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 帝国兵の軍勢は城郭に近づいていた。当然それは一カ所からではない。城郭都市の至る門からなだれ込まんとする帝国兵は圧倒的な数で、ガルグ=マクに残っていた騎士団や援軍も出陣を余儀なくされている。
 レア様は、ご自身の身を守るための役目をベレト先生に言いつけた。彼への信頼はレア様が突然学級の担任教師として彼を抜擢した頃から始まっていたように思う。今回に限っては勿論、天帝の剣を扱えることも重要視しているのだろうけれど。出撃を控えたカトリーヌさんが、「レア様を頼んだよ」とベレト先生の肩を叩いた。ベレト先生が最終防衛線を任せられるということは、その指揮下にある私たち士官学校生も必然とそこに配置されることになるということだ。



「もー、責任重大だよー」



 大広間で出陣の準備をしながらもそうぼやくヒルダちゃんは、「こんなんだったらやっぱり逃げれば良かったかなー」とほとんどいつもと変わらない様子で呟くから、それに何だか安心した。
 彼女の隣で武器の確認を行う。真剣を持つのはどれくらいぶりだっただろう。ルミール村へ派遣されたときは帯剣していたけれど、ほとんどが事後処理だったから、武器はただの護身用でしかなかった。そう思えば翠雨の節、ローレンツくんがコナン塔へ向かうルーヴェンクラッセに課題協力として随行したあの頃の盗賊退治が最初で最後だったのかもしれない。
 あの時のことを思うと、まだ視界がぐらりと歪むような恐怖に捕われる。私があの時散々な醜態を晒したのは今更言うまでもなかった。そんな私を心配したクロードくんが鷲獅子戦の折、私を傍に置いてくれたことも記憶に新しい。あれから何節も経っているのに、私はあの時の感覚を未だに良く覚えている。
 仲間が、クロードくんが傷つけられたと知ったとき、まるで世界中から音が消えてしまったみたいに私の感覚は研ぎ澄まされた。他人を傷つけることへの恐怖と、奪われることへの怒りがせめぎ合って、無我夢中で槍を投げたのだった。



「あ、そうだ、ちゃん。はいこれ」

「え?」



 不意に思い出したように、ヒルダちゃんが懐から何かを取り出す。思わず手を出してそれを受け取れば、そこにあったのは小さな飾りのついた細身の腕輪だった。
 繊細な造りだ。幾つもの石が散りばめられていて、大広間の燭台の灯りを反射してきらきらと輝いている。



「これは……」



 目を瞬かせて腕輪とヒルダちゃんを交互に見る私に、彼女は小首を傾げて笑う。出会った時からもうずっと変わらない、ヒルダちゃん特有の笑い方だった。



「ほらー、天馬の節にさ、一緒に街にお買い物に行ったでしょー? その時に、一緒に何か作ろうって話をしてたじゃないー」

「した……」



 忘れていたわけではなかったけれど、あの後に帝国軍との一件やアドラステア帝国の宣戦があって、ほとんど有耶無耶になっていた。こんな状況では遊んでいることも憚られると、なんとなく言い出しにくくなってしまっていたのだ。



「あの時に材料は買ってたんだけど、結局ごたごたがあってそれどころじゃなかったでしょー? だから、暇を見つけて一人で作ってたんだー。それがやっと昨日完成してねー」

「えっ」

「首飾りはやっぱりもうちゃんもしてるし、かといって指輪は私があげちゃだめだと思うし、そうなってくるとこれしか思いつかなくてねー」



 もう一度手の平にある腕輪を見れば、それは到底手作りとは思えないほどの精巧さを持っていた。「つけてあげるー」と言われ、素直に腕を出した。私に身体を寄せるようにして腕にそれを回す彼女からは、いつもの花のような香りがした。斧を振るうとは思えないくらいに華奢な指先が、器用に金具を留める。



「か、かわいい……」

「えへへー。自信作だよー。ちゃんにはこの一年、お世話になったしねー。仲良くしてくれたお礼だよー」

「そんな、私の方こそ……」



 色んなことが不意に脳裏を過ぎった。それに気がついた瞬間、鼻の奥がぐ、と痛んだのだった。
 大樹の節、初めてヒルシュクラッセの教室に入った日のことだ。
 士官学校に入学することになったとは言え、幼馴染みのローレンツくんがいるならそんなに緊張することもないかな、なんて軽く考えていたのが間違いだった。彼は私の記憶の中の面影をほとんど失っていたし、なぜか余所余所しかった。だって、「さん」なんて私を呼ぶのだ。他の女の子たちと区別することもなく。おかげで私はすっかり萎縮してしまっていた。
 リーガン家の男の子はまるで後光を背負っているみたいに眩しいし、コーデリア家の出らしい女の子はきっと私よりも年下なのに、すごく頭が良さそうで、難解な本から目を離さない。平民の出だと大きな声で話している女の子はぱきぱきとしていて早速リーガン家の男の子と意気投合して笑い合っているし、エドマンド家の女の子は話しかけないで欲しいと言わんばかりに背を丸めている。馴染めるのかな、なんて不安になっていたその時、私の隣の席に腰を下ろした人が居た。あの時も、この花の香りがした。咄嗟に顔をあげた瞬間、彼女は屈託なく微笑んだのだ。



「席、お隣だねー。あたし、ヒルダ=ヴァレンティン=ゴネリルって言うんだー。あなたはー?」



 もしかしたら、彼女は私のことを最初は貴族だと分からなかったのかもしれない。私は同盟貴族の子息が集まる場にはてんで赴かなかったし、ゴネリル家とアレキサンドル家は直線距離にしたってだいぶ遠く、家同士の繋がりも希薄だった。
 名前を名乗った私に、ヒルダちゃんはその丸い瞳をぱっと見開いて、「あ、あなたがそうなのー?」と身を乗り出した。名前と存在だけは知っていたけれど、こうして顔を見るのは初めてだよね、会えて嬉しいなー。そんなことを彼女は言ってくれたと思う。「よろしくねー!」と差し出された手の平は、小さくて柔らかかった。
 ヒルダちゃんの存在で、どれだけ気持ちが楽になっただろう。
 ヒルダちゃんはそれから、一番のお友達だった。彼女は私を勤勉で頑張り屋だと認めてくれていたし、私は物怖じせず自分の意見を言えるヒルダちゃんを尊敬していた。私の感情を見抜くのが上手で、クロードくんを好きだと自覚するかしないかのうちに、彼女は私の腕をつんつんと突いて、「ちゃんってクロードくんが好きなの?」なんて言うから息が止まったけれど。



「この腕輪、お守りだと思ってね」



 金具を留め終えたヒルダちゃんの、私よりも小さな手が、そっと私の手の平に重ねられる。



ちゃんを守ってくれますようにー」



 冗談めかして微笑んだヒルダちゃんに、私の方が泣いてしまいそうになって、誤魔化すようにその身体を抱きしめた。ヒルダちゃんがつけてくれた腕輪が、手首のあたりで引っかかる。視界の端で、鮮やかな色をした石が光っていた。それが誰かの瞳の色のように思えた。小さな悲鳴をあげたヒルダちゃんの身体に回していた腕に力を込めれば、ヒルダちゃんも応えるように抱きしめ返してくれる。
 震えていたのは私だけで、多分、恐怖心が強かったのも私の方だ。「ありがとう」と呟いたけれど、私のそれは多分一年分のお礼を伝えるには足りなかった。私の背中をぽんぽんと撫でてくれるヒルダちゃんは、まるでお姉さんみたいだ。手首で浮かびかけた涙を拭ったその時、しかし、私は歪んだその視界の奥で、険しい顔をしたフェルディナントくんを見つける。
 出陣の直前、フェルディナントくんのその顔はどこか、青白く見えた。








「一応俺達ヒルシュクラッセはベレト先生の指揮下に入るが、敵は複数箇所から侵入してきている。先生の指示が通りにくい場合は俺に指揮が一任されることになってるから、頼んだぜ」



 クロードくんの言葉に私たちは頷く。アドラークラッセにも、ベレト先生から同じような指示が出たらしい。級長の代役として立ったのはフェルディナントくんであるようだ。アドラークラッセの作った輪の中で彼が語る声は以前と比べて低く、ざわめきに飲み込まれる。
 市街地は入り組んでいて狭くなっているものの、前線はもう城郭の手前まで押し上げられてしまっていると言う。エーデルガルトさんはその前線で指揮を執っているとみられていて、私たちとはこのまま直接ぶつかることになるのだろう。
 ルーヴェンクラッセのディミトリくんが、祈るように目を閉じている。それを何の気はなしに見つめていたら、対角線上に立って彼に目線をやったアッシュくんと視線が絡み合ってしまった。会釈をして薄く微笑んだ彼は、けれど、どこか困っているようにも見えた。
 その時、既に昼を過ぎて久しかった。帝国軍を迎え撃つため、私たちは配置へと向かう。既に侵入された箇所にはシャミアさんやカトリーヌさんを含めた騎士団が向かっていて、そちらが上手く片づけば彼女たちを援軍として迎え入れることもできるだろうとの話を道中聞いた。それまで耐えて、こちらの戦力を一点に集中し、エーデルガルトさんを討つことさえ出来れば勝機はある、のかもしれない。分からないけれど、信じるしかない。ヒルダちゃんからもらったお守りもあるし、大丈夫だ、きっと。もらった腕輪を右手でそっと撫でたとき、不意に背後から肩を叩かれた。







 振り向くと、ローレンツくんがどこか苦々しい顔で私を見下ろしていた。
 そういえば、最近はあまりローレンツくんとお話をする機会がなかったように思う。何だか怒っているようにも見えなくもないから、もしかしたらローレンツくんにとっては私がここにいること自体がその意にそぐわないものだったのかもしれない。
 怯んだのが顔に出てしまったのか、ローレンツくんは私の隣を歩きながら「ここに来て今更文句などは言わないさ」とため息交じりに吐き出した。



「それに僕がもっと早く君に帰れと言ったところで、恐らくはそうしなかっただろう?」

「……うん、それは、そう……だね」



 やっぱり帝国に攻め込まれる前にアレキサンドルに帰って欲しかったのか、と目だけで尋ねれば、ローレンツくんは肯定するかのように初めてその眦を細めた。言葉がなくてもその意図が分かってしまうのは、私たちが幼馴染みだからなのだろうか。並べた肩の高さは、もうあの頃と随分変わってしまったのに。
 北東のあたりから歓声のような音が聞こえる。恐らく帝国軍と騎士団の戦闘が始まったのだろう。周囲に波及した緊張感に飲まれ、思わず大きく瞬きをした私の隣で、ローレンツくんは本当に微かに、私にしか分からないほどに小さく首を振った。



「戦場ではなるべく誰かの傍にいたまえ。僕でも、クロードでもヒルダさんでもいい。見失えばアドラークラッセやルーヴェンクラッセの誰かでも構わないから探せ。兎に角一人になるな」

「う……はい」



 萎縮しながら頷く。やっぱり私は他の皆に比べたら頼りなくて、実戦経験も極端に少ない。色んな人に心配されてばかりだ。だけど。



「報告! 敵が城郭内に侵入! 防衛戦が突破されそうです!」



 哨戒にあたっていた騎士の報告に、その場の空気が変わる。「来たか」外郭に目を向けたローレンツくんが、その槍に手を添えた。その手に、咄嗟に自分のそれを重ねたのは、ほとんど反射のようなものだった。は、とローレンツくんが息を飲む。向けられた目線が絡む。
 ベレト先生がいれば大丈夫、それが希望的観測だと本当は気がついていた。この戦は負け戦だ。私だって本当は分かっている。それでもガルグ=マクに残ったのは、私の知らないところで皆が傷つくのが怖かったからだ。「ローレンツくんも」掠れた声を、私は吐き出す。



「ローレンツくんも、怪我、しないで」



 切れ長のその瞳がゆっくりと瞬く。私は知らないうちに彼の手の甲に力を込めてしまっていた。
 陽が沈み始めて、ガルグ=マクは夕暮れに赤く染まっていた。傾いた太陽の赤い光がその髪を柔らかく輝かせていた。その背の奥には既に帝国兵が進軍を始めていると言うのに、私は今、こんなに美しいものを見ている。
 自信家で、いつもクロードくんを目の敵にしていた。貴族として正しい行いをと私にまで押しつけて、だけど変なところで気を遣う人。結局、あなたは優しすぎる、ローレンツくん。だから私は、あなたの幼馴染みであることを誇りに思うのだ。



「……死ぬな、ではなく、怪我をするな、か」



 ローレンツくんの細められた目は、幼い頃のように屈託なかった。私はここで彼がこんな風に笑うところを、きっと初めて見た。



「難しいことを言うのだな、は」



 私の手のさらに上に重なるように、ローレンツくんがもう片方の手を添える。ヒルダちゃんがくれた腕輪が、その柔らかな、衝撃とも言えないほどの重さに、僅かに手首から落ちた。ローレンツくんの手は酷く冷えていて、私はこんな時だというのに、その温度の低さを心配してしまう。
 それ以上何も言えなくて俯いてしまった私に、ローレンツくんは確かめるように一度だけ、その指先に力を入れた。


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