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 締め切りを天馬の節に設定してもらえたとは言え、紋章学の論文の提出日までそう日はない。「他の学級の男の子に代わりに書いてもらったらばれちゃったよー……」とぼやいたヒルダちゃんの憔悴しきった顔を見れば、ハンネマン先生の要求する水準はそれなりに高い上、ずるは簡単に見抜かれてしまうらしいことがよく分かる。ラファエルくんも再提出だったと呻いていた。卒業を間近に控えた今、私たちを待つ課題は山のようにある。
 訓練の傍ら、合間を見て資料を集めるところから始めるべきだろうか。そう考えた私はその日の放課後、書庫へ向かうことにした。そして教室を出た瞬間、その人に呼び止められることになる。



「あ、!」

「ひゃっ」



 油断していたから思わず小さな悲鳴をあげてしまったけれど、相手の顔を見て安心した。アッシュくんだったのだ。彼も丁度隣のルーヴェンクラッセの教室から出てきたところだったらしい。久しぶりの元気そうな友人の姿に思わず駆け寄りそうになるけれど、アッシュくんが私の元まで来てくれる方が早かった。



「わ〜、アッシュくん! 久しぶり!」



 イングリットちゃんとはお話できたけれど、他学級で仲良くしてもらっている他の人とはまだ挨拶ができていなかったから、一節ぶりの彼につい声を張り上げてしまう。なんだかんだ、授業や訓練、課題に追われたり、休んでいたことに起因するちょっとした手続きだったりがあったりで、案外余裕もなかったのだ。



「久しぶりです。戻ってきているとはイングリットから聞いていたんですが」

「うん、挨拶できてなくてごめんね」

「いえ、そんな。……もう授業には復帰しているんですか?」

「うん、休んでた分、身体が鈍っちゃって大変で」



 そう言って微笑めば、アッシュくんは笑い返して良いのか悪いのか、一瞬迷ったような目をしてみせた後「お父さんが亡くなったと聞きました。ご愁傷様です」と礼儀正しく頭を下げた。一節もガルグ=マクを離れていたのだ。他学級に私の家の事情が知れ渡っていても不思議ではないから、彼にまで知られていたことに驚きはしない。
 久しぶりにアッシュくんに会えたことが嬉しくてつい表情が緩んでしまったのに、逆に気を遣わせてしまったようで、申し訳なく思ってしまう。道行く学生たちが、そんな彼をちらりと振り返っていくのになんとなく居心地が悪くなってしまったけれど、顔をあげたアッシュくんに「えっと、ありがとうございます」と素直にお礼の言葉を口にした。
 アッシュくんは私よりも少しだけ高い目線から、微かに笑みを浮かべてくれた。神妙な顔をされるよりはずっと嬉しいから、安心する。



「その、こんなことを言うと不謹慎かもしれませんが、良かったです。……思ったより、が元気そうで」

「あ、うん、もうすっかり元気だよ! ……や、元気っていうとなんか違う気もするけど」



 他の学生の迷惑にならないように壁際に寄りながら、私はイングリットちゃんにも説明したことを彼にも話す。「私自身お父様がご病気だって知らなくて、それですごく狼狽えちゃって」どこまで話すべきか迷うけれど、上手く取捨選択をすることは私には少し難しかった。



「そうでしたか……。ええと、にはお兄さんがいるんでしたっけ」

「うん、そうなの。今はお兄様が領主になられてね。卒業後に私もきちんとお兄様を支えることができるように、あともう少しの間だけど、いっぱい勉強しておこうって思って」

「……そっか、偉いですね」

「えっ、えらいかなあ?」



 アッシュくんは初めて出会った頃からやたらと人を褒めるのが上手い。彼の言葉に私はすっかり狼狽えてしまう。思わず緩んだ頬を隠すこともできずにいると、アッシュくんは念を押すように「偉いですよ」と口にするから、参ってしまった。私が家を支えるのは当然のことなのに。そう思ってしまうのだ。
 私からすると、アッシュくんだってずっとずっと偉い。頑張り屋さんだし、花冠の節では自分の養父を討たねばならなかったのに、それでも逃げたりしなかった。私と同じで、彼だって、ロナート卿の状況を知らされていなかったのに、誰も責めることをしなかった。彼は一人、大聖堂で祈り続けていた。
 私はアッシュくんを尊敬している。打ちのめされても負けたりしなかった。きちんと自分で立って、背中を向けずにいた。逃げ出すこともしなかった。アッシュくんだけでなくて、実のお兄様を征討しなければならなかったシルヴァンさんもそうだ。ルーヴェンクラッセの皆は、そういう傷を持っている人が多いことを知っているから尚更、私は皆をすごいと思う。
 だけどそれを軽々しく口にしてはいけない気がしたから、私はただ口を噤む。
 その時、アッシュくんは、は、と息を吐き出した。白い呼気が、ガルグ=マクの空気に溶けて消えていく。私たちは、出自が違う。だから今私達がこうしてここにいることは、まるで奇跡のようだと、こんな時に考える。彼のその目の奥の光が何かに似ていた。私はどこかであれを見たような気がしていた。



「良かった」



 彼の双眸が細められたその理由を、その言葉の意味を、私はきっと十分の一も理解できていない。








 何もかもが変わり果てて、足下がぐにゃぐにゃの土になったみたいだったな。流行病に罹った両親を、看病の末に亡くしたあの時は。
 お医者さんに見てもらうお金もそうそうなかったし、薬だって尽きていた。覚悟はしていたけれど、同じくらいに希望も捨てていなかったから、突きつけられた現実に殴られてしまったとき、どうにもならなかったのだ。
 立っていられなくて、だけど弟たちの手前、諦めるわけにはいかなかった。僕が強くなるしかなかった。代わりに汚れるしかなかった。それを後悔したことは一度もない。ただ、小さくなった靴ごと沈んでいく感覚だけは鮮明だった。
 ロナート様が亡くなられたときもそうだった。まるで、ぬかるんだ地面に自分がどこまでも飲み込まれていくようだと思った。かき分けても視界は泥で、呼吸すらもままならなかった。僕はどうしてこんなに奪われるのか。無我夢中で生きているうち、いつの間にか僕は、こんなところにいる。皆と学んで、戦って、笑うことだってできている。演技じゃなくて、心から。
 近しい人の死って慣れるもんじゃないし、慣れたいとも思わない。僕の好きな人にはそういう気持ちをできれば味わってほしくないけれど、でもやっぱりそれって難しいな。
 塞ぎ込む先生の顔も、それでも気丈に振る舞う痛々しさも、できれば、なかったことになればいい。痛いのは僕だけで十分だ。
 の頬は、舞踏会の夜に見たときよりもずっと血色が悪かった。だいぶ痩せたと思う。手首だって、こんなに細かったっけ。あれで剣とか、槍なんて持てるのかな。今のがフェリクスを相手にしたら、あっという間に吹っ飛ばされてしまいそうだ。
 だけど、お兄さんを支えるためにも頑張りたいっていうのその表情だけは明るかったから、僕は良かった、と思うのだ。その笑顔だけで、ああ、どうにか吹っ切れたんだなって、僕にはわかったから。もう前を向けているんだなって。僕の知らない間に。
 だって君は頑張り屋で、だけど一人じゃなかなか立てないような女の子だったから。
 の背後、開け放たれたままの教室の扉の奥で、僕と話をしている彼女の背中を見つめているその人を見る。僕と目が合って気まずそうに目を逸らした彼は、けれど、幼馴染みの彼女を誰よりも大切に思っている。ただ一人、ガルグ=マクを飛び出してアレキサンドルへと迎えに行けるくらいには。
 羨ましいなんて思ってたまるか。与えられた環境を妬むものか。僕は恵まれているじゃないか、ずっと、ずっと。ロナート様に拾ってもらえたあの日から。
 君にそういう人がいて良かった、僕はだから、そう思うんだ。良かった。良かったって。
 君の足下がぐにゃぐにゃの土になってしまったとき、ぬかるみから引きずりあげてくれる手があって良かった。
 その靴の汚れを拭ってくれる人がいて良かった。
 君がその手に躊躇いなく縋り付ける人で良かった。
 君のいる水があったかくて良かった。
 良かった。
 僕は、花冠の節、あの大聖堂で見た稲光をまだ覚えている。
 どうしてこんなに奪われるのか。あの時もそう考えていたんだ。だけど、君が「良かった」と言ったとき、僕は君に、どうしようもなく救われた。



「良かった」



 僕の言葉に薄く微笑みを返しながら、そうと分からないくらいに首を傾げたは、やっぱり僕がどんなに追いかけても、届かない人だ。
 いつか伝えたかったことがあったのだ。僕は。もうどうしようもないくらいに淀んでいた僕の沼に生ぬるい水を流し込んでくれた君を。君を、と。
 この言葉の先を告げることは、きっとこの先ないだろう。だけど君が幸せになるようにって、願うくらいはいいかな。














「あ、お前」



 教室脇の通り道だった。提出するための論文を書くのにどうしても文献が足りなくて、夜のガルグ=マクを小走りで駆け抜けて書庫まで向かう私を呼び止めたその人は、相変わらず美しい面立ちをしている。アレキサンドルから戻ってきてから一度も彼とは顔を合わせていなかったことを思えば、随分と久しぶりだ。最後に会ったのはいつだったか、舞踏会よりも前だったことは覚えているけれど、具体的にいつ頃だったかは覚えていない。



「わ〜っ、お久しぶりです!」



 そう言いながらも足を止めようとしない私に、その人は初めて不思議そうな顔をしてみせたけれど、早く行かないと書庫が閉まってしまうのだ。いや、むしろもう閉まっている可能性もある。「書庫に用事があるので失礼します!」とそのまま走り去ろうとした私を、しかしその人は追いかけてわざわざ肩を掴むのだから酷い話だ。「ぐえっ」と鳥が絞められる時のような音が喉から出て、私は強制的に足を止めさせられた。



「まあ待てよ。書庫に行くんなら、そんなに急いでも無駄だって」

「な、なぜ」

「俺がさっきそっちに行った時、丁度書庫番のおっさんが帰ってるところを見かけたからな」

「え、ええ〜」



 そんなあ、と両手で冷え切った頬を押さえる。寒空の下思い切って飛び出してきたのに。恨みがましいような声を出してしまったけれど、でも、帰ってしまったのなら仕方ない。むしろ無駄に往復せずに済んで良かったと言ってもいいくらいだ。「教えてくださってどうもありがとうございました……」とお辞儀をして、踵を返そうとしたその時、しかし彼は再び私の肩を掴む。綺麗な顔をしているくせに、どうしてこんなに力が強いんだろう。



「あのなあ」



 ため息交じりに吐き出されたその言葉に息を飲む。暗闇の中、彼の猫のような目は爛々と光っているように見えるから、少しだけぞっとした。取って食われそう。名前も知らない人なのに。








「俺はだ〜いぶ心配したんだぞ?」



 そう口にすれば、目の前の女は僅かに怯えたような色を見せつつも「心配? 何を?」と首を傾げやがる。お気楽な奴だ。行方不明の生徒がちらほら出ているっていう話は確かだったはずで、実際前節はあの騎士団長殿もやられちまったとか言う。上の慌ただしさや混乱ってのは、いずれアビスに波及する。その前に正しい情報ってのをどれだけ得られるが重要で、できれば地上の奴に話を聞きたかったんだが、そういう時に限ってこいつはいくら探しても見つからなかった。
 何人か生徒も犠牲になったって聞いていたし、情報源として動いてくれるお前がまさかおっ死んじまったんじゃねえかって俺はそれなりに気にしてたんだ。如何せんお前を見かけたのは、舞踏会の日が最後だったから。遅刻でもしそうだったのか、人通りの少なくなったガルグ=マクを男と一緒に走っていたお前は、俺に気づかなかったようだけど。
 別にこいつは俺の身内ってわけじゃあねえが、顔見知りに死なれるのはあんまり嬉しくはないもんだ。だがあんな事件があったばかりじゃガルグ=マクも落ち着かねえ。いくら学生とは言え、俺みたいなやつがうろうろして、情報を渡してくれるような人間なんてそうそういない。そう考えると、=フォン=アレキサンドル、お前みたいな警戒心の薄い人間ってのは、やっぱ希有だな。俺が心配してやってたことも全く理解していないような、きょとんとした顔が妙に癪だが、お前は今も特別俺を警戒しているような素振りを見せはしない。こいつの中じゃあ、俺はもう知り合いの枠組みに入れられちまっているせいだからかもしれないが。
 探していた、そういうことを口にしなくても、しかしこいつは察したのかもしれない。ぱ、とその丸い目を瞬かせて、俺を見上げた彼女は「すみません」と謝る必要なんかないのにそう口にした。



「私、前節から最近まで、実家に帰っていたんです」



 嘘じゃあねえな。
 それは目を見りゃわかるってもんだが、しかし彼女はそのまま理由を口にしようとはしなかった。実家って、同盟領のアレキサンドルだよな? 王国内のことならそれなりに耳には入ってくるが、同盟のこととなるとそこまで詳しくはない。だがその表情から何かのっぴきならない事情があったことが窺える。
 一瞬何があったのか尋ねてしまいそうになったが、俺がわざわざそこに踏み込む義理はないはずだ。どことなく無理をしているようなその細やかな笑みに「ふーん」と適当な返事をしながら、それでも卒業までの残り二節を繋ぎ留めておくために「あんま無理はすんなよ」と、優しく聞こえる言葉だけを作っておくのを忘れない俺は、お前からしたらやっぱり悪人なのかもな。


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