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ああ、やられたな。
初めて会った時から、食えないやつだとは思っていた。その瞳の奥に潜んだ深い炎に覚悟の色があることを見抜いていたけれど、俺はできたら俺の野望のために、いつかこいつも力を貸してくれたらいいんだがと、まあ、ちょっとは本気で思っていた時期だってあったんだ。本当だぜ?
だけど、あいつはきっとずっと準備をしてきたんだろうな。自分の目的を果たすため。鷲獅子戦だ、白鷺杯だ、舞踏会だ、目の前の行事を楽しんできた俺達の隣で、あいつがどんな顔をしていたか、俺は今、はっきりとは思い出せない。その時点で、俺達が手を取り合う未来なんてはなから用意されちゃあいなかったんだろうな。今更ながらにそう思う。
巡礼者に扮していた兵士達は外套を脱ぎ、大聖堂へと続く橋の上、彼らの「指揮官殿」と合流を果たす。あいつらが向かうのは間違いなく大聖堂から続く聖墓だ。存在すらも秘密裏にされていた聖墓とやらに、これだけの無茶をしてでも行かなければならなかった。何をするつもりなのかは知らないが、今回の啓示の儀はその目的地に向けて動き出すのにうってつけだっただろう。
大広間の二階、俺がいた執務室の窓からは、大聖堂の橋の上にいるその姿がよく見えた。彼女はその腕を広げ、細かな指示を出している。
見えるには見えるが、ここからじゃあさすがに弓矢は届かないか。角度や距離を計算しながら実際には放つ気もない弓を引けば、あいつの隣に立っていた男が一瞬だけこちらを見たような気がした。その温度の低い眼球にぞっとして、思わず口笛を吹いてしまう。この距離で見えるなんて俺かペトラ、あとは精々ツィリルくらいだろう。だから間違いなく、ここにいる俺にあいつが気づいているとは思えない。とは言え、確実にそうとは言い切れないのがあいつの恐ろしいところだった。
俺を大聖堂の近辺の警護から外したのはあの二人だ。ヒルシュクラッセの級長の手は患わせない、そんな言葉で言いくるめられたが、あれも計算のうちだったのだろう。やられたよ。どうにもならない薄ら笑いが、自然と口の端に浮かぶ。
面倒なことになっちまったな、とは思うが、今ここを駆けだして間に合うはずもなければ、一人で二十はいるだろう兵士の相手を出来るほど腕が立つわけでもない。それに、この感じだと恐らく他にも兵士は連れてきているだろう。恐れ入るよ。涼しい顔をして、陰でどれだけの準備をしてきたのか。現在のこちらの戦力を把握し、それを手元に並べてから作戦を立てるための時間を貰う。そうすればようやく勝ち筋が見える、かもしれない。そのどれもが足りていない現状では、俺がこれからどんな策を立てたところで無為だ。
俺があの男ほどの魔道の素養があれば、もう少し戦略の幅は広がっただろう。届かない攻撃も、それならば届いたか。多少は何か痛手を食らわせることが出来ただろうか。妄想だけの、どうしようもない話だ。
その時、階段を駆け上る誰かの足音が響き渡った。人の居ない謁見の間とは言え、執務室に来るには普段はレアさんがいるそこを通らねばならない。ここにいるとは全員に伝えていたが、そこを逡巡なく駆け込んで来ることができるのはヒルシュクラッセでも数人しかいないだろう。
「あ、いたいたクロードくんー!」
「お、ヒルダか」
想像していた通りの相手が現れたことに、思わず小さく笑う。そんな態度が気にくわなかったらしい。ヒルダは軽く眉根を寄せた。
「ヒルダか、じゃないわよー。大変なのよー? 今、修道院に侵入者があってー」
「ああ、そうだな」
「そうだな、じゃなくってー!」
知ってたんならいつまでもこんなところにいないでよー、とヒルダは眉根を寄せた。だけど、もしも俺がここを動いていたら、ヒルダは俺を探すのに一層時間がかかっただろう。思ったことは口に出さず「悪い悪い」と素直に謝る。
「あたしたちには目もくれず、大聖堂に向かっていったのよねー。おかげで今大広間には敵はいなかったけど、それも時間の問題かもー」
普段一切のやる気がないヒルダも、さすがに目の前にいる連中が傷つけられる可能性があればその手に武器を持つのだろう。戦うべき時を、ヒルダはきちんと知っている。だからこれから先何が起きても、きっと大丈夫だ。そんな先のことを考えてしまう。こんな時ですらも、悪い癖だ。
もう一度目線を窓の奥、遙か先にある大聖堂へと向けた。既に、先程の兵達の姿はそこにない。
「……すぐ第二波が来るはずだ。俺達の足止めにな」
「足止め? なんのー?」
「あちらさんの目的は聖墓だ」
そのための時間稼ぎに付き合わされるわけだが、どの道もう手遅れだ。既に聖墓には侵入されてしまった。口走った言葉を、ヒルダはきちんと拾い上げたらしい。
「ええーそうなのー? じゃあ、どうするのー?」
「仕方ないさ。そっちは先生たちに頑張ってもらうほかない。問題は地上なんだが……」
あいつらの目的が一体何であるかをこの時点で確定することは出来ないだろう。だが、聖墓への侵入が全ての終着点ではないはずだ。
ここまで兵を集めること自体には地道な準備が必要だっただろう。だが、侵入に関しては派手にかましすぎている。聖墓の場所の特定、侵入経路の確保、時間制限のある一発勝負だからこそ、突入自体はある種乱暴にならざるを得なかったのだろうが、いずれにせよ目的を達成すれば、あいつらは体勢を整えるために一度撤退するだろう。
聖墓への侵入を阻止できなかった今、選択肢はない。ただでさえ騎士団長の座は空位、天帝の剣を持ったベレト先生もルーヴェンクラッセも不在で兵力に乏しい上後手に回ってしまったのだから。
「人命優先だな。逃げ遅れたやつがいないか探して、避難誘導。なるべく戦闘は回避。向こうも今は本気ではかかってこないだろう。他の連中にもそう伝えておいてくれ。できればアドラークラッセの連中にも」
「えー? どうしてアドラークラッセにまでー? アドラークラッセの皆には、エーデルガルトちゃんが指示を出すんじゃないー?」
不思議そうに首を傾げるヒルダに、緩く首を振る。二重の指示が出た場合に起こりうる混乱をヒルダは危惧しているのだろうが、それはもう起こりえない。とは言え、それを今ここで軽率に口にはできないが。
今日を無事に乗り切ることができれば、それはきっと誰もが知る現実となるのだろう。だから今は闇雲に混乱させるわけにはいかない。こんなところで誰一人、死なせるわけにはいかないからこそ。
激動の時代になる。今日この日を以て、フォドラは変わる。それは既に、定まった未来だ。
俺の野望の実現は、少しばかり遠のいてしまったらしい。乾いた笑いが漏れたのを、ヒルダは怪訝そうに見つめている。
見落としていた何かがあった。今日だけでなく、もっとずっと前から、きっと。
私はそれを察することができなかったし、彼女の抱えたものも、その一片すらも知り得なかった。あの独断を責めることが出来れば楽だ。だけど、それができるのならば、きっとこんなにも絶望的な気持ちにはならなかっただろうな。
大聖堂に続く橋に、エーデルガルトの姿はなかった。ヒューベルトも。こんな時にどこに行ったのだろう。今し方、間違いなく大聖堂へ向かっていった賊の姿も、既にない。
争った形跡すらどこにもなかった。血だまりも、武器の破片も、肉片も。
彼女らが大勢の敵を前にして逃げるような人ではないと知っているのは、私だ。では、偶然居合わせなかったのか? 他の場所にいるのだろうか。何かがあって、二人がここから移動せざるを得ない状況が。「エーデルガルト」そう名前を叫びかけて、喉に引っかかった。今日一日立ち入りが禁じられていたはずの大聖堂の扉が、大きく開いていることに気がついたのだ。ざわりと音を立てて、鳥肌が体中を覆っていく。
人気のない大聖堂に歩を進める。そうしている間も、視界がぐらぐらと歪んでいるのが分かる。正しいものだけを見ていると思っていた。だけど、今はもう、何もかもが遠い。自分が向き合おうとしているものの正体の輪郭に触れることが、恐ろしくてたまらない。
花冠の節、課題のために皆で競うようにして磨いた床が土で汚れていた。火の消えた燭台が倒れ、無残に散らばっている。誰もいなかった。反響する靴音は私のものだけだ。だが、確かに今まさに、ここは侵入を許したのだろう。その形跡だけは、確かに残されていたのだ。
何かの間違いだ。そう思っていられたら楽だった。何も知らされていなかったのだと口にすれば、この無知は許されただろうか。見落としていた何かがあった。見落としてきたものばかりだった。もっと早くに気づいていられたら良かった。
ふと赤いものが目について、足を止める。長椅子の座面に畳まれていたそれは、アドラークラッセの級長である証の外套だった。意図的に、それは恐らく置かれていた。
「……エーデルガルト」
口にした言葉が、惨めに掠れて、大聖堂の広い空間に、滲むように消えていく。
改めて周囲を見回した。今日に限って立ち入りを禁じられた大聖堂。床に叩きつけられ、変形した燭台。見落としたものはないかと口走る。私の傷跡など、何の慰めにもなりはしまい。踏まれて崩れた蝋燭の破片が、床にこびりついている。見落としたものはないか。整然と並べられていたはずの長椅子が、僅かにその平行を失っている。見落としたものはないか。床についた、武器を引きずって出来た傷跡。見落としたものはないか。私がこれまで、見落とし続けてきたものは。
この手が知らず知らずのうちに取りこぼしてきたものは。
あの背が負わされたものに気づくことの出来なかった自分自身が。
普段と様相の異なる大聖堂、一人立ち尽くす人間の途方に暮れた影。赤い外套。それらを全て赦すように、天井にほど近い玻璃硝子から注ぐ陽光は、いっそ滑稽なほど温かい。
聖廟へと続く扉が開け放たれている。恐らく聖墓へと続く入り口は、あそこにあるのだろう。
追いかけねばならない、彼女を。
そう思えど、この足はこれ以上、動きそうにない。