■ ■ ■
弓砲台にいた帝国軍は、予想通り南進していったベレト先生達に気を取られていて、その背はがら空きだった。幸運なことに、護衛もつけていないらしい。
「私がいこう。二人は周囲を警戒していてくれ」
城壁の柱の影に身を隠し、フェルディナントくんは声を潜めながら腰の剣に手を添える。
「また飛竜や天馬が抜けてくるかもしれませんしね……」
「ああ。……それに、ここはベルナデッタの弓砲台の射程外だ。くれぐれも気をつけてほしい」
じ、と私を見られてしまえば頷くほかない。「は、はい……」と返事をすれば、フェルディナントくんも確かめるように頷き返してくれた。彼はそのまま踵を返し、弓砲台に立つ兵士の元へ駆ける。フェルディナントくんのその背を見送った後、頭上に目線を移した。今のところは投石機からの攻撃がある様子も、先程のように天馬騎士が抜けてくる様子もないけれど、油断はできない。いくらイグナーツくんがいてくれていると言っても、もうベルナデッタちゃんを当てにすることは出来ない以上、先程のように上空から一斉にかかってこられた場合には私も戦わねば対処しきれないのだ。
飛竜騎士や天馬騎士を相手に戦うことに関しては、確かに経験不足ではあった。実際、私が実戦で倒してきた賊や、鷲獅子戦において相手にしてきたのはいずれも歩兵だ。ここに来て何を今更と思うところではあるけれど、如何なる状況にも対処できるように訓練をしておけばよかった。
自分が人を殺す覚悟が出来ているかについて、それを考え出すときっと深みにはまる。だけど、戦争が始まってしまった今、誰も殺したくないだとか、そんな甘えたことを言っている場合ではない。殺さなければ殺される。それは私かも知れないし、仲間の誰かかも知れない。喉を引きつらせながらでも殺さねばならない。そのための剣だ。
その時、ひゅ、とすぐ隣で空を切る音がした。私の横をすり抜けるように矢を放ったのは帝国兵ではなく、イグナーツくんだ。一瞬それに気を取られる、彼が矢を放った方向を見やれば、こちらから死角になっていた壁の影に帝国兵がいたらしい。
「……護衛?」
咄嗟の射撃であったせいか、しかしその矢は城壁に当たる。
弓砲台に居た兵と挟まれる形になってしまったフェルディナントくんが、それでも先に弓兵にとどめをさしたその瞬間、私はほとんど反射的に駆けだしていた。腰の剣に手を添える。フェルディナントくんはその背に向けてふりかざされた斧を、弓兵を殺したその直後、身をひねりながらほとんど中腰になって受け止めた。だが体勢が悪い。重なった斧と剣は鈍い音を立てる。
押し負ける。直感でそう思う。私の左半身の脇をほとんどすれすれで抜けていったイグナーツくんの放った二射目は、帝国兵の腕に突き刺さったけれど、致命傷を与えるには足りなかった。だけど、そのおかげで一瞬気が逸れたのだろう。その隙を見逃さないフェルディナントくんではない。雄叫びをあげたフェルディナントくんが力任せにその斧を押し返す。瞬間、私も剣を握る手に力を込める。帝国兵の身体越しに目が合う。私が振りかざした剣は、平衡感覚を崩した帝国兵の首を切りつける。肉を切る、嫌な感触が伝わって、目を閉じてしまいそうになった。だけど、耐える。
それらはすべて、一瞬の出来事のように思えた。
断末魔の悲鳴がほとんどなかったのが、私にとっては救いだったかもしれない。
帝国兵が倒れる寸前、その首から吹き出た血を一身に浴びる。殺してしまった。そう思った瞬間、手の平からじんじんと伝わる熱のようなものがあった。それはほとんど痛みに近かった。
「……すまない、助かった」
足元の帝国兵の遺体は二つ。殺さなければフェルディナントくんが殺されていた。それは間違いない事実なのに、私はやっぱり甘ったれだ。「……?」フェルディナントくんが私を不思議そうに見つめているのが分かる。士官学校に一年も在籍しておきながら、まだこの有様なのだ。きっと彼も呆れている。
足下は赤黒い血だまりで、私の剣からはそれと同じ血が滴っている。私の髪にも、頬にも。それはきっといくら洗っても、もう一生取れない。身に纏ったままでしか生きていけない。命を奪うとはそういうことだ。
でも、私は戦争になってですら、人を殺すのが怖かったのだ。
貴族としての責務を果たせない私は、きっと叱られてしまう。
正直に言えば、彼女のような人間が、まだガルグ=マクにいることに驚いた。
勿論人には向き、不向きがある。争いを嫌う生徒は士官学校にも大勢いたし、ああ見えてリンハルトも血を嫌う性質だ。彼の場合、自分の身に危険が及べば人を殺すことも厭うことはしないが、扱うものが魔法であるだけまだましなのだろう。手に残る感触は、なくてすむから。だが、先程の飛竜騎士からの攻撃に身動きが取れなくなった点をも鑑みれば、はそもそも戦うことそれ自体に慣れていない。訓練ではそれなりに動けていたと記憶しているが、恐らく彼女は実戦経験に乏しい。さらに言えば、殺すことそれ自体に抵抗を持っている。
帝国兵の血を被ったは、剣を振り下ろしたままの体勢で暫く呆然としていた。イグナーツが駆け寄って彼女に声をかけるまでの僅かな時間であったが、その目がほとんど瞬きもしないままに自身の持った剣を伝う血液を凝視していることに、私は気がついていた。
殺させてしまった。どこか咎めるような思いを抱くのは、私にもまだ人の心が残っているからなのだろうか。
この戦いに付き合う義理などない以上、彼女は領地に帰るべきだったのだろう。クロードはなぜそれを勧めなかったのだろうか。まあ、戦いに参加させたとは言え、彼は前線にを連れて行く気はなかっただろう。だからこそのこの采配だ。
「無事に落とせましたね……良かったあ……。今頃リシテアさんも魔道砲台に向かっている頃だと思います。これでこのあたりは安心ですね」
胸を撫で下ろすイグナーツは、「僕は予定通りこの弓砲台で敵を狙います。さんには護衛についてもらいたいんですが」と彼女を気遣うように窺った。恐らく、予めクロードからそうするよう指示をされていたのだろうな、と考える。比較的安全な任務を達成させた後は、前線から遠い位置で弓砲台の護衛と言う役割を与えることで危険から遠ざける。彼女の力量と実情を思えばそれは実に相応しいものであるように思えた。
は弾かれたようにその顔をあげると、イグナーツをじっと見て「うん、わかった」と小さく頷く。どこか憔悴したような危うさは残っているが、恐らくもうここまで兵が来ることはないだろう。イグナーツの弓砲台、それからリシテアの魔道砲台があれば敵は迂闊には城壁に近づけないはずだ。彼女が剣を握らねばならぬことは、当面はない。
「フェルディナントくんは?」
ぱ、とこちらに顔を向けられて、一瞬心臓が跳ねた。見慣れたはずの返り血は、彼女が被っているだけで随分と生々しいように思えた。けれど目を逸らすことはきっと失礼に当たるだろう。意識的にその瞳を強く見つめ返す。
「……私はこのまま南下して、ベレト先生達に合流しようと思う」
の瞳が一瞬丸く見開かれた。そこまで突拍子もないことを言ったつもりはなかったのだが。思わず顔に出せば、彼女も困惑したように、その瞳を伏せる。
私はそもそも最初からベレト先生に着いていくつもりだった。弓砲台の奪取をアドラークラッセに任せる、と言われた以上はその役を果たさねばならなかったが、しかし私が頼んだところで首を縦に振るような学友はいない。彼らは元々直感と勢いで動くところがあるが、不思議なことにそれが上手く嵌るということは私自身もよく知っていた。ベルナデッタが良い例だろう。彼女があの弓砲台に留まってくれていなければ、は今頃死んでいたのだから。
結局こうして私がこの任につくことになったが、無事に弓砲台を取り戻せた以上はいつまでもここに留まる必要はない。当初の目的通り、ベレト先生に合流し、そして。
「確かめたいことがあるのだ」
どうしてなどと聞かれていたわけではなかった。だけど、口にしなければ気が済まなかった。が息を飲む。イグナーツが人の良さそうなその瞳を怪訝そうに細めて見せたのは一瞬だけだったが、誤魔化す気も起きなかった。
レスター諸侯同盟に暮らすこの二人は、身分は違えど、同じ学級で学んできた。クロードは胡散臭い男だが、きっと頼りになるだろう。彼を信じてここまでやって来たのだろう。も、だからアレキサンドルに帰ることを選ばなかった。そしてクロードはその思いを無碍にはしなかった。今気がついてしまった。が帰らなかったのは、それをクロードが良しとしたのは、そこに信頼があったからだ。ヒルシュクラッセの級長を示すあの黄色い外套を追いかけていれば、きっと間違いはなかった。少なくとも彼女たちにとっては。
この戦が終わった後、フォドラがどうなっているのかは分からない。ガルグ=マクも今は何とか持ちこたえては居るが、長引けば不利になるのはこちら側だ。ただの大修道院に過ぎないガルグ=マクに帝国の要塞として名高いメリセウスほど整った装備はないのだから。
いつかここは陥落するだろう。それは今日かもしれないし、少し先のことになるかもしれない。その時、私自身がどうするのかを、私は見極めたい。帝国がどうあるのかを知らねばならない。エーデルガルトの思いの全てを覗くことなどできずとも。
は再び、心配そうに私を見つめた。この身を慮ってくれているのだろう。「一人でなんて」と、吐き出されたその声は、ただただ私には、痛すぎるほどに優しい。
ガルグ=マクを落とした後、帝国は同盟や王国に攻め入るつもりかもしれない。そしてフォドラは統一へと向かうのかもしれない。だが、その前に戦火はフォドラ中へ広がることになるだろう。だけど。君は、きっともう戦には出ない方が良い。この先のフォドラがどうなろうと。例えクロードがどう言おうと。君は戦いに向いていないのだ。
それは余所者からのお節介に過ぎないか。
彼女の頬についた返り血を手の甲で拭う。驚いたらしいは「わ」と身を竦めるが、それでも私のことをじっと見つめていた。不思議な目をすると思った。だけど、それはきっと君が私と違って、本来戦いに身を置くべき人間ではないからなのだろう。なんとなくだが、そう思う。
「では」
イグナーツに目礼をして、二人に背を向ける。その向こうでが私の名を呼んだように思うが、振り向くことはしなかった。
もうあの二人とは会うことはないかもしれないな。直感的にそう思う。は兎も角として、イグナーツは敵に回せば厄介そうだ。既にそんなことを考えていた時点で、私はもう心に決めていたのかもしれない。
私はずっと、最後の一押しが欲しかった。そのための腕は貴方のものであるべきだと思っていた。城壁を抜けて外郭に向かい、ベレト先生達の居る前線めがけて走る。
街中は、ほとんど地獄のような有様だった。転がった帝国兵や騎士の遺体は重なり、生々しい血の臭いがまるで霧になって蒔かれたかのように広がっている。見慣れぬ大きな塊は何かと目を凝らせば、それは魔獣の遺骸だった。あの魔獣も恐らく帝国軍のものだろう。一体何が起きているのだ。分からないのは、何もこの戦場においての話だけではない。私がそんな風に思い悩み始めてから、既に一節が経っている。
夕陽に煌めいて色を変えていたそれは血だまりで、知らずに足を突っ込んで滑りかけた。思わず手をつけば、それはまだ生ぬるかった。うめき声がそこかしこから響いている。死にきれなかった兵士達の苦悶の声だ。楽にしてやるべきなのかも知れない。本来だったら私はそう思っただろう、息の根をこの手で止める決断ができたかどうかは別として。だがそれでも今は走らなければならない。遺体を辿ったその先がベレト先生の居場所であるならば、きっと貴方もそこにいる。
私は、今でも飽きもせずに眺め続けているのだ。私を取り巻く全てを、その先に居るであろう貴方の背を。
だから、エーデルガルト。もしもまだ遅くないのならば。手遅れではないと言ってくれるなら。
貴方が我々に応えてくれるなら。
遙か遠く、ベレト先生を相手取り、斧を持ち勇敢に戦う貴方の姿を見た。
その肩に、あの日貴方が確かにこの大聖堂に置いていったあの赤い外套の存在を認めた瞬間、私は貴方の覇道を共に生きようと、そう誓ったのだ。エーデルガルト。