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 ここ最近、ディミトリくんは日がな大聖堂でお祈りをしていた。
 初めてその姿を見かけたときは、静かな闘志を抱いて、というよりもどこか鬼気迫った表情で手を組み祈るその姿に驚いて、遠く離れた出入り口のあたりでお祈りを済ませて引き返してしまったわけだけど、彼を大聖堂で見かけることはそれ以降も多々あった。
 ルーヴェンクラッセの級長を示す肩口の青い外套も、その金糸のような髪も、大聖堂の中では良く目立つ。それでもディミトリくんは周囲の人間からの視線など物ともせず、ひた祈り続けていた。それはどこか、切迫感すら覚えさせた。その背から滲み出る隠しきれていない殺気は、荘厳な大聖堂では異質であった。








 どこもかしこも戦への準備でガルグ=マクは忙しない。外郭都市に住んでいた人々は避難指示を受けて王国や同盟領へ逃げ、街全体が閑散としている。空き家になった家を狙っての盗人も出ているらしいけれど、賊に回す兵力はなく、黙認せざるを得ない状況であるのが歯痒かった。
 偵察として哨戒に当たっているシャミアさんの計算の通りに帝国軍が進軍しているのならば、その日はもう目前だ。日ごとその緊張感は高まってきていて、レア様やセテス様、騎士の皆さんも、先生たちも、ピリピリとしていて気が休まるところもない。生徒の半数近くは領地に戻ったし、それを責めるような空気があるわけではなかったけれど、こんな時ですら私はなぜか現実味がなかった。悪い夢を見ているみたいだ。もうすぐここに帝国軍が攻めてくることが信じがたい。
 お兄様からは、一通だけ手紙が届いた。この混乱の中、その一通がガルグ=マクに届いただけでも奇跡と言って良かっただろう。ガルグ=マクから逃げてきた修道士に、私が留まるつもりであることを聞いたらしい。それが何通も送った手紙の中の一通であることはその文章から読み取れたし、お兄様は私に戻ってくることを望んでいる。だけど、やっぱりどうしても出来なかったのだ。お兄様からの手紙を見なかったことにして、私はそっと机の引き出しにしまった。
 実際問題、今からガルグ=マクを発つことは難しいだろう。帝国軍は最早ガルグ=マクへ迫らんとしている。逃げると口にしていたヒルダちゃんも、私と共にガルグ=マクに残ったままだ。



「本当に戦力になるとは思わないでよー? ベレト先生もあたしに期待しちゃだめですからねー」



 ベレト先生にまで念を押すヒルダちゃんは、眉を寄せてそう主張した。その日私は、ヒルダちゃん、クロードくん、それからベレト先生の四人で向かい合って昼食を摂っていた。ヒルダちゃんとクロードくんと席に着いたところ、ベレト先生がふらりと食堂に現れたのを目敏く見つけたクロードくんが、ほとんど強制的にベレト先生を呼び寄せ、自分の隣の席に座らせたのだ。おかげで私はベレト先生の真向かいという位置で食事を摂ることになっている。元々そうなのだけど、先生は眼力が強い。目の前のベレト先生がふとした瞬間に私をじっと見つめるから、咀嚼するのも億劫だ。
 この戦において最前線に向かうのは騎士団の方々だ。ガルグ=マクより手前で迎え撃つのだと言う。私たち学生は、万が一城郭内に敵が侵入した場合の防衛を任されることになるらしい。学生の指揮はベレト先生に一任されるとのことだったが、ヒルダちゃんはどうにもそれについて不安を覚えているようだ。勿論その指揮能力に対しては、ベレト先生のそれはクロードくんに匹敵するかそれ以上だとは知っているから、その点について鬼胎を抱いているわけではないだろう。



「傭兵仕込みなのか知らないが、不思議な指揮を執るんだよなあ。どういうわけか死人も出ない。先生の力のなせる業、ってことなんだろうが」



 以前クロードくんはそう口にしていたけれど、実際ベレト先生の指揮は常日頃から不思議なほどにその時々の状況に嵌っているように思う。これまでルーヴェンクラッセは多くの戦地に赴いていた。マグドレド街道、ルミール村、封じられた森、特筆すべきは前節における聖墓での戦いだろう。地上で民間人の避難指示にあたっていた私たちは彼らの戦いを見ることは当然できなかったわけだけど、少数とは言え精鋭の帝国兵を相手に一切の死傷者を出さず、宝物を奪われることもなかったというのは出来すぎだ。いくら天帝の剣を扱えるとは言え、常に生徒と共に生還する彼は、戦場の女神に愛された奇跡の人であるように思えた。
 とは言え、これまでの戦いがそうだったからと言って、それがこの絶望的な状況に於いても当てはまるとは限らない。それが分かっているから、ヒルダちゃんも牽制するように「戦いはするけれどそこまで当てにはしないでほしい」と口にするのだ。
 期待されては困る、というヒルダちゃんの口癖は、実の兄であるホルスト将軍の存在に起因しているものだということを、付き合いの長い私やクロードくんは知っている。優秀な人間はそれだけ期待を背負ってしまうものだけど、ただ一度の失敗で周囲の人間は手の平を返したように失望するらしい。ホルスト将軍がその重圧の直中にいることを妹の彼女はすぐ傍で見ていた。だから、ヒルダちゃんは才ある人間が背負わねばならない苦悩を恐れるのだ。
 他学級の担任であるベレト先生はそんな彼女の内心を知らない。心理的な問題というのは、時にその実力や判断力にまで制約をかけてしまうということを知ってはいても。
 ベレト先生はヒルダちゃんの顔をじっと見つめると、ほとんど曖昧に頷いてから答えた。



「……頼りにはしている」

「えーっそれもなんか微妙なんですけどー」

「あはは、良いじゃないかヒルダ。ベレト先生からそんな言葉が聞けるなんてよっぽどだろ?」

「クロードくんの方が良いですよ先生ー。頭も良いし、腕っ節は強くないーなんて言ってますけど、そんなことないんですからねー」

「クロードも、味方でいてくれる分には心強いな」

「お褒めに預かり光栄だが、それはこっちの台詞だよ、先生」



 ヒルダちゃんやクロードくんの言葉に再び小さく頷いたベレト先生は、それから私の顔をじっと見つめた。彼の千種の色の髪に私はまだ慣れておらず、風貌が変わったからと言ってその中身まで変わったわけではないことを知っていながらも、やっぱり緊張してしまう。



も」



 名前を呼ばれて、思わず姿勢を正した。ベレト先生はほとんど笑わない。元からそうだったけれど、濃縹のような色の髪を失ってから、余計にそう思うようになった。先生はジェラルトさんを殺した相手の命を奪った代わりに何かをなくしてしまったみたいだ。多分、それを自分でも理解しているから、こうやって確かめるように手繰り寄せようとしている。細められた目が、その時の声音とはやけにちぐはぐに思えた。



「無理はするなよ」



 それでも先生は間違いなく人間だ。








 こんな時ばかり主に縋ることは滑稽だろうか、だけどそうしていないと落ち着かなかった。戦の足音は私たちの背後まで迫ってきている。セイロス騎士団は近隣諸侯から得た援軍と共に明朝ガルグ=マクを発ち、外郭都市の外で帝国軍を迎え撃つための布陣を敷くことになっていた。
 帝国は、どれだけの数の兵士を投入するのだろう。天馬の節、私たちの足止めのためにガルグ=マク内に侵入したあの榛色の髪をした将を思い出す。あの時彼は民間人と、私たち学生を見逃してくれたけれど、帝国は、今度は本気で攻めてくる。もしも彼がまた敵方にいたとしても、きっと次はないだろう。
 だけど、学生の身である私たちだって多少は力になれる。ガルグ=マクを、レア様をお守りするための壁になるくらいは。声に出てしまっていたのか知らないけれど「壁はまずいです、。死んでしまっては元も子もないのですから」と背後から声をかけられて、妙な声が出てしまった。天井の高い大聖堂は声が良く響くから、私は自分の口から漏れた高音に今更ながら口を押さえる。振り向けば、そこに居たのはイングリットちゃんだった。



「す、すみません。そんなに驚くとは思っていなくて……」

「う、ううん……」



 私が声に出しちゃっていたのも悪いから、と続ければ、イングリットちゃんは困ったように薄く微笑んでから私の座る長椅子の隣を指して「いいですか?」と尋ねた。こくこくと頷く。イングリットちゃんは拳二つ分ほど間隔を開けた、私の隣に腰を下ろす。イングリットちゃんが大聖堂に来るなんて、珍しいな。そんなことを考えたけれど、言葉にはしない。イングリットちゃんはそのままそっとその手を組んで僅かに俯いた。白く滑らかな手をしていた。私ももう一度、同じように手を組んでお祈りをする。今度は外に漏れないように、ぎゅうと唇を閉じて。
 座る私たちの斜め、ずっとずっと先に、今日もディミトリくんは居た。彼は微動だにせず、何かを祈り続けている。神に捧げるというよりは、まるでもっと別の何かにそうするように。広い背中の作る影は、濃い。
 私は彼のことをほとんど知らない。直接会話をしたことなんてないし、挨拶も滅多にしない。夢の中でだったら手を取られたこともあるけど。だけど現実は、すれ違っても、目が合ったことすらほとんどないのだ。彼は正しくファーガス神聖王国の血統を継いだ人だ。国を背負う重責は、私には計り知れない。だからこうして殺せぬ殺気を纏ったまま、祈り続けているのかもしれない。だって、ガルグ=マクで帝国軍を止めることができなければ、次は。
 次は。
 は、と目を開けたとき、隣に座っていたイングリットちゃんがその顔をあげたのがなんとなく分かった。彼女は遠く、ただ、ディミトリくんの背を見ていた。固く組んだままの指が、微かに震えていた。僅かに細められた瞳が、思いやるように滲んでいた。見てはいけないものを見てしまったように思えて、慌てて目を閉じる。イングリットちゃんは、ディミトリくんの幼馴染みだ。私の知り得ない何かが、そこにはあるのだろう。そう易々と踏み込めるはずもない。
 人の数だけ思いがあって、戦わねばならぬ理由もあるのだろう。だけど私たちは、自分と、自分に近い誰かのことしか知り得ない。抱えて守ることすら難しい。本当は全部守りたいし、戦争なんかなければいいし、無事に、皆で笑って卒業したかった。仮初めの平和でも良いじゃないか、そう思うのは、私と、私の周囲の皆だけは確かに幸せだったからだろう。エーデルガルトさんはきっとそうではなかった。ディミトリくんだって何かを抱えていた。私はその痛みや苦しみを知ることはできないし、何もできない。この戦いを見届けることくらいだ。それだって突き詰めてみれば自己満足に過ぎないのに。
 私の座っていた長椅子の真横をすり抜ける影に気がついて顔をあげる。ベレト先生が、ディミトリくんの元へ向かっていく。彼の背に躊躇いなく触れて何か声をかけたベレト先生は、あの春に私たちを選んではくれなくて、今、彼の隣に居る。私はどうしてか、それが運命であったように、今になって思うのだ。
 ディミトリくんが振り向いた。その瞳はやっぱり何かを思い詰めたように濁っていたけれど、それでもベレト先生に対して、彼は微かな笑みを浮かべていた。
 私がそれに救われたように思うなんて、おかしな話だ。 














 戦が迫ってるなんて言ったらさすがにアビスも無関係じゃいられねえ。とは言え、今から足掻いたってなるようにしかならねえのが現状だ。他に行き場のないような連中ばかりだから、俺が面倒を見てやらなきゃならない。だが一方で士官学校の生徒はこいつらと違って帰る場所がある。自領へ帰って行く学生の姿に、俺はほとんど無意識にもそうしたんだろうと決めつけていた。
 もういなくなっちまったやつを追いかけてまで礼をしようとはさすがの俺も思わない。だから、まあ良かったな、とは思ったのだ。お互いにここが落とし所、ってやつだ。
 それはさておき、帝国軍の攻撃を受けてもアビスに被害が及ばないようにするには、まず出入り口を完全に封鎖するしかねえよなあ。アビスには戦えねえ年寄りや子供も大勢いるから、逃げるより閉じこもるしかない。バルタザールにも手伝わせるが、なかなかの重労働だぞ、こりゃ。
 アビスに通じる穴ってのはあちこちにあるから、最低限分かりやすい所だけでも封じておかなきゃなんねえ。そのための下見は既に終わらせていて、そんじゃあ穴を埋めますかって夜だった。ガルグ=マクを歩いているを見かけたのは。おいおい嘘だろ、帰ったんじゃねえのかよ。そう思ったが、見間違うはずがない。「」と呼びかけちまったのは、慌てていたせいだ。あ、やべ、名前、知らないふりしてたんだ。そう思ったけれど、は俺の狼狽に全く気がつく様子もなく「こんばんは」と丁寧にお辞儀をしてみせた。



「まだガルグ=マクにいたんですね。戦いが始まるのに」



 こっちの台詞だと言いたいのを飲み込む。一節ぶりだ。この間、地上ではいろいろあったに違いない。覚悟もそれなりに決めたんだろう。だが、彼女はどっから見ても来たる戦いに緊張していた。逃げときゃ良かったのになんて、俺に思われちまうくらい。
 冷え込んだ夜だった。吹き付ける風に身を縮ませるは本当に戦えるのだろうか。そんなことを考えたせいで、余計なことを言ってしまったのだ。「戦いっつっても、俺は戦う気はねえからなあ」の目が、一度だけ瞬く。



「なんなら、お前も俺達と一緒に隠れるか?」



 後で振り返れば、思いつきで口にした言葉だった。だが、別に今更アビスに一人増えたところで問題ないと思ったのだ。アビスがなんなのかをこいつが知っているようには思えないし、俺の名前も知らないは、俺が普段どんなことをしているかも知らないだろう。だけど、そういうのは追々説明していけばいい。



「あんたに死なれるのも寝覚めが悪ぃからさ」



 続けた言葉にはぽかんとしていたが、やがて明らかな困惑を顔に出す。その顔がちょっと赤いように思えたが、一体何に動揺したのか。「あの、でも」もごもごと口の中で何かを呟いてから、は思い切ったように吐き出した。



「私、あなたのこと、全然知らないので……」



 それがあまりにも切実に響いたから、とうとう俺も笑っちまったのだ。ああ、まあそうだよなあ。いくら警戒心が薄くとも、今まで素性も名前も何もかもを隠し続けた俺のところに来るわけがねえか。なぜだかじわじわと熱がこみあげて来る。の肩を労うように叩いた。その目が泳いでいることが面白い。



「わかったわかった。じゃ、代わりにあんたが上手く生き残れるよう、女神様に祈っておいてやる」



 そう言った俺に、彼女は目を逸らしながらも小さく頷くから、ますます面白い。
 俺の激励なんて、名前なんかよりもよっぽど高いんだぜ?
 お前と遊ぶのもここらが潮時か。一年近く俺の暇を潰してくれた、これが礼ってことで。もう二度と会うこともないだろうが、どうか、幸せに。


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