1181年 夏
花冠の節に入って、クロードくんのお祖父さまでいらっしゃる現リーガン公が亡くなられたとの報せが同盟全土に伝わった。元々体調が優れなかったらしいとは耳にしていたけれど、帝国の宣戦に、心労も祟られたのだと思う。
冬、父上の葬儀にいらしてくださった際はお元気そうだったのに。お兄様が絞り出すように呟かれるのを、私は俯いて聞いていることしか出来ない。
リーガン公が亡くなられたからと言って、しかしアレキサンドルの方針が変わるわけではない。お兄様は最終的にはそう結論づけた。フレゲトンとコーデリアの帝国への臣従表明の直後での訃報に益々動揺は広がることになってしまったけれど、同盟の盟主を継ぐことになるクロードくんは信頼に足る人物だ。私が常日頃から口癖のようにお兄様に伝えていた言葉も、多少は後押しになったのかもしれない。
それに、リーガン公が亡くなられる直前にデアドラから届いた書簡には、リーガンの兵をアレキサンドルに貸し出す旨が記されていたそうだ。リーガン公は病死でいらっしゃったから、時期を思えばこれはクロードくんによるものなのだろうとは思う。アレキサンドルが帝国からの降伏勧告を無視している状態であることを考慮してくれたのかどうかは分からないけれど、武力をほとんど有さないアレキサンドルにとって、それは有り難い申し出だった。
リーガン公の葬儀に参列するため、支度を調えた。とは言え、アレキサンドルからリーガンへ向かうのはお兄様一人だ。
リーガンはアレキサンドルの北東に位置していて、馬を走らせれば一日で着くから、そう長い旅路になるわけではない。それでも馬車の準備を侍女に頼み、葬儀に参列するため必要なものをまとめていると、お兄様はどこか興味深げに私に声をかけた。
「随分手際が良いじゃないか」
「お母様がお父様になさっていたことを真似ているだけですよ」
「……なんだ、それは俺に早く結婚しろということか?」
困ったように眉根を寄せるお兄様に思わず笑ってしまう。いくら何でも、その思考は穿ちすぎではないだろうか。
勿論結婚していただけるならば早いほうが良いとは思う。相手が居ないのだから当分は仕方がないことだけど。お兄様は、妹の私から見てもそんなに顔立ちは悪くはないとは思うけれど、如何せん少々頼りない。
とは言え領主になってからのお兄様は、それでもこれまでの優柔不断である自分自身から脱却しようと努めていらっしゃるようだった。一人の人間というよりも、領主としての決断をなさっている。実際お兄様は、もしもお父様が生きていらっしゃったら、帝国への勧告に際して降ることを進言していたと思う。国ではなく、一人一人の民に寄り添おうとする人だからこそ。
それでも同盟のために自分の本心に蓋をして真逆の決断を下したお兄様を、私はアレキサンドルの当主の妹として、誇りに思うのだ。
「……まあ、でもそうですね。お兄様に結婚していただければ、私も安心してアレキサンドルを出ることができますので」
冗談めかして言った言葉に、お兄様は何故だか眉根を寄せた。
「に出る当てがあったか?」
「…………それはないですけど」
わは、と声をあげて笑われるお兄様に、悔しいのだか、嬉しいのだか、よく分からない不思議な気持ちになる。
お兄様がこんな風に笑う姿を見るのがいつぶりだったか、それが咄嗟に出てこないほど、私はお兄様の、どこか子供のような笑顔を久方ぶりに目にしたのだった。
「を頼りにはしているが」
額に手を伸ばされて、そのまま前髪ごと頭を力任せに撫でられる。整えてある髪を乱さないでほしいと目で訴えても、それでもお兄様はそれに気がつかないふりをした。
「お前は、好きに生きてもいいよ」
その手が震えていたことを、だから私も、知らないままでいようと思ったのだ。
首を振れば、お兄様は小さく笑った。
リーガンから届いた書簡に返事をする直前での訃報だったから、お兄様は弔事の際で無作法であることを承知の上で、デアドラに到着次第、兵の借り受けをお願いするつもりでいるらしい。手際の良いクロードくんのことだから、それも踏まえて既に準備を進めてくれているだろう。
お兄様は、本当は恐ろしかったのだと思う。民の不安を目の当たりにすること自体が、お兄様の心を痛めるのに充分だったはずだから。
アレキサンドルの民はそのほとんどが農民だ。兵力と言えば防衛に必要な最低限のものしかない。帝国を相手取るには全く不十分であることは誰しもが知っているからこそ、民は有事の際に兵士として借り出されることを恐れている。
兄は元々民と距離が近かったから、信頼関係を構築しているといえども、恐怖心をぶつけられることだって何度もあったはずだ。領民の不安は例えその口が閉ざされていても自ずと伝わってくるし、コーデリアとフレゲトンの降伏を受けてアレキサンドルに追随を望む者だっている。それを抑えるには、お兄様や私の力だけでは足りなかった。
リーガンからの兵の借り受けは、民の不安を拭い去るに余りあるだろう。
後ろ盾を得ることは大きい。私もお兄様も、そう信じていた。
「留守を頼んだぞ、」
お兄様がリーガンへ発たれる朝は、雨が降っていた。
アレキサンドルの数少ない兵から護衛を伴う兄は、いつかの父を彷彿とさせた。領主として立つ兄には、犬を怖がって私の陰に隠れた数年前の面影などどこにもなく、一方で、あの日私の額を撫でた目もそこにはない。
私たちは大人にならざるを得なかった。決断を恐れ、責任から逃れることを、両親の庇護のもと、安全地帯で怖がることを、やめなければならなかった。私たちを守る外套は恐らくとうの昔に外されていて、だけど、それを嘆く暇もなかった。私たちは貴族だ。だからこそ、それだけの責任を持って生きねばならなかった。
こんな状況になって、ローレンツくんが吐き出し続けた言葉が今更身にしみるだなんて、なんて皮肉なんだろう。
「どうかお気を付けて、お兄様」
旅立つお兄様は、私の言葉に薄く微笑んだ。
私たちはきっと、貴族としての才覚が足りない。お兄様の足りない部分を私が補って、私の欠けた部分をお兄様が包みこんで隠して、それでようやく私達は一人前になれる。そういう風に生きている。だから、私だけは好きに生きて良いだなんて言わないで。
お父様の愛したアレキサンドルを、お兄様と守りたかった。
私が兄の姿を見たのは、それが最後だった。