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セイロス騎士団のほとんどがガルグ=マクを発って、一層戦のにおいが濃くなった。
僕の知るガルグ=マクは、いつだって活気に満ちていた。商人や巡礼者、フォドラ各地から人が集うこの聖地は、空気が酷く澄んでいて、僕はその美しさを頬で感じていた。再誕の儀のためにガルグ=マクを訪れた幼い僕の手を父が繋いでくれた記憶はない。その心細さもあったのだろうか、大聖堂は比類ない美しさと荘厳さを持って僕を圧倒した。
石造りの大聖堂は天井が高く、繊細な玻璃硝子の作る光が、水たまりのように床に落ちているのを眺めるのが好きだった。無邪気な平民の子供がそれをつま先で踏みつけるのを真似したかったが、出来なかった。僕は産まれたその時から、グロスタール家の嫡子として相応しい生き方をしなければならなかったから。このガルグ=マク大聖堂は創建時の記録は断片的に残っているというが、建築家の名は伝わっていないと言う。幼い僕はこの大聖堂を、美しいと思った。反響する人々の足音や息づかいを、愛していた。
しかし、僕は敬虔な信徒とは言えなかっただろう。幼い頃から女神に縋る信者を横目に、自分だけが取り残されたような気分になっていた。今だってそうだ。僕の祈りは形ばかりだ。主に祈って何になる。信じられるのは、形のある物だけだ。
そういう信念に基づけば、主の加護があるなどという文言は意味がない。兵力の足しにもならないのだから。ガルグ=マクは滅びに向かっているのかもしれない。ならば、今も尚そこに留まっている僕達は滑稽か。本能的にも、状況的にも、こちらの優勢を信じる者はいない。それが故だろうか、帝国からの宣戦を受けてから、大聖堂で祈る人間の数が増えたように思う。ガルグ=マクを去った人間も多いと言うのに、皮肉なものだ。
「勝てる見込みはあると思うか、クロード」
クロードにそう尋ねたのは、何も彼が出すかもしれない希望的な答えに縋りたかったから、というわけではない。この男は神頼みを嫌う。他の人間がこぞって大聖堂で頭を垂れ、手を組み祈る中、クロードは平生と変わらぬ様子で人の少なくなったガルグ=マクを歩いていた。暗い顔をした学生たちに声をかけ、冗談を言い、笑ってその背を叩く。彼の普段と変わらぬその態度に救われた人間は大勢いよう。
ルーヴェンクラッセの級長を侮るわけではないが、クロードがそんな様子である一方で、最近のディミトリ君はどこか様子がおかしかった。大聖堂に籠もり、出てこないことが多い。先日シルヴァンと話をしたときにその件について触れてみたところ、彼は乾いた笑いを浮かべてお茶を濁した。何か問題があるのだろうとは思うが、踏み込む気ははなからない。
学級を、いや、将来的に国をまとめる立場にある人間にしては、彼は少し不安定な人間であるように思う。外から観察した他人の戯れ言に過ぎぬが、僕には彼らルーヴェンクラッセの生徒達が、見えない糸で雁字搦めになりかけているように思うのだ。時折彼らは呼吸を失う。その糸を手繰ってくれる存在がすぐ傍にいることを思えば、まだ救いはあるのかもしれないが。
僕の問いかけに、クロードは一瞬目を瞬かせた。
一応は人気のないところを選んだつもりだ。不安に顔を曇らせる学生の前でこの質問をぶつけるほど、僕は気遣いに欠けているわけではない。墓地の傍、大聖堂へ続く連絡橋を見渡せるそこで、縁台に座ることもなく彼を見つめる。
日焼けした、というよりは生来のもののように思える浅黒い肌、彫りの深い顔立ちは男から見ても整っていて、その瞳は宝石のように美しい。その目が僕を確かめるように細められた後、彼は形容しがたい笑みをその口元に浮かべた。
「勝ち負けよりも、その先だろうな」
僕はこの男を、こういう人間だったな、と思い出す。明言を避けながらも、その目はどこか未来を見据えるようだった。
「帝国の侵攻はここで止まることはないだろう。いずれ同盟や王国にもその手は及ぶはずだ。その時は、ローレンツ。お前を頼ることになる」
「……それは、この戦に勝てないと言っているようなものではないか?」
「お前にしか言えないさ」
笑みを携えたまま言われれば、不謹慎であることは認めながらも、僕も笑う他ない。「違いないな」と答えた僕に、クロードは今度こそ声をあげて笑った。
僕は、もしもこの戦で僕に何かあった場合、君にを託すつもりでいた。本当は今だってそれを伝えたかったのだ。あの子は君が好きだ。本当は、君のような人間にを任せるのは本意ではないのだが、自分がいなくなった場合を考えた時、真っ先に君の顔が浮かんでしまった。
シルヴァンはかつて、クロードのそれを「魔の手」と評した。あれはの感情を利用しているだけだと。実際、鷲獅子戦での二人を見た以上、それについて納得せざるを得ないところはある。クロードはこの一年、僕達との絆を育む一方で未来を見据えていた。その手を広げ、いつか来るかもしれない「何か」のために、言葉は悪いが、彼は駒を育てていたと言っても良い。
無論、彼にその気はないのだろう。ただ穿った見方しかできない僕やシルヴァンのような人間には、彼のやり方がそう見えていたというだけの話だ。そのために、クロードは鷲獅子戦で彼女を傍に置き、敢えて自らを窮地に追い込んだ。そのために使われてしまったからこそ、シルヴァンもそのやり方を非難するところではあるのだろう。シルヴァンにとってがただの、同じ士官学校に通うだけの仲間の一人にしか過ぎなくとも。
実のところを言うと、僕はまだクロードが彼女の傷に向けて言ったらしい「名誉の勲章」という言葉を許せてはいない。女性の身体に残るには生々しすぎるあの傷痕は、僕が、そしてクロードが一人の少女を守ることができなかったことの証明だ。
僕と君とでは、恐らく物の価値観が違うのだろう。だから僕の思う「の幸福」と、彼の思うそれは大きく食い違うはずだ。だけど、がそれでも君を選ぶと言うのなら、僕にそれを止める権利はない。いくら幼馴染みであったとしても。
だからいつか、僕は君に彼女を託すことになるのだろうな。予感のように思うのだ。この戦でなくても、いつか、この先で。
僕はクロードを信頼したい。
今、僕は、レスター諸侯同盟における次期盟主が君で良かったと思っているから。
「だから、死ぬなよ。ローレンツ」
肩を叩かれてしまって、僕は思わずクロードから目を逸らし、喉の奥で笑った。
今「死ぬな」などと言われてしまっては、を頼むなど、言えるはずがない。
「皆、聞け! すでに帝国軍は目前まで迫っている!」
大広間にて、揃った学生を前にアロイスさんが叫ぶ。孤月の節、二十九日。エーデルガルトさんの軍は既にガルグ=マクの外れで騎士団とぶつかっていた。とうとうここまで来てしまった。
普段の穏やかで優しい、陽気なアロイスさんを知っているから、その鬼気迫った表情にはどうしても緊張感が走る。アロイスさんは「戦える者は武器を取れ! 他の者は急ぎ避難せよ!」と続けた。まだそうして逃げ道を残しておいてくれることが有り難かった。だけどここまで来て、覚悟が決まっていない人間なんてきっといない。ぎゅ、と汗ばんだ手の平を握りしめる。震えていたそれは、武者震いだということにしておく。
ルーヴェンクラッセ、ヒルシュクラッセ、そしてアドラークラッセの生徒達の顔を、一人一人、アロイスさんは確かめるように順に眺めている。私の顔も、彼はじっと見た。応えるように見つめ返す。続けて別の生徒へと移っていくその視線に釣られて、私もまた視線を動かした。そして、私は大広間の壁際、他の生徒から少し離れた位置に立っていた彼の姿を、偶然見つけるのだった。
フェルディナントくんは、祈るように目を閉じていた。この一節の間、彼はそうして、ほとんど言葉もなくいた。思い悩んでいることは一目見て分かった。周囲からの心ない言葉や不躾な目線に傷ついていることも。それはきっと今も変わらない。それでもガルグ=マクに残るのだから、アドラークラッセの皆は肝が据わっている。残った彼らの表情はそれぞれ全く異なっていたから、読み取ることは困難だったけれど。俯いたドロテアさんも、帽子でその顔がほとんど見えない。
「我らには主の加護がある! 恐れることはない、勝利を信じるのだ!」
アロイスさんの突き上げた拳に呼応するように、各々が腕を振り上げた。怒号に似た歓声は空気を震わせる。戦うための気運が高まり、うねりに似た感情に飲み込まれる。突然、腰に差した剣が存在感を示したような気がした。確かめるようにその鞘を撫でる。指先が震えていることに気がつくだけだった。恐ろしくても、逃げずにここで皆と戦うと決めたのは私だ。今更何を震えるのだ。叱咤しながら、唇を噛みしめる。
「ベレト、準備はできているか?」
固い足音を響かせて、カトリーヌさんが私の横をすり抜けてその人の元へと向かう。彼女は英雄の遺産を扱う聖騎士で、レア様の側近だから、ガルグ=マクの防衛を私たちと共に任されていた。様々な戦場で一騎当千の働きをするカトリーヌさんの存在は、心強い。
そのカトリーヌさんの背を目線だけで追う。高い位置にある窓から差し込んだ夕陽は、長く、赤い光の線を作っていた。その先に彼は居た。
声をかけられたベレト先生は、気負ったところのない様子で何か返事をしていた。その伏せられた睫毛を、ただ見ていた。
その視線が、この人混みを縫って私に向けられることはないと知っているから、私はベレト先生のその横顔をほとんど無遠慮に眺めることができた。すっきりとしたその輪郭に、涼しげな目元。少しは表情が豊かになったとは言え、感情は読み取りにくくて、何を考えているかは今でもはっきりとは分からない。
だけど、この人だったらこの絶望的な状況でもどうにかしてくれるんじゃないかと思ってしまうのだ。まるで希望に縋るみたいに。
騎士団が持ちこたえているとは言え、その前線が後退するのに時間はそうかからなかった。
あの決起集会から二日後の三十一日、前線を押し上げた帝国軍はガルグ=マク城郭内に侵入。一部の騎士と諸侯からの援軍と共に、私たちは最後の砦として、ガルグ=マクの防衛戦を守るために出陣することになる。