「クロード!」



 そう呼び止められて振り向く。この屋敷で俺をそんな風に気安く呼ぶ人間は限られていたせいだろう、その響きを、どこか懐かしく感じてしまったのは。今はそんな状況では決してないのに。



「リーガン公の容態は」



 ダフネルから駆けつけたジュディットの顔色は珍しくほとんど蒼白だった。
 リーガンの屋敷のだだっ広い廊下、忙しなく行き交う侍女は、ほとんど祖父さんの部屋を基点として動いているように思う。普段は足音もたてない彼女たちは、一刻の猶予もならないとばかりに屋敷中を駆けていた。騒がしい状況に、ジュディットだってもうほとんど覚悟はしていたのだろう。緩く首を振った俺に、ジュディットはさらにその顔を険しく歪ませる。



「タチの悪い冗談……ってわけじゃなさそうだね」

「おいおい、俺をなんだと思っているんだ? さすがの俺だって、ただの風邪くらいであんたを呼ぶわけないだろ」



 俺の言葉に苦々しげに息を吐いたジュディットは、慣れた様子で祖父さんの部屋へと向かっていく。表情はどれだけ曇っていようと、その後ろ姿は、烈女と呼ばれるに相応しく凛としていた。
 窓から竪琴の節の柔らかな陽光が差し込む。その光が作る細やかな陰影は、こんな時でも冗談のように優しいのだから、嫌になる。








 帝国軍に攻囲されたガルグ=マクから逃げ延びて、もうすぐ二節が経過しようとしている。
 それは要するに、同盟と王国が仲良く揃ってエーデルガルトからの宣戦布告を受けて二節、ということになるわけだが、こっちはこっちでそれどころではなかった。元々体調を崩していたレスター諸侯同盟における盟主である祖父さんの容態が悪化して、今なお生死の境を彷徨っているのだ。
 いや、勿論そりゃあ現状だって一大事だ。なんてったってフォドラ全土を巻き込んでの開戦を宣言されたわけだからな。アドラステア帝国の皇帝に即位したエーデルガルトが一筋縄ではいかない相手だということは俺自身がよく分かっていたし、すぐさまあいつが何かを仕掛けてくることを想定しうる以上、早急に手を打たなければならない。出来れば、エーデルガルトに先んじて。
 それどころではないと言いながらも本来ならばこちらが最優先事項であるはずだから、俺だって対策は練った。祖父さんがまだ意識を保っていたとき、その許可を得て実行に移した策も幾つかある。その中でも「王国との共闘」ってのは優先して推し進められるべき対抗措置の一つであったわけだが、前節の中頃に王国に送った使者は未だ戻らず、返事もない状況だった。
 一体何が起きているんだか。現在王国で政を担っているのはイーハ公リュファス。ディミトリの伯父にあたる人物だそうだ。何でもダスカーの悲劇の際に亡くなられた当時の国王ランベールの実兄であるらしいが、優れた統治者であるわけではないとの兼ねてからの噂通り、先を見据える力に乏しいのかもしれない。ディミトリが王として即位してくれればまだ連携も取りやすいものを。そう考えて、だけどそれもどうだか分からないなと描きかけた未来を塗り潰す。
 ディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッド。
 あいつは、時折やけに昏い目を見せる男で、思い詰めたような顔で槍を振るっていた。他学級の級長である俺を信用していなかったのか、その身の上話を俺に打ち明けるようなことはなかったが、それでもあいつから滲み出る仄暗い何かは毒のように周囲を蝕むから、他人事ながら気には留めていたのだ。
 ディミトリが自らの毒素で呼吸困難に陥りかけた時、少しでもましな方へ引っ張ってくれる手があった。浄化作用と呼ぶにはそれは細やかすぎたかもしれない。だけど、それでもあの先生の存在は、多少なりともディミトリの精神状況を平生に保たせてくれていたように思う。傍から見た限りでは、の話だけどな。
 先生は、本能的にディミトリの危うさを感じ取っていたのだろうか。
 まあ、どのみちその先生は現在行方不明だ。どこかに匿われているのかもしれないし、俺が知らないだけで今もなおディミトリと共にあるのかもしれない。その場合、彼らは彼らで帝国と戦う手はずを整えているのだろうか。俺達の力がなくとも勝算はあると踏んでいるのか。共闘要請を握りつぶしたのはリュファスではなくて、ディミトリかもしれない。様々な憶測が脳裏を駆け巡る。
 参ったな。物理的にも離れてしまえば、その本心はもう読めない。もう少しディミトリと親睦を深めておけば良かったか。あいつの方が俺に心を開いてくれなかったのだから、それも無理な話か。
 そういう今更どうしようもないことを考えながら、椅子に体重をかけ、目を閉じる。
 考えなければならないことは両方の手指では足りなかった。王国があてにならないならば、俺達は俺達だけで帝国と戦わなければならない。だが、兵力の差は歴然だ。とは言え、俺には切り札もある。それを使うのが何年後になるかは分からないが、いずれにせよ、使いどころは見極めなければならない。
 まずは帝国の侵攻を食い止めるところからだろう。真っ向から立ち向かえばやられるだけだ。ならばどう動くのが得策か。
 思考し始めたその時、不意に俺のいる部屋の扉が開けられた。そこに現れたジュディットに目線をやる。毅然としたその表情が、部屋に入るその一瞬、気が抜けたようにその感情を露わにしたような気がしたが、「よう」という俺の言葉でジュディットはその瞳に緊張感を漲らせた。難儀な人だ。一人でなければ泣くこともできないなんて。
 応接室であるなら兎も角、案内された客間に、既に俺がいることなど想像していなかったのだろう。ジュディットは深くため息を吐くと「客室に忍び込むなんて、行儀が良いとは言えないねぇ、坊や」といつもの調子で首を振った。恐らく、数日はリーガンに滞在するつもりなのだろう。それがいつまでになるかは分からないが。



「祖父さんとは話せたか?」



 俺の問いかけに、ジュディットは少し躊躇ったように目線を逸らした。ジュディットが作り出した空白は、想像の余地を十分なほどに残している。
 祖父さんはこの数日ほとんど眠っていて、その目を開けていることなど滅多になかった。病に蝕まれた身体は細く頼りないから、俺はその手首を握って、ほとんど聞こえていないだろう祖父に、子守歌のように話しかけるのだ。俺に任せておけ、頼りないかもしれないが、俺が祖父さんの代わりに同盟を守るよ、と。それは祖父さんの望む形ではないかもしれないけれど。
 俺の問いに答えないジュディットは「それより」と低く囁くような声音で吐き出した。



「……あんたも知っているとは思うが、フレゲトンとコーデリア、グロスタール、それからアレキサンドルに対して帝国から降伏勧告が成されている」



 ジュディットは椅子に座ることもせず、扉の前で腕を組み俺を見下ろしていた。「どうするつもりだい」ジュディットは最早、俺をレスター諸侯同盟の盟主として話してくれているのだろう。だがこんな状況じゃ、それを面映ゆく思う暇もない。
 竪琴の節に入って幾らか経った頃、同盟内の四領家に帝国からの圧力があったことは俺も知っている。
 さすがのアドラステア帝国も、王国と同盟を同時に侵攻する気はないのだろう。兵力を分散させては足下をすくわれかねない。つまり、この勧告によってエーデルガルトが先に息の根を止めようとしているのが王国ではなく同盟であることが浮き彫りになった、ということだった。
 帝国は、アミッド大河を隔てた国境沿いに位置するミルディン地方の北部とコーデリア、まずそこを押さえることで同盟侵攻への足がかりとするつもりだ。風見鶏と揶揄されるアケロン=レーテ=フレゲトンは、間違いなく帝国に降ると見て良いだろう。十五年程前、帝国のフリュム家の内乱に与したことで帝国より内政干渉を受けるに至ったコーデリアも従わざるを得ないはずだ。グロスタール、それからアレキサンドルは読めないが。



「――グロスタールとアレキサンドルにまで帝国につかれるのは、正直困るな」



 国力のあるグロスタールは言わずもがなであるが、アレキサンドルは位置が悪い。多少とは言えリーガンに隣接している以上、そこを奪われてしまえば攻め込まれるに易いのだ。それに、兵糧問題もある。長期戦を覚悟する以上、豊かな穀倉地帯を持つアレキサンドルからの物資供給が見込めないとなると、大分苦しくなってくる。しかし、だからこその降伏勧告なのだろう。



「皇帝様も意地が悪いよ。アレキサンドルに軍備がほとんどないことを分かった上での勧告だ。軍人が民間人に刃を突き立てて、無理矢理命乞いをさせているようなものだな」

「……アレキサンドルの降伏はやむなしと見ているのかい?」

「まさか。もう手は打ってある」



 目を細めて続きを促すジュディットに、「書簡を送っておいた。祖父さんの名前でだがな」と続けた。できればグロスタールにも送りたかったが、あそこはどうも考えが読めない。領主がローレンツに世代交代しているならまだしも、父親である現グロスタール伯はぽっと出の俺に嫌悪以上の感情を抱いているから、余計なことをして神経を逆撫ですることは避けたかった。



「向こうから返事が来次第、アレキサンドルには防衛のためにリーガンから兵を出すよ。……この状況じゃ、花冠の節に入ってからにはなっちまうが」



 幸運なことに、アレキサンドルは地理的に見ても内地だ。猶予はあるだろう。
 同盟領内の諸侯の動きに気を配りながら、王国や帝国の動向にも目を向ける。祖父さんを看取ることも、リーガンを継ぐことも、その双方について覚悟はもうとうに出来ていたが、まさか、こんなに慌ただしい状況下に身を置くことになるとは想像していなかった。
 その余裕のなさが計算違いを生んだのだろうか。
 数年後、振り返ってみれば結果的にはそう悪くはない状況に持って行けただろうと、俺は過去の自分自身を労うことになる。だが、それでももしもこのときに戻れるのならば、俺はアレキサンドルからの返事を待たずに兵を出したはずだった。








 祖父さんが息を引き取ったのは、竪琴の節が終わろうとする頃だった。
 それは奇しくも、フレゲトンとコーデリアが帝国への臣従を表明した日だった。


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