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天馬の節に入ってから、外郭都市やガルグ=マク構内に人の数が増えたように思う。
今節は何か催しがあるわけでもないのだが。そんなことを考えながら、その日の授業が終わった後に門のあたりから騒々しい街並みを眺めていると「何を見てるの?」と横腹を二度ほど指先で突かれた。僕にこういうことをする女子はかヒルダさんくらいだが、二人の声を聞き分けられないほど愚鈍な男ではない。目線を向けることをしないまま「随分と人が多いと思わないか、」と口にすれば、は僕の隣に立って「ん〜」と首を傾げるような仕草をしてみせた。
僕は守護の節、を連れてアレキサンドルからガルグ=マクに戻ってきてからと言うものの、なんとなく彼女と距離を置く日々を過ごしている。がそれに勘づいているかどうかは分からないが、こうしてわざわざ話しかけてくるくらいだ。僕の意図を汲んでいるわけではあるまい。
「そう言われてみれば、ちょっと多いかな?」
ちょっとなものだろうか。
門の前に並ぶ商人の数、目深に帽子を被った巡礼者も、やたらと目につく。外郭都市まで下りてみれば、それは恐らくもっと顕著であるだろう。教団がこれを把握していて、その理由も分かっているなら良い。だが、今のレア様はこの節の終わりに予定されているベレト先生の受ける啓示の準備に余念がなく、その様子はそれこそクロードの言うとおり、浮き足立っていると評されて仕方ないほどだった。
「普段、こんなに巡礼者は多いだろうか」
「うーん……」
僕の疑念に明確な答えを出すには、彼女は少し警戒心に欠ける。「わかった!」と明るい声を出すので一体何かと思えば、「ちょうど半年前の青海の節に儀式があったでしょう?」と関係のなさそうなことを口にするから眉を寄せてしまった。
「女神再誕の儀か?」
「そうそう、それで半年経ったから、皆お祈りに…………来ない?」
「僕はそんな経験はないな」
「私もない」
「……」
腕を組んだままじとりと彼女を見つめれば、しかしは何故だか嬉しそうにはにかんだ。今の会話が面白かったとでも思っているのだろうか。それならば残念ながら的外れだ。しかし、目をきらきらと輝かせたは何が嬉しいのか、僕をじっと見上げている。目を逸らすに逸らせなくて、参ってしまった。
前節、アレキサンドルまで彼女を迎えに行ったときと比べれば、その頬の肉付きは良くなっただろう。実際はよく食べるようになった。ラファエル君の「食べて動けば強くなる」を鵜呑みにしたのだろう。それを実践しているのは同じ教室にいれば分かるもので、最近のはようやく実戦の勘を取り戻したようだ。今節のは調子が良い。雨を含んで重くなった空の下、一点を見つめ途方に暮れていたあの背中を思えば、きっと彼女は吹っ切れた。一節の空白を取り戻すに易かったのは、彼女の努力があってこそだ。
ベレト先生がジェラルトさんの敵を討ったことで立ち直ったらしいレオニーさんと鍛錬に励み、父親を失ったを同情したのだろうリシテア君から理学を学び、ハンネマン先生への紋章学の論文は期限内にしっかり提出した上に優の評価までもらっていた。紋章学の勉強は好きだと前々から言っていたが、あれは意外だった。
頑張ったな。彼女にそう声をかけたのはクロードだ。
僕はその二人の横顔を見ていた。僕は第三者だ。いくら彼女の足の怪我が原因で嫁ぐことが出来なくなった場合、その責任を取ると豪語したところで、きっとあれを「名誉の勲章」などと形容してみせたあの男ならば、そんな怪我など関係ないと笑い飛ばすのだろう。目に焼き付いた酷い裂傷の痕は、もう彼女に残って生涯消えることなどないだろうに。
の瞳から目を逸らすべきだと思っていたが、それでその右足に目線を落とすことなどあって良いはずがない。だけどそんな僕の意思とは関係なく、視線は落ちてしまう。
だから、助かったのだ。
「あら〜?ローレンツじゃない〜」
そう、覚えのある間延びした声に名前を呼び止められて。
の目が、僕よりも早くそちらに向けられた。丁度外郭都市まで買い物にでかけていたのだろう。緩やかな坂を登りやって来たのは、両手に書物を抱えたメルセデスさんだった。
メルセデス=フォン=マルトリッツ。二年前、共にフェルディアの魔道学院で学んでいた彼女とはこの士官学校で再会した。面倒見の良い彼女は、王都では余所者の僕を気にかけて何かと世話を焼いてくれた。王国内の諸問題に巻き込まれた結果、残念ながら僕は卒業を待たずして帰国を余儀なくされてしまったが、僕は受けた恩を忘れる男ではない。大樹の節に彼女を見かけたときは、再会を大いに喜んだものだ。
翠雨の節の折も、課題協力という名目でコナン塔への賊の討伐に随行した僕に彼女は心を配ってくれた。彼女の治療の手際の良さはガルグ=マクでも群を抜いていて、そんな彼女を陰で聖母と呼ぶ者も居る。分からないでもない。治療の際、慈しむように患部に添えられるその手は、柔らかく、温かいから。
こうして彼女と話をするのは、甘いものが好きだという彼女に治療をしてくれたお礼にと茶菓子を贈った折、ルーヴェンクラッセの女性陣の間で好評だったと礼を言われて以来か。
「おや、メルセデスさん。街へ行っていたのか?」
「ええ、そうなの〜。ところでアン……アネットを見なかったかしら。一緒に出かけたんだけど、人が多くて見失っちゃったのよ〜」
「いや、申し訳ないが……」
「そう……。困ったわ〜、どうしようかしら〜……」
間延びした独特の声音で、彼女は心配そうに自分が来た道を振り向いている。
メルセデスさんが親しみを込めてアンと呼ぶアネットさんもまた、僕達と同じく魔道学院に在籍していた才媛だ。彼女とはそれほど親しくもしていなかったし、士官学校に入ってからもせいぜい挨拶を交わすくらいの仲でしかないが、勿論ここを通りかかればすぐに分かる。アネットさんは遠目からでも目立つ明るい色の髪をしているから。
しかし、そんな彼女とはぐれてしまうほど人が多かったのだろうか。メルセデスさんの場合はおっとりしているから、それが故である可能性も捨てきれないが、やはりこの違和感は覚えておいて然るべきものなのかもしれない。腕に抱えた書物を持ち直すメルセデスさんに、咄嗟に「部屋まで運ぼう」と申し出るも、緩く首を振られてしまった。
「だけど、こんなところで会うなんて偶然ね〜。ガルグ=マクは広いし、学級が違うとなると、案外すれ違うこともないものね〜」
「仕方あるまいよ。ルーヴェンクラッセは忙しいだろうしな。今節に至っては、ベレト先生が啓示を受けると言うではないか」
「そうなのよ〜。私がそんな場に立てるなんて信じられないけれど、光栄だわ〜」
穏やかにその眦を細めるメルセデスさんは、そこでようやく僕の隣に立つに気がついたのだろう。今日に至るまで、二人はどうやらほとんど面識がなかったらしい。「あなたは確か、ローレンツの幼馴染みの……だったわよね〜」と名前を呼ばれ、彼女は「は、はい、そうです」と小さく頷いた。
「こうしてお話するのは、そういえば初めてよね〜。イングリットやアッシュから、あなたのお話は聞いていたわ〜」
「ええと、その、二人とは仲良くさせていただいています……。ローレンツくんも、いつもお世話になっています、メルセデスさん。怪我の治療とかもしてくれたって聞いて」
「あら〜、当たり前のことをしただけなのよ〜。それに、私のことはメルセデス、って呼んでくれていいのよ?そんなに畏まられると困ってしまうわ〜」
「い、いえ、その、そんな」
何を緊張しているのか知らないが、の目がきょどきょどと泳いでいる。人見知りをする性質ではなかったと思ったが、どうもそういうわけでもないらしい。メルセデスさんのような大人びた雰囲気の人間はヒルシュクラッセにはいないから、余計にどうしたらいいか迷ってしまうのだろう。僕に助けを求めるようにちらちらと視線を寄越しているが、面白いので気がつかないふりをすることにした。
今更幼馴染みの新しい一面を見ることができたことについ浮かんだ笑いを噛み殺していると、メルセデスさんが不意に「あら〜」と呟く。その視線の先はではなく、僕の胸元にあった。何を凝視しているのかと思って、思案するが、答えはすぐに出てしまう。
「ローレンツの着ている上着、一つだけ釦が曲がっているのね〜」
丁度、の頭のあたりに位置するその釦を指さして、メルセデスさんはそう言った。
メルセデスさんに「それ」を指摘された時、私はその場から走って逃げ出したくなってしまった。
メルセデスさんと個人的に会話をしたことはこれが初めてで、私は彼女がどんな女性なのかを良く分からずにいる。だけど、見た目通りに嫋やかで、女性らしくて、きっと細かな気配りの出来る人なのだろう。お料理もお裁縫も一通りできるに違いない、というのは思い込みかもしれないけれど、少なくとも彼女はどうやらお裁縫に関しては得意であるようなのだ。
「身だしなみに気を遣うあなたが珍しいわね〜。良かったら直してあげましょうか〜?」
メルセデスさんは悪くない。悪気もなければ他意もない。舞踏会の日、私が縫い付けた釦は良く見なくても本当に曲がっているし、不格好だ。少なくとも品行方正、容姿端麗にして才気煥発のローレンツ=ヘルマン=グロスタールが着ていて良いものではない、今更気がついてしまった。
二人が二年前からの知り合いだということは知っていた。だから、ローレンツくんも彼女にはいくらか気安いように思う。荷物を持ってあげようって言い出したときはなぜだか理由も分からずどきりとしてしまった。そんなこと、私の知らないところで彼は何度だってしているだろうに。
ローレンツくんは彼女に指摘された自分の上着をじっと見下ろしている。しかし、どうしてローレンツくんはあれをあのまま着ていたのだろう。それこそメルセデスさんの言うとおり、彼らしくない。自分の着ているものがどういう状態であるかを一番気にするのは彼本人であるはずだ。貴族として、それが当然なのだから。
まさか私に気を遣っているのだろうか、そんなことを不意に思う。そんなわけないとは思うけど、でも、だとしたらそんなの、気にしなくたって良いのに。
良かったねローレンツくん、直してもらおうよ。その言葉を口にしようとしたのだ、私だって。
きっとメルセデスさんは手際よく釦をつけ直してくれるだろう。まるで、一度取れたものとは思えないくらいに完璧に、少しの誤差もなく。お裁縫道具だって、もしかしたら持ち歩いているのかもしれない。部屋に戻らなければ針も糸も出てこない私とは違う。
良かったねローレンツくん。
もう一度口にしかけた言葉が、喉の奥で引きつって、止まる。髪の毛が引っかかったのはもう二節近くも前のことなのに、どうしてか頭皮を引っ張られたような痛みが走った。代わりに出たのは、みっともない、喘ぐような呼吸音だ。良かったね。良かったね。
何で嫌だって思っちゃうんだろう。
「気持ちは嬉しいが、これはこのままで良いんだ」
俯いた瞬間降ってきたその言葉に、私はただ、息を飲む。
メルセデスさんは断った僕に「そう?」と不思議そうに首を傾げていたが、直後背後から「あっ! いたー! メーチェ!」とアネットさんに名前を呼ばれて、その困惑を失ったらしい。「あ、アンだわ」と僕達に軽く挨拶をした後、彼女は同じように荷物を抱えたアネットさんの元へ、人波をかき分けて小走りで駆け寄っていく。その後ろ姿が無事にアネットさんの元へ辿り着くのを見送ってから、視線を隣にいるに戻したとき、僕はぎょっとしてしまった。
は目を見開いて、ぽかんと僕を見上げていたのだ。
どうしてそんな顔をしているんだ、尋ねようとした瞬間、なぜかその大きな瞳が潤み始めたから、僕はさらに狼狽してしまう。
だけど、泣かれなくて良かった。もしもここで彼女に泣かれてしまったら、僕はきっと、どうしたらいいか分からなかった。