために。いずれ同盟が帝国に飲み込まれることは父にとって疑いようのない未来で、ならばこそその権威には従って然るべきであると。
 あれだけ蔑んでいたフレゲトンと、同じ道を選ぶのですか。言いかけた言葉は飲み込む他なかった。グロスタールの当主は父だ。僕はその決定に従う他ない。クロードが恐らく、この状況に対しても何か勝機をつかむために画策しているだろうことを想像することができたとしても。
 クロードならばきっと帝国に一泡吹かせるだけの策を用意することができるだろう。それでも僕は父を説得することができなかった。近くグロスタールもまた帝国に従うことを公表するだろう。その時クロードはどうするのか。あの男のことだ、その時々に応じて、彼ならば最善の道を取るだろうと信頼しているからこそ、僕はどうか、と思うのだ。どうか、グロスタールが親帝国派への道を歩んでも、君は同盟のために成すべき事を成してくれ、と。
 そのためなら、グロスタールを利用してもらっても構わないのだ。








 クロードの祖父であるリーガン公の死はグロスタールにも伝わっていたが、父はその葬儀に出向くことを拒んだ。その時既にアケロンとコーデリア伯は帝国への臣従を表明していた。父は、葬儀への欠席によって親帝国派であることを主張する腹づもりらしい。大々的な発表は、クロードが新盟主として布達された時に被せるつもりでいるのだろう。
 その時を以てして、同盟は二つに割れる。
 僕は、アレキサンドルにまで帝国の手が及んでいることを知らなかった。だが、少し考えれば分かることだったはずだ。アレキサンドルは小さな土地で、その面積のほとんどが穀倉地帯。リーガンとグロスタール、ダフネルに囲まれた安全地帯と人は言う。だがそれは、驚異が東方のパルミラにありと考えられていた過去のことだ。帝国と戦になると考えた場合、リーガンへの通過点となるのはグロスタールかアレキサンドルのいずれかである。戦地にならぬはずがない。兵糧の供出を厭われれば、真っ先に狙われても不思議ではなかった。
 アケロンが帝国につくことなど誰しもが分かっていただろう。ヴァイル殿だってそれくらいは読んでいたはずだ。我がグロスタールがどのような道を選ぶかは想像しにくかったかもしれないとは言え。誰かの影で守られるしかない力なき家は、見誤ることなく、折れねばならぬときもある。そうして世を渡らねばならない。
 アレキサンドルは大勢につく。つけばよかったのだ、今回だって。どちらに正義があるかではない、どちらに利があるか、あのお人好しなの兄君だって、それくらい分かっていたはずだろう。
 だが彼はそうしなかった。この時の僕は、それを知らなかったけれど。








 僕はリーガン公の葬儀が行われるその日、父に命じられてアレキサンドルに程近いグロスタール領の西端にある村の視察に訪れていた。こんな時でなくとも、とは思うのだが、不安定な情勢だからこそ民の様子を見ることも必要になるのだろう。
 突然の視察であったせいだろうか、その日訪れた村の人間は、僕を前にしてどこか挙動がおかしかった。何かを隠しているらしいことを感じ取って、「何かあったのか?」と尋ねるも首を振るばかりで埒があかない。こういう時、父だったら彼らはすぐさま事情を話したのだろうか、そう思うと、自分自身の力のなさに嫌気がさす。



「僕はグロスタールの嫡子だ。問題事を隠し通すつもりならば、こちらにも考えがあるぞ」



 少し厳しい口調で問いただせば、さっとその顔つきが変わるのだから、苛立ちもする。
 曰く、今朝方村に帝国兵がやって来た。何も言わずに通してくれるだけで良いと金を渡されたため、受け取ってしまった。五、六人に満たない数だったものの、彼らはそのままアレキサンドル方面へ向かって行ったと言う。



「……アレキサンドルに?」



 数人とは言え帝国兵が同盟領内に入ったことは大問題だ。そうは思うも、アレキサンドルという言葉が僕から冷静さを奪う。思案のために目線を落とすが、僕がある可能性に気がついて双眸を見開くまでに、時間はかからなかった。
 ほとんど弾かれたように顔をあげた。馬を出して村を飛び出す。ローレンツ様、そう叫ぶ民を振り返ることもできない。早鐘のように打つ鼓動はほとんど耳元で鳴り響いているかのようで、それにより一層僕はせき立てられるのだ。
 その日は朝から雨が降っていた。花冠の節に相応しい、重く深い色の不透明雲が空一面を覆っていた。
 ミルディン大橋の通行を許可し、同盟内へ通したのはアケロンだった。アレキサンドルから勧告に関する返事がないため、降伏に応じるかどうかの確認のために赴きたいのだと言われた。彼らが兵士であるなどと知らなかったと、あの男は後に言う。それの真偽は最早分からぬが、結果的に、この日、アレキサンドルの領主がほとんど見せしめのような形で殺害されるに至ったことだけは、覆りようのない事実だった。


prev list next