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ベレト先生たちがガルグ=マクに戻ってきたのは彼らの出発から二日後、日付が変わって、天馬の節になった深夜のことだったらしい。
不在の騎士の代わりに夜の哨戒に当たっていたイグナーツくん曰く、それは酷く物々しい雰囲気だったそうだ。陽が昇っているときであればまた印象は違ったのだろうけれど、ルーヴェンクラッセの皆の表情は一様に暗く、疲労に染まっていたと言う。
敵は討てたのだろうか、イグナーツくんがそれを軽率に口にしてはいけないのかもしれないと判断したのは、いつも先頭に立ち彼らを先導するベレト先生の姿が見えなかったからだ。ベレト先生はどうしたんだろう。まさか戦闘で。そうイグナーツくんが思ってしまうのも無理はない。
次の瞬間、彼はディミトリくんが何か大きなものを抱いていることに気がついた。薄闇の中注視すれば、それは身動ぎの一つもしないベレト先生だったというのだから、彼の衝撃は計り知れなかっただろう。
「ベレト先生っ……! ま、まさか、死……」
思わず吐き出しかけた縁起の悪い言葉は、ディミトリくんによって遮られる。
「いや、眠っているだけだ。すまないが、レア様かセテス殿を呼んでもらえないか」
「は、はい!」
最悪の想像を否定されたことで胸をなで下ろした彼は、すぐさま人気の少ない夜のガルグ=マクを、大聖堂に向かって駆け出した。兎にも角にも、ジェラルトさんを殺した手練れを相手取って、誰一人欠けることなく戻ってくることができて良かった。意識を失っていると言っても、先生だってきっと命に別状はない。けれど、走りながらイグナーツくんは思ったという。
ディミトリくんに抱きかかえられていたベレト先生の髪の色が、おかしくなかったか? と。
その答えは、やがて確かになる。
ベレト先生とルーヴェンクラッセの皆が向かった封じられた森で、一体何があったのかは分からない。彼らは揃って何があったかを話したがらなかった。ただ苦戦を強いられたことは確からしい。休みが明けてもルーヴェンクラッセの皆からは削ぎ落とせない疲労の色があった。
間違いないのは、ベレト先生はきちんとジェラルトさんの敵を討てたということ、そしてどういうわけか、ガルグ=マクを発つ前と後で、彼の髪の色がすっかり変わってしまったということだ。
濃縹色だったベレト先生の髪の毛は、フォドラでは珍しい千種の色になってしまった。
髪の色が変わったくらいでその人となりが変わるわけではない。ラファエルくんやカスパルくんなんかは「きっと見た目が変わっちまうくらい強くなったんだろうなあ!」なんて言って盛り上がっていたくらいだ。似たような髪の色をしていたフレンちゃんが「ふふ、わたくし、先生とお揃いになれて嬉しいですわ!」とはにかんでいるところだって見かけた。そういえば、レア様もセテス様も、フォドラでは珍しい緑の髪をしている。これは偶然なのだろうか。私には分からない。
敵の術中に嵌ったところをどういう方法でか脱出した結果ああなったらしいとは、クロードくんがどこからともなく仕入れてきた情報だ。
しかしその見た目が変わっただけで体調や中身の方に変化はないらしく、目を覚ましすっかり回復したベレト先生は周囲の好奇の視線などものともせずガルグ=マクを闊歩している。声をかけられればこれまで通りに応じ、訓練にも付き合う。騎士団長の部屋に閉じこもっていた前節に比べれば、彼はいくらか吹っ切れたように見えた。
比較時期が、彼が塞ぎ込んでいた前節であるからそう思うだけなのかもしれない。ジェラルトさんを失う前と比べればその表情は少しばかり硬いように思えるのだ。いくら彼とはいえ自身の変化に戸惑っていないはずがない。周囲がこれだけ騒ぎ立てているのだから。
「どうやら先生は聖墓で儀式を受けるらしいぜ」
「聖墓?」
「ああ、何でもガルグ=マクの地下深くにあるんだってよ」
「地下深く……」
クロードくんの言葉を繰り返しながら首を傾げた。そんなものの存在を、私は初めて聞いたのだ。一般の信者には知らされていない聖墓なるもの。そこに向かうための秘密の通路か何かがあるのだろうか。「だからこんな辺鄙なところに大修道院が建っているのかもしれないな」と独りごちるように続けたクロードくんに、そういえばここは辺鄙と言われても過言ではない場所なのか、とぼんやり考える。生まれたときからガルグ=マク大修道院はこの山頂にあって当然のものだと思っていたから、辺鄙と言われて、一瞬何のことか分からなかったのだ。
聖墓にて主の啓示を受けることがルーヴェンクラッセの今節の課題であるそうだ。それを聞いたイグナーツくんはすっかり羨ましがっている。彼は敬虔な信者で、一目で良いから女神様にお会いしたいと常々口にしているから。
啓示というのは女神様の姿は見えなくとも、直接その声が届くものらしい。とは言え、それは啓示を受ける本人に限った話であるだろうから、例え私たちが見学したいと申し出たところで女神様の声を実際に聞くことはできないだろう。そもそも、見学も何もないのだ。私たちに与えられた課題は、ベレト先生が滞りなく啓示を受けられるようにすること、というなんとも曖昧なものだったから。
「レアさんも相当浮き足立っているみたいだな。俺達のことなんかてんでどうでもいいらしい」
とはクロードくんの弁で、ヒルダちゃんはそれに対して「そっちの方があたしは楽かなー」と相好を崩している。どうでも良い、ということはないのかもしれないけれど、今年の士官学校がルーヴェンクラッセを中心に動いているのは間違いない。いや、ベレト先生を中心に、の間違いか。
「しかし、最近の出来事にはついて行けない」
ぼやくように呟いたのはローレンツくんだった。
「ジェラルトさんを殺した奴らの正体は何だったんだ? ……そもそも、先生は何者なんだ」
それに答えを出せる人は、この教室には誰一人としていないのだろう。
クロードくんだけは、ローレンツくんの自問に近い問いかけに、乾いたような声で笑った。「いよいよ人間離れしてきたよな」と、まるで揶揄するように。
「だが、この変貌は何かの契機にすぎない。本番はきっとここからなんだろうさ」
それを最後まで近くで見ていられないだろうことが、俺は残念だよ。
続けられた言葉に、私は何も言えずにいた。
私たちは蚊帳の外なのだろうか。何かが、クロードくんの言う「本番」が起きたとき、私たちはどこにいるのだろう。それはきっと、今の私たちには分からない。クロードくんにすらも。
「あ」
思わず声を漏らしてしまった瞬間、私はしまったと思った。
ぼんやり階段を降りていたせいで、気がつかなかったのだ。墓地に先客がいたことに。
ジェラルトさんのお墓には、いつも花が手向けられていた。騎士や修道士、生徒が次々と訪れているらしいことはその花の数から見ても明らかだ。だけど、私はここで彼に会ったことはなかったから、油断していたのだと思う。もしも気がついていたら、私は引き返したのだろうか。そしてまた、彼にどうやって声をかけるべきか思案するだけの日々を重ねたのだろうか。それは自分でも疲れてしまうと想像がついたから、いっそここで声を出してしまって良かったのかもしれない。
墓石の前で膝をついていたその人は、ゆっくりと私に目線を向けた。
未だ先生の変貌ぶりが珍しがられる日々が続いていた。面白がって声をかける生徒も、逆に恐れて距離を取る人もいた。彼から見たら、私は後者だったのだろう。その目が、僅かに逡巡するような動きを見せたような気がしたから。
これで良かったのかもしれない、なんて風には思ったのは事実だけど、丁度階段を降りきったところだったから、その寡黙な視線にどうしたら良いのか分からなくなってしまう。隣に立っても良いのか、悪いのか。祈っても良いのか、その前に何か話をするべきか。
ベレト先生は黙りこくったまま、どれくらい私を見つめていただろうか。その千種色の髪は、谷からの風にあおられて靡いている。それでもその前髪の下の切れ長の瞳は、まるで私の眼球を射貫くように鋭い光を放っていた。こんなときに気がついてしまう。私がこうしてベレト先生と目を合わせたのは、学級移動の勧誘を断って以来だったのだ。
「実際に話してみたけど、髪の色が変わっただけで中身は全然変わってないよ」
そう話していたのはレオニーちゃんだ。実際私も、髪の色が変わったからと言ってベレト先生の本質が変わっているわけではないとは思う。周りが彼の変貌を騒いでいるだけだ。だけど。
「」
だけど、何かが欠けたような声だったと、どうして思ってしまったのだろう。
ベレト先生の髪は、近くで見ると太陽の光に煌めいて、まるで何か、得体の知れない魔力の込められた宝石のようですらあった。美しすぎて、近づくのを躊躇ってしまいそうな類いの。
言わなくてはいけないことはたくさんあって、それはもしかしたらベレト先生の方もそう思ってくれていたのかもしれない。肉親を失った私たちは似たようなところに立っていた。透明な膜の上に、剥がれ落ちないように蹲っていた。そうしていれば何かが変わってくれると信じていたのは、私だ。
私たちは似たもの同士では決してなくて、向かう先も、見ている方向も違う。「先生は何者なんだ」ローレンツくんの言葉がこんな時に脳裏に色濃く浮かび上がる。先生、もしも私があなたの生徒であれば、私は先生の隣で同じ景色を見ることも、同じ経験をした者としてこの傷を慰め合うこともあったのかもしれない。だけど、それはもうあり得ないもしも話だ。私は先生が差し出してくれた手を取らなかったから。
選んだのは私だ。私はヒルシュクラッセを取った。それを後悔することはこれから先もない。
手に持っていた花を握りしめ、私は彼の元へ歩み寄る。一歩、二歩、私の影がそのつま先に届くとき、私はやっと、口に出来たのだ。「先生」掠れた声が、風の音でかき消されぬよう。足を揃えて、頭を下げる。
「この度は、ご愁傷様でした」
顔をあげたとき、ベレト先生はただ目を見開いていた。
どれくらいそうしていたのだろう。ほんの一瞬であるようにも、長い沈黙であったようにも思えた。だけど、やがて彼は微笑んだ。ルーヴェンクラッセの皆に向けるものとは明らかに違う、何かに遠慮したようなそれは、どこか苦笑のようにも見えたのだった。「ありがとう」はっきりとした輪郭を持つその声と、私は決別する。
「も、おかえり」
私たちは、交わりあわなかった点と点だ。
天馬の節、五日。卒業を来節に控えた私と、ベレト先生は、きっとこれから先もこのまま、互いに平行であり続けるのだろう。
私の直感は正しかった。私とベレト先生が二人で話をしたのは、この日が最後だった。