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 レア様は、ガルグ=マクで帝国の軍勢を迎え撃つ気でいるらしい。兵力の差を考えればそれしか道はないのかもしれないが、それでも勝機は薄いだろう。攻め込まれる以上、ほぼ籠城戦の形になるはずだ。近隣諸侯からの援軍の見込みがあれど、物資の補給も限られることを思えば、明らかな劣勢になることは想像がつく。相手はあのアドラステア帝国。それを率いるエーデルガルトさんが非凡の将であることをよく知っているのは、我々だ。彼女が自由に動かせる強大な兵力を持ち敵に回ったというのは、最早絶望感を植え付けるのに十分だっただろう。
 兵の士気に差があるのも問題だった。帝国出身なのは、何も問題視されがちなアドラークラッセの生徒ばかりではない。セイロス騎士団の中にも帝国の出である人間は大勢いた。セイロス教に心身を捧げたと言え、故郷と戦うことを受け入れるだけの気概を持つ人間ばかりではなく、その動揺は手に取るように明らかだった。一方、祖国への侵攻を恐れガルグ=マクを発つ王国や同盟領出身の人間も多かった。彼らを責めることが出来る人間など、居はしまい。



「あたし? どうにかして逃げますよー」



 ヒルダさんがベレト先生にそう話しているのを偶然耳にしたのは、アドラステア帝国の宣戦から数日がたったある日のことだった。そうは言いながらも、ヒルダさんはあれから数週間経った今も尚ガルグ=マクを発つ気配を見せない。撤回したのか、そもそも冗談だったのかは分からないが、ただ、僕はあれを聞いたとき、思ったのだ。
 もアレキサンドルに戻るべきだと。
 当主が代替りしたばかりのアレキサンドルは、恐らく他の領地以上にこの状況に動揺しているだろう。がこれから攻め込まれるガルグ=マクにいればヴァイル殿も気が気ではないはずだ。
 戻るべきだ、と言うと語弊があるかもしれない。戻るだろうと思い込んでいたのだ、僕は。情に惑わされるような判断は、戦場においてすべきではない。仲間を守る、それは力のある人間が、背負うべきもののある人間がすべきことだ。君の守るべきはガルグ=マクではなく、アレキサンドルにこそあるのではないか。万が一君がここで死ねばアレキサンドルはどうなる。残される兄君は。
 僕は君の屍を抱きたくない。



「……そういうことはさあ、俺じゃなくて本人に言うべきじゃないか?」

「言えるものか。第一はもう残る意思を固めている。僕が今更口を出したところで……」



 僕の言葉に、目の前に座っていた彼は分かりやすく大きなため息を吐いた。
 目に慣れない青の絨毯、ほとんど生活感のないこの部屋は、もしかしたらほとんど寝に帰るくらいでしか使われていなかったのかも知れない。どうしてこんなところに連れて来られねばならないのか。色の薄い茶を平凡な茶器で適当に淹れて僕の前に置いたシルヴァン=ジョゼ=ゴーティエに、僕はただ目を細めている。








 僕がシルヴァンと出くわしたのは、寮の部屋に戻る道中だった。丁度釣り池に沿うように歩いてきたシルヴァンと、食道と寮の間にある通路を歩いていた僕は、温室の前でほとんど合流するような形で顔を合わせてしまったのだ。僕は分かりやすく感情を表に出したつもりだったが、シルヴァンの方は「よう」と気安く話しかけてきた。
 いつ頃からかは分からないが、どうも僕はシルヴァンからしてみれば恰好の暇つぶし相手として認識されているらしかった。そして不思議なことに、僕の方もほとんど条件反射で嫌悪を顔に出しているだけで、彼との会話はそう気が重いものでもないと捉えている。彼は掴み所がなく、不真面目で軽薄で、もしが彼を好きだと言えば全力で止めることは間違いないが、それでもそう悪いやつではない。表に出さないだけで、きちんと考えているし、周囲を観察している。そういう点は、一応評価している。
 彼の周囲に居た女学生のほとんどは領地へ戻ったらしく、最近のシルヴァンは一人でいることが多かった。このような状況下において信じがたいことであるが、どうも彼は暇を持て余しているらしい。



「いやー。どこもかしこも戦争の準備で、嫌になっちまうよなあ。皆ぴりぴりしてやがる」



 当然のことを口にするものだから、僕は寮の階段を上りながら、呆れを隠さずに「帝国がガルグ=マクに到達するまで二週間もないのだ。緊張感がなくては困るさ」と緩く首を振った。
 彼はこんな調子だが、さすがにゴーティエ家の人間であるだけあって、その武勇には目を見張るものがある。この一年、数々の戦場を潜り抜けてきたことでその実力も増したことだろう。そういう生徒の集まりであるルーヴェンクラッセは今、下手をすれば騎士団以上にその力を信頼されているかもしれない。何せベレト先生は天帝の剣を扱い、その力をもってして聖墓にて帝国軍を撃退しているのだから。
 勿論、僕達だってこの一年、それなりに研鑽を積んできた。武を磨き、戦術を学び、そして実際に人を殺した。経験が不足しているとは思わない。だが、それでもやはり、僕は。



「そういやあ、は国に帰らないのか?」



 不意に、僕の心を見透かすようにシルヴァンがそう言った。
 なんてことはない、恐らく階段を上りきってすぐに彼女の部屋があることをシルヴァンが思い出して、それで会話に出したというだけの話なのだろう。僕はその時、一体どんな顔をしてみせたか。このやたらと勘の鋭い男相手に、取り繕うことが無意味だとは分かっていた。僕は目線をどこに向ければ良いかも分からず、ほとんど不自然に彼女の部屋の扉を見、シルヴァンの垂れ目がちの瞳を見、それから己の行く先を見た。
 帰らないのか。そんなの僕が本人に直接聞けば良かった話なのかも知れない。そしてきちんと、懇切丁寧に話して聞かせてやるべきだった。帰るべきだと。だけど僕はそれができなかった。



「……帰る……と思っていたんだがな」



 情けなく、語尾が掠れて消えていく。そうしているうちに自室の前に着いて、僕はシルヴァンに「では、ここで」と軽く手を振り、扉を開けた、のだが、ぐ、と背後から肩を掴まれ、扉の取っ手から手を離してしまう。ほとんど引きずられるようにして身体が傾く。転ばぬように耐えるが、振り払おうにもこの男の腕の力が異常に強く、逃げられない。



「お、おいシルヴァン、どこへ連れて行くつもりだ」

「いやー、まあ俺だってたまには野郎を部屋に招待してやることもあるさ」

「僕は別に君の部屋になど」

「まあ遠慮するなって。そうだ、良い茶葉があるんだ。ちょっと茶でも飲みながら話をしようぜ」

「人の話を聞け……っ」








 そして今に至ると言うわけだ。
 彼の言う良い茶葉は街に下りればいくらでも手に入る代物ではあったが、これはある種、これから戦争が始まることに対する皮肉なのだろうか。こんな茶葉すらも「良いもの」として分類される日が来ることも近いと。いや、そこまで考えていることもないか。恐らく、適当に言いくるめたかっただけだ。洗練されたとは言い難い所作で茶器を持つシルヴァンは、ほとんど遠慮がない。



「で、帰ると思ってた、ってことは、は帰らないってことか?」

「そういうことになるな」

「ほー。言っちゃあなんだがは領地に帰るべきだと思うぜ。あの子は戦いに向いてないしな」



 言いながら、彼は僕からについての話を聞き出そうと身を乗り出した。娯楽がなくなった分、他人の話で暇を潰すつもりなのだろうか。そう思いもしたが、ただ、続けて吐き出された「父親が亡くなったばかりなんだろ」というシルヴァンの声は、彼女を思いやるように、低い。
 躊躇う気持ちもあったが、この決して美味くはない茶をこんな男の居室で飲んでいると思うと、不思議なことに舌はするすると動くのだった。僕自身、どこかで誰かに打ち明けたかったのかもしれない。どこにも吐き出せずにいたこの本音を。はあ、と長くため息を吐いて、自分の中で気持ちを切り替える。



「僕だってそう思うさ。相手は帝国軍だ。しかもこちらが圧倒的不利な状況であることは覆せない。投入される兵力数、相手の作戦、不確定情報が多すぎる以上、わざわざ死地に赴くなど」

「お、だったらあれか? 自分が守るってやつか?」

「それが出来れば良いが、戦場で何が起きるかは分からないだろう。帰るべきなのだよは。兄君の元で、フォドラの平穏を祈るべきだ。君の言う通りそもそも戦いには向いていないのだから」



 僕は、彼女に目の前で死なれるのは御免だ。
 そう口走ったとき、自分の内臓が酷く痛んだことに気がついた。直視しないようにしていたが、これが戦争である以上、彼女の死という未来は大いにあり得るのだ。
 そういうことは本人に言ってやれ、とシルヴァンが呆れたように口にしたが、そんなことができるわけもなかった。彼女はもう自分で道を選んでいる。いや、選んでいるというよりは、疑いもせずにここにいる。ヒルダさんやレオニーさん、イグナーツ君、リシテア君、マリアンヌさん、ラファエル君、そしてクロード。誰一人としてこの地を去らないならば、自分だけが逃げるわけにはいかないと。アレキサンドルに戻るという選択肢すら、彼女にははなからなかったのだ。
 領地に戻るのならば今からでも遅くはないと、本当は説得するつもりでいた。彼女が伏せているその札を、その前に指し示すつもりでいた。もしもあの日、彼女がクロードと共にいなければ。
 あの覚悟を決めたような横顔を見て、帰れなどと言えるものか。



「ローレンツ」



 不意に名前を呼ばれて顔をあげる。シルヴァンはその顔からほとんど表情を消していた。開かれた唇から発せられたその声は、掠れている。「ひでえ顔してるぞ」うるさいな。
 こんなことになるくらいならば、父君を失った君をアレキサンドルまで迎えに行かなければ良かった。僕の手の届かないところで、傷つけられることもないままに祈り続けているのが、きっと君にはお似合いだったのだから。
 十日後に控えた帝国との戦いに勝機があると、僕は思っていない。恐らくこれを契機に戦火はフォドラ全土へ広がるだろう。ガルグ=マクを落としたアドラステア帝国が、次に進軍する先はファーガスか、レスターか。いずれにせよ、アドラステアの領地に近接するグロスタールの行く先は恐らく既に決まっている。
 もしもがこの戦を生き抜いたとして、それで、彼女はどうするのだろう。クロードの顔が、不意に浮かんだ。クロードがどこまで先を見ているのか、僕には分からない。
 だが彼なら、この同盟を正しく導くのではないかと思うのだ。のことも、きっと。


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