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とんでもないことになってしまった。アドラステア帝国の皇帝に即位したエーデルガルトさんが、あの聖墓への襲撃の直後、セイロス聖教会に開戦を宣言したのだ。
これが間もなくフォドラ全土を巻き込む大きな戦争に繋がることは間違いなかった。ガルグ=マクは震撼している。恐らく同盟領にも、王国にも、この宣戦は既に伝わっているだろう。
ここ数百年の歴史で、それぞれの国内で反乱や武力衝突、外敵からの侵攻はあれど、フォドラ内で国同士がぶつかり合うような戦が起こったことはなかった。振り返れば、今から三百年前、リーガン家が諸侯を率いファーガスと激しく争った三日月戦争が最後の大きな戦争であるはずだ。結果、今のレスター諸侯同盟が成り立ち、今もなおリーガンを盟主とした共和制政治は続いている。もしもあの戦争がなければ、今でもこのフォドラは帝国と王国とが二分するものであったのかもしれない。戦争はそれほどに、世界を大きく変える力を持つ。
ここ数年における不穏な事件の数々を思えば、フォドラは常に不安定な情勢の上にあった。帝国では七貴族の変が起き、その五年後に王国ではダスカーの悲劇が起こっている。だが、アドラステア帝国による大規模な宣戦布告があるなどと誰が予想しただろうか。それも、セイロス聖教会に反旗を翻すなど。「セイロス聖教会はフォドラを支配せんとするために教義を利用し、人々を欺き続けてきた。そのような信仰は打ち砕かれて然るべきだ」新皇帝の主張は、日を重ねてこのガルグ=マクにまで伝わっている。
それに怒りを露わにしているのはセテス様だ。帝国の、エーデルガルトさんの目的はつまりセイロス教会に代わってフォドラを統べることなのだろうとセテス様は仰っている。フォドラの根本たるセイロス教を否定することで自身を神格化し、その正当性を主張しているのだと。
エーデルガルトさんの真意は分からないし、今それを解明することはできない。本当にセテス様の仰る通りなのかもしれないし、真実はまた別のところにあるのかもしれない。だけど、帝国がガルグ=マクと敵対したことは確かなのだ。教会に味方する諸侯をも、エーデルガルトさんはその攻撃対象とみなすらしい。
「ここで帝国を倒さねえと、同盟領も危ねえってことだもんな」
ラファエルくんのその言葉は真理で、私たちはだからこそ帝国軍を食い止めなくてはならないのだろう。戦火を広げぬためには、ガルグ=マクで帝国軍を打ち砕く他にない。
けれど、偵察に向かっていたシャミアさんが戻るまで、私たちは出所が不明の噂に翻弄された。何が本当で、何がそうでないのかを見極めるにはガルグ=マクにいる以上難しかったけれど、私たちよりもそれに振り回されていたのはアドラークラッセの生徒たちだったはずだ。
帝国の六大貴族のうち、それぞれ軍務卿と内務卿に就いているベルグリーズ家とヘヴリング家はエーデルガルトさんにつき、ヒューベルトさんのお父様でいらっしゃるベストラ候は暗殺された。ゲルズ公は更迭され、ヴァーリ伯はエーデルガルトさんに睨まれ蟄居を余儀なくされた結果、奥方様が新皇帝への忠誠を誓い、世襲宰相の地位を有していたエーギル家は罷免され、領地の統治権も失い軟禁状態にある。いずれも彼らの身内に関わることだ。思い悩まないはずがない。
アドラークラッセの彼らが執務室に呼び出されたのは襲撃直後の一度きりだったけれど、まるで見えない糸で周囲から切り離されてしまったかのように、彼らは断崖に立っていた。他人から、苛立ちをぶつけられることも多かったと思う。彼らの出身がアドラステア帝国である以上、教会としても彼らを完璧に信用することは難しかったのだろう。いくら彼らがエーデルガルトさんの思惑など知らなかったと主張しても、そしてそれが実際事実であろうとも、彼らが一年の間同じ教室で学び、課題をこなし、鷲獅子戦を含む数々の行事に参加していたことは確かだ。
彼女の影響を少しも受けては居なかったか、何か感じるところはなかったのか、問いただしたところで互いが望むような答えは出せない。不毛であると知っているから、教会は敢えて彼らを捕えておくことも、放逐することもしなかった。そうするだけの余裕も、恐らくなかったのだ。
「二週間だと」
私しかいない、放課後の教室だった。そこに彼はやって来た。もう何度目になるだろう。クロードくんはいつもこうして、放課後の教室で私の隣の椅子を引く。
厳密に言えばこの状況下で授業はもう行われていなかったから、今を放課後と呼ぶにはもしかしたら相応しくなかったかもしれない。だけど私にとって、陽の傾いたその時間は変わらずに放課後と呼ぶべきものであるように思えるのだ。普段はヒルダちゃんが座る椅子に彼は腰を下ろす。それだけで私は錯覚してしまう。記憶の底から伸びた腕に手を引かれたような気持ちになる。
大樹の節、まだ知り合って間もない私を「」と彼は呼んだ。私の足が動かなくなったあの春に、彼はそうして私に笑いかけてくれたのだった。
クロードくんがあの頃のように、世間話でもするかのような気軽さで「二週間だ」と告げたとき、私は一瞬何のことか分からなかった。彼なりに気を遣って、そう深刻そうに感じられないように口にしてくれたのかもしれない。
「……二週間?」
反芻させる。このとき、一人読んでいた理学の教本は、もうずっと頭に入っていなかった。文字をただ漫然と眺めていただけだ。二週間、もう一度だけ口にして、それから息を飲む。目を見開いた私に、クロードくんは困ったような顔で笑った。窓からの夕陽を受けて、その髪がうっすらと透けていた。一本一本の髪が作る影が、やけに鮮烈に眼球に焼き付いて、泣きたくなる。
何か思うところがあったのかもしれないし、それはもしかしたら他にも意味が隠された笑みだったのかもしれないけれど、私には「困ったように」としか形容できなかった。その笑みのまま、彼はゆっくりと呟く。
「帝国の軍勢が、ガルグ=マクに到達するまでの期間だ」
その時、既にアドラステア帝国の宣戦から二十日近くが経っていた。その間、何もしていなかったわけではない。教会は戦のための準備を始めていた。騎士団を再編成し、空位だった騎士団長に後任者を据え、近隣諸侯に援軍を要請するなどして武力を強化した。だけど、所詮急拵えだ。この宣戦が、恐らく長い年月をかけて計画されたものであるだろうことを思えば、アドラステアには到底太刀打ちできないだろう。学生の間にも、隠しきれない動揺が走っていた。自領へ帰った生徒も大勢いる。孤月の節。本来ならば卒業の時期だ。だけど、無事に卒業できるなどと真に思っている人間はもう誰一人として居ない。
級長を失ったアドラークラッセの皆はこのままガルグ=マクに居続ければ祖国と敵対することになる。この状況下で下手に身動きが取れないのは事実だろうけれど、彼らはガルグ=マクを発つ気配を見せなかった。
もしも私だったら、なんて仮定の話をしたところでそんなのは何の意味もないけれど、それでも考えてしまう。もしも私が彼らならば、どうしただろう。これまで私の根本を支えてくれていたセイロス教と袂を分かち、刃を向ける覚悟も、自分を育てた祖国に背を向ける覚悟もないように思えた。だから、動けないままでいるだろうと思う。ガルグ=マクに留まり、息を潜めて戦が終わるのを待ち、それから国へ帰る、或いは、ここに残る、そういう選択をしたのだと思う。それは立派な思考停止だった。だけど、彼らは違うのだ。
アドラークラッセの彼らは、帝国に帰ろうとはしなかった。だけど、その目はやけに静かだった。それが、何かを見極めるためであるかのように思えた。
「ええ、このままガルグ=マクに残るわよ」
数日前、中庭で出会ったドロテアさんは不躾とも取られかねない私の質問に丁寧な笑みを浮かべた。舞台で磨き上げた演技力の賜というには、それはあまりにも自然な、悠然とした微笑だった。
「私は皆と違ってしがらみはないし、敵対して困るような家族もいない。まあ、歌劇団の皆のことは心配だけど、きっと大丈夫。アンヴァルが戦場になるわけではないし」
アドラークラッセの皆には、形ばかりであるとは言え監視がついているらしい。だからドロテアさんは、すれ違う瞬間、私にだけ届くような小さな声でこう続けた。「それに」と。
「そうしなきゃきっと私はもうエーデルちゃんに会えないから」
彼女らしくない低く掠れた声だった。私はその背に、何と声をかけたらいいのかも分からない。
「ヒルダは逃げるって言ってたな」
不意にクロードくんにそう言われて、現実に引き戻された私は顔をあげる。
「……ん、でも何も準備はしてないみたい」
「はは、そうだろうな。あいつは俺達を置いて一人で逃げるようなやつじゃあない。残っているのが俺だけならまだしも」
「そんなことないと思うよ。ヒルダちゃんはクロードくん一人でも、きっと逃げないよ」
私の言葉に、クロードくんは続きの言葉を飲み込んだ。それからじっと私を見つめて、眉尻を下げて「……そうかもな」と答える。こんなところで死にたくないもんねー、と口にしたヒルダちゃんの間延びした声は、一切の深刻さを感じさせなかったけれど、それでも思いは同じなのだと思う。ここで仲間を見捨てることなんてできるわけがない、と。
今、ガルグ=マクを出て王国や同盟領の北部へ逃げる住民は後を絶たない。こうして二週間と期限を提示されたことで、その数は一層増えることになるだろう。外郭都市に限らず、近隣の村々の人だってそうだ。浮かべた笑みを、その時クロードくんは消した。
「なあ、」
そこには私たち以外、誰も居なかった。笑い声をあげる学生も、資格試験の勉強に集中する学生も、当番の仕事をこなす学生も、もうどこにもいない。悪い冗談みたいだ。巨大な球体に飲み込まれてしまったみたいに静まりかえったその教室の中で、クロードくんの瞳は春と変わらずに輝いていた。私はあの時と同じだけの熱量を以て、あなたに出会えて良かったと考える。一緒に学べて良かった。その目に映っていたものを、ほんの少しでも良いから見せてほしかった。
アドラークラッセの彼らも、同じだったのかもしれない。皆、エーデルガルトさんを多かれ少なかれ愛していた。信頼していた。私達がクロードくんにそういった思いを抱いているように。
彼らはだけど、エーデルガルトさんに選んでもらえなかった。
不意にそんなことを考えて、自分自身の内臓が抉られたような感覚を覚える。目の前にこの人はいるのに、恐ろしくなる。私がそんな恐怖に苛まれていることなど、彼は気がつかないのだろう。続く言葉のないまま、お前はどうするのだとクロードくんのその目が問うから、私は返事の代わりに笑った。上手く笑えているかはわからなかった。ここを離れる気はないと、言葉にすることが、今はできそうにない。
その時、彼のその薄い唇が、微かに動いた。「死ぬなよ」と、そう形作られたような気がした。まるで願掛けだ。死なないでなんて、私の台詞なのに。
どうか生きていて、と思う。このフォドラが戦火に包まれても、いつか私たちが離ればなれになっても、敵対せざるを得ない日が来たとしても、居場所がどこにもなくなっても。どうか、それでも生きてほしい。いつまでも、どうか私の神様でいて。
こんな一方的で独りよがりな思いをあなたに伝えることは、きっと一生ありはしないけど。
教室の外に立っていた幼馴染みの存在を、私が知ることはない。