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「指揮官と鉢合わせたと聞いた」



 侵入から数刻。敵は既に撤退したとは言え、情報は錯綜していたし、負傷者も多数出ていた。
 民間人を避難させながらの戦闘、レア様やベレト先生、歴戦を潜り抜けたルーヴェンクラッセの生徒たちの不在、未だその長の座が空位であるが故、連携の取れない騎士団、そして、混乱の最中行方を眩ませたアドラークラッセの級長。これだけの悪条件が揃っていながらにして、こちら側に一人の死人も出なかったのは、いっそ奇跡的だ。クロードくんだけでなく、どうやらセテス様も指揮を執ってくださっていたらしい。セテス様ご自身も武器を持ち、地上での戦闘に当たっていたというのだから、よほど切迫した状況であったのだろう。
 戦闘員の足止めをすることが彼らの目的だったことは確かだ。そしてそれは果たされた。大修道院内の至るところに現れた彼らの相手をするのに騎士団は追われ、私たち学生は避難の誘導に徹する以外なかった。赤狼の節、放棄されたルミール村の生存者を引き取ったガルグ=マクには戦えない女性や子供達も多く、彼らを無事に安全な場所へ誘導するのに人手が必要だった。
 その最中顔を合わせることはなかったけれど、ローレンツくんも別の場所で民間人を守っていたらしい。大広間に集められた負傷者の治療の手伝いをしていた私を呼び止めた彼の顔面は、燭台の灯りに照らされてもなお青白い。



「指揮官……ああ、うん、そう。でも、指揮官って言っても」

「怪我はなかったのか」



 酷く緊張感のある声だった。それに面食らって、私は一瞬言葉を失う。手にしていた真新しい包帯に力をこめて、「ないよ」と口にすれば、ローレンツくんはようやく小さく息を吐き出した。



「あの……すみません、さん、こっちを……」

「あっはい、今行く!」



 重傷者の治療に当たっていたマリアンヌちゃんに声をかけられて、思わず背筋を伸ばす。「ごめんね、お手伝いに戻らなくちゃ。また後で」そうやって背を向けたとき、彼が何か言いたげであったことを私は知っていた。けれど、余裕がなかったのだ。私も、きっと彼も。
 今この状況を正しく飲み下せる人なんてそうそういないのだろう。目の前の問題の山から一つだけ手に取って、それに向き合うことくらいしか、今の私にはできそうにない。



「失礼しますね」



 マリアンヌちゃんに魔法をかけてもらって、痛み自体は軽減されたのだろう騎士の方の傍に断りを入れてから膝をつく。しかし小さく頷いた彼の目の焦点はほとんど合っていない。包帯を巻くときは、身体の中心から遠い方から。先程教わったばかりの知識を脳内で反芻しながら患部に包帯を巻いていく。重傷とは言え、命に別状はないようだ。きっと数日もすれば動けるようになるだろう。
 地上でも、聖墓でも、死人が出なかったことは幸運だった。聖墓にある石を奪うことが目的だったらしいとは口伝てで耳にしたけれど、それも無事に守り切ることが出来たようだ。不意を突かれたにしては最小限の被害で済んだように思う。
 地上の混乱を誘発させることが目的だった帝国の指揮官は、徒に命を奪うことをしなかった。
 逃げ惑う民間人を捕まえて殺すような蛮族であれば、私たちも応戦せざるを得なかっただろう。だけど、彼はそれを良しとしなかった。「修道院の人間を大聖堂へ向かわせるなよ!」悲鳴や怒号を縫うように届いたあの時の声は、今でもはっきりと耳に張り付いている。



「ランドルフ様、士官学校の学生はどのように」

「命を奪うまではしなくていいが、邪魔をするようならば容赦はするな! 間違っても民間人は傷つけるなよ!」



 その声が、いつかどこかで聞いた誰かのものであるように思えた。だけどそれを手繰り寄せる余裕なんて、あの時の私にはなかったのだ。レオニーちゃんとリンハルトくんと手分けをして、安全な場所へ誘導していた。泣きじゃくる子供を抱き、遅れた女性に声をかけ、顔をあげたその時に。
 その人はそこにいた。



「まさか巡礼者や商人に変装して侵入させていたとはね」



 患部に包帯を巻く私の背後から届いたその会話に、思わず呼吸を止めてしまう。



「迂闊だったよ。……気づこうと思えば気づけた事態だったのに」



 血の滴った武器を携えて玄関ホールから飛び出してきた指揮官と思しき男性と目が合った。その時、めまぐるしく脳内を巡る、思い出と呼ぶには新しすぎる記憶があった。一週間前、地面に転がった果物を集めていた人の顔を鮮烈に覚えていたわけではない。声だってそうだ。雑踏の中で些細な会話をした程度では、私の記憶に色濃くは残らない。
 だけど目が合った時、その人は明らかに私を見て目を見開いた、それが私の記憶と結びついた。あ、と。その時私は確かにそう思ったのだ。彼はあの日の商人さんだと。
 何か言葉をかけられたわけではない、顔を覚えられていたからと言って、意図的に見逃してもらったとも思わない。彼はあそこに偶然居合わせたのが私でなくても、民間人を連れた学生に武器を向けることはしなかっただろう。



「こ、こんな感じでいいかなあマリアンヌちゃん。包帯、ヘタじゃないかなあ……」

「いえ、その……私がするよりは、よほど上手です……」

「いやいやそんなわけないよ……いっそやり直してもらって……」



 思わず否定してそう続けてしまったけれど、マリアンヌちゃんは困った顔で首を振るだけだったから、もしかしたら本当に自信がないのかもしれない。力を入れて巻きすぎてはいけないらしいけれど、かと言って緩く巻いても意味がないだろう。少し不格好になってしまった腕を見て「すみません……」と謝罪すれば、騎士の方はその眦をそっと細めてくれたから、こっそり安堵する。
 聖墓ではやはり戦闘が起きてしまったらしく、ルーヴェンクラッセの皆はベレト先生と共にそれを撃退したと言う。こちらに被害はなかったとは言え、そこでは大勢死人が出たらしい。帝国の鎧を着た兵士たち、その遺骸は既に聖墓の外に搬出されている。
 その兵達を率いていた仮面の将が、エーデルガルトさんであったということは、最早ガルグ=マク中に広がっていた。
 鋭い足音が響いたその時、大広間に居た修道士達がざわめく。怪我を負った騎士の方が、マリアンヌちゃんが、年若い従者が彼に目を向ける。私も。恐らくセテス様による審問が終わったのだろう。アドラークラッセの生徒達は、帝国軍が撤退した直後から執務室に呼ばれている。



「あれは帝国の……」

「捕えておかなくて大丈夫なのか」

「ですが、彼が堂々と歩いているということはセテス様が潔白を保証なされたのでは?」



 その通行の妨げにならぬようにと言うよりは、ほとんど彼を避けるようにして出来た道の真ん中を、彼は顎を引き、一点を見据え、背筋を伸ばし歩いていた。
 明るい色の、柔らかな毛髪。周囲からの誹りを否定も肯定もせぬままに歩く、その琥珀の瞳は、けれど全て聞こえているとでも言うかのように僅かに細められている。
 フェルディナント=フォン=エーギル。その表情は、暗く、険しい。








 必要以上に声の良く通るあの修道士の考えているように、実際のところ、審問を終えたセテス様が本当に私のことを信用してくださったのかどうかは定かではない。
 エーデルガルトとヒューベルト、アドラークラッセの中心であったあの二人が得体の知れない輩と共謀し、聖墓を穢したというのは事実だ。そのために、帝国の兵を動員したことも。仮面で顔を隠したエーデルガルトは、その正体が暴かれた直後、ヒューベルトの魔道で聖墓を去ったと言う。それ以降の足取りは掴めていない。ならばこそ、教会側がアドラステア帝国出身の人間で構成されているアドラークラッセの生徒に強い疑念を抱くのは当然だろう。
 エーデルガルトとヒューベルトの二人は、このところ良く帝国へ戻っていた。その理由については上手くはぐらかされていたが、このための準備を二人が入念に行っていたのは間違いないだろう。私からセテス様に伝えることができたのはそれくらいだ。それ以上のことを私は知らなかったから。
 誓って言うが、私たちアドラークラッセの生徒に今回の件は一切知らされていない。そもそも予め知っていたとしたら、私たちは今この場に居ないのではないだろうか。今にも倒れそうなほどに青ざめたベルナデッタの顔が、カスパルの驚愕に見開かれた目が、演技ではないことをセテス様も理解してくださったのだろう。



「まあ、とはいえ今後は僕達に監視がつくことになるだろうね」



 そう呟いたリンハルトに、ベルナデッタが殊更大袈裟に騒ぎ立てたが、それもやむを得まい。
 どこか客観的である自分を自覚していないわけではない。あまりにも現実味がないせいか。だが全てはこの身に起きたことだ。たった一日で、皮膚が全て剥がされてしまったようには思うが。
 もっと傷つくと思っていた。
 実際衝撃を受けたのだろうとは思う。あの大聖堂に残された、級長を示す鮮やかな赤い外套を見た瞬間、私は一歩も動けなくなった。彼女が聖墓に向かったことを、あの時点で私は知っていた。ならば追いかけるべきだったのだろうか。止めるべきだったか。事情も知りはしないのに。彼女はこれを置いていった。それが全てではないか。
 私は彼女に、信頼されてはいなかったのだろう。だから今日に至るまで何も知らされなかったし、その内情も知らぬままにガルグ=マクに取り残された。教会や他の学級の生徒からは白い目で見られ、或いは同情され、根も葉もない噂をたてられ、私の行く先には恐らくこれから先も道が出来る。人に避けられることで出来る崖のような道だ。それはこれからも続くだろう。息苦しく思うことは確かだが、それでも、恨み言を並べ立てる気は起きないのだ。
 彼女にその選択を強いたのは、私なのだから。
 大広間を抜けて、玄関ホールへと続く道を出る。戦場になったのだろう石畳の上には血の痕が残されていたが、冷たい外の空気に張り詰めていた心が解されるようで、思わず長く息を吐いた。普段は街の人間や巡礼者の姿の見えるそこには、今は騎士と数名の学生の姿があるのみだ。目が合った瞬間弾かれたように逸らされ、思わず芽生えた動揺を隠そうと爪先に目を落とす。
 この汚れのない靴で、私はいつも彼女の隣を歩いているつもりでいたのだ。



「フェルディナント。君はエーデルガルト=フォン=フレスベルグの邪心に染まってはいまいな」



 セテス様の牽制するような低い声音は、ほとんど鼓膜に張り付いたままだ。
 何らかの影響を受けてはいまいか、教団を裏切ることはないか、今もなお繋がりがありはしないか、そういうことを尋ねていることは明らかだったが、私はセテス様の口にした「邪心」という言葉の方にこそ、違和感を覚えていたのだ。
 教団に伝えるべきことなど何一つとしてなかった。緩く首を振りながら、しかし私は数刻前のことを考えていた。
 エーデルガルト、私は貴方を、認めたくはなかったのだと思う。貴方はどこで戦っていたのだろう。知らずにいた私の愚かさを、貴方は糾弾することすらしなかった。赤い外套。大聖堂で拾ったそれを、私がどうしたか知る者は、このガルグ=マクには既に居ない。



「たっ……大変です!」



 その時、門から駆けてきた騎士の姿があった。その表情には焦りの色だけが浮かんでいて、瞬間、腹の底が温度を失う。
 聖墓への侵入、それだけで終わるはずがなかったのだ、初めから。
 この日、フォドラは仮初めの平穏に幕を下ろすことになる。



「アドラステアが」



 喘ぐような呼吸の果てに吐き出されたその先を、私は瞬きもできずに聞いている。



「アドラステア帝国が、宣戦を!」








 あの日、貴方が聖墓に向かった事実に動揺していた。何もかもが受け入れがたかった。騎士団と刃を合わせているのが帝国の兵であるなど、悪い夢のようだ。だがそれでも全ては現実だった。
 外套を抱えたまま、動かなかったはずの足で、駆けた。大聖堂を飛び出し、橋を渡り、大広間を抜けた。リンハルトや達が上手く避難させてくれたのだろう。民間人の姿はどこにもなく、ただ、騎士の間に続く中庭で、騎士の一人を気絶させた兵士の一群を見た。知らない顔だった。恐らく、彼らも私の顔を見たところでエーギル家の人間であるなどとは分からないだろう。私を警戒し、武器を構えた兵士の一人に、敵意はないことを知らせるため、首を振る。



「戦う気はない。剣も取り上げてくれて構わない。話を聞いてほしい」



 その付近に他に人気はなかったが、絶えず怒号が響いていた。兵士の一人が、躊躇を見せながらも剣を収める。それを確認した上で差し出した。



「これを、どうかエーデルガルトに」



 恐らくこの直後、彼らもまた撤退することを見越しての頼みだった。兵士は顔を見合わせ、それから、確かにその外套を受け取ったのだった。
 私が彼に手渡した外套は、貴方に届くだろうか。
 あれは貴方のものだ。信頼に足る人間に成り得なかった私からの、餞と呼ぶにはあまりにも未練がましかったか。
 だけど、今からでも遅くないのならば、私は貴方の話を聞きたいよ、エーデルガルト。
 これを邪心と呼ぶのなら、私ももう、ここにいることはできないな。








 イオニアス9世を退位させたエーデルガルトは、自らがアドラステア帝国皇帝に即位し、セイロス聖教会とそれに味方する諸侯に宣戦した。
 帝国歴1180年、天馬の節のことだった。


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