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アレキサンドルで自主訓練をしていたわけでもないから、私の身体はすっかり鈍っていた。それこそ、ガルグ=マクへの移動だけで、翌日はすっかり身体の節々が悲鳴をあげるほどに。
そりゃあ一節のほとんどを部屋に籠もって鬱々と過ごしていたのだから馬で長時間移動しただけで筋肉痛にもなるだろうし、剣も上手く振れなくなって当然だけど、訓練の授業で、何度も剣を弾かれてしまったことには参った。勿論私のいない間に皆が成長したというのもあるのだろうけれど、折角積み重ねてきた自信があっという間に粉々になってしまったことはいただけない。
「……一本とはいえ、わたしにまで打ち負けるなんてよっぽどじゃないですか。あんた、腑抜けている場合じゃないですよ」
ヒルシュクラッセでも一番非力なリシテアちゃんに不意を突かれ、剣を取り落としてしまったときは、困惑に満ちた目を向けられてしまった。私以上にリシテアちゃんが驚いていたのだった。
幸運なことに、足の怪我から復帰した花冠の節の頃のように、運動や訓練を制限されているわけではない。私が一人で訓練をしても止めるような人は誰もいないから、最低限の体力は取り戻したい。出来れば一緒に鍛錬をしてくれる人がいると張り合いがあって良いのだけど、こういうときいつも私に声をかけてくれていたレオニーちゃんは落ち込んでいて、なかなか授業にも身が入らないようだ。やっぱり師匠と慕っていたジェラルトさんの死をまだ受け入れられないのだろう。「わたしなんかよりベレト先生や、の方がつらいってのはわかってるんだけどさ」と、彼女らしからぬ涙声で言われてしまえば、私はその手をぎゅうと握ってあげることしか出来なかった。
「役割が逆だよ」
そう泣き笑いを浮かべたレオニーちゃんの悲しみを、どうしたら癒やしてあげられるだろう。
そうやっていろんなことを考えながら一人で昼食を摂っていた私の真向かいに座ったラファエルくんは、そういう私の落ち込み具合を察するような人ではないから「さん、やっぱちっと痩せたんじゃねえかあ? 食った方がいいぞお。ほら、オデの肉、分けてやるから!」と私のお皿に断りもなくお肉を追加する。
痩せた、と方々から言われる通り、実際私は少しだけ体重が落ちた。鍛える前に体重を戻すことが先だろうか。明るい笑顔を浮かべる、屈託のない彼の存在に救われながら、私は「ありがとう」と素直にお礼を言った。
「やっぱ肉だぞお。肉は力になるからな! いっぺぇこと食うとそれだけ筋肉が喜ぶんだ!」
「そうだねえ。ラファエルくんはなんだかちょっと見ない間に益々大きくなった気がするよ」
「だろお? さんがいねぇ間も、オデ、食って動いて食って動いたからな!」
「頼もしいなラファエルくんは。やっぱり動いた方がいいよね」
「君、まさかにまで食べかけをやってはいないだろうな」
その時、私たちの間にほとんど遠慮もなく差し込まれた声があった。破顔するラファエルくんの隣の椅子に腰を下ろしたのはローレンツくんだ。私と遜色ない小食であるローレンツくんは、食器もラファエルくんより二回りは小さい。
ラファエルくんはローレンツくんの言葉に首を傾げながら「ん? どうだったかなあ」と私のお皿を覗き込むので、一応私も確認してから「たぶん、食べかけじゃないよ」と答えておいた。歯形も不自然な欠けもないから、そういうことだろう。
しかし、私にまで、という言葉が出てくるということは、ローレンツくんは以前ラファエルくんから食べかけのものでももらった経験があるのだろうか。そういうことに頓着のなさそうなラファエルくんだったら、あり得るのかもしれない。
彼は無遠慮にローレンツくんのお皿を眺めると、珍しく険しい表情を浮かべてみせる。
「しっかし相変わらずローレンツくんも量が少ねえな」
「……人の皿を覗き込むのは無作法だぞ」
「ローレンツくんもこれ、食え! 安心しろ、食いかけじゃねえからよ」
「だから食べかけかそうでないかにかかわらずそういうことは品がないと以前から」
「あっ! オデの分がなくなった」
「人の話を聞いていないな?」
「よし、じゃあオデ、厨房に行っておかわりしてくるぞ!」
席を立ったラファエルくんの後ろ姿を見送って、ローレンツくんは盛大にため息を吐く。相性が悪いように思える二人だけれど、なんだかんだ言ってローレンツくんは面倒見が良いし、一方でラファエルくんはローレンツくんの細々したところを気に留めないだけの器量があるから、大きな確執もなくここまでやって来ている。ヒルシュクラッセは他の学級に比べればやや個性的だと言われていて、それでもまとまっているように見えるのはクロードくんの手腕だと評価されることも多いけど、個々人が上手くやっているところもあるのだ。少なくとも、私自身、ヒルシュクラッセで苦手だと思う生徒は一人もいない。
いない、のだけど、気まずく思うときは状況に応じてそれなりにある。
授業が終わった昼下がり、学生の集うこの広い食堂で二人きりというわけでは勿論ないはずなのに、ラファエルくんがいなくなった後、斜向かいに座ったローレンツくんは私とあまり目を合わせてくれようとしないから、なんだか居心地が悪い。早く戻ってこないかな、なんて、厨房の方で話し込んでいる様子のラファエルくんに目線を送る。量でもめているらしく、まだ時間がかかりそうだ。
そのまま視線をローレンツくんに戻すと、彼はやっぱり私を気にする素振りもなく黙々と食事をしている。途方に暮れてしまいそうになるが、私も今席を立つわけにはいかない。ラファエルくんが分けてくれたお肉があるのだ。
ガルグ=マクに戻ってから、味は分かるようになった。味覚も食感も平生に戻りつつあるから、食べていて苦痛になることはないけれど、ただただ胃が小さくなってしまったらしい。少しずつ、ゆっくりでしか食べられないのだ。お皿の真ん中にあるお肉とローレンツくんを見比べたところでそれが小さくなるはずはないのに、私はほとんど無意識にそうしてしまう。声をかけたいのにかけにくい。かけていいのか分からない。そういう葛藤が顕著に表れてしまっているのだ。
昨日の夕方、ローレンツくんが食堂にやって来ることはなかった。そもそもローレンツくんが私たちと別れた門の方に戻って来ることがなかったのか、門番さんから言伝を聞いた上であえて食堂に来なかったのかは分からない。疲れているようだったから部屋に戻ったのだと想定することはできたけれど、朝になって挨拶をした時、彼はなんだか余所余所しかった。とは言え、それでも挨拶は返してくれるし、会話だってすぐに切り上げるわけではない。目だけを合わせてくれないのだ。
竪琴の節でのあれに比べれば、その変化は細やかなものだろう。実際、それは明らかな拒絶ではない。本当に私と距離を置きたければ、そもそも今だって、こうして近くの席に座ることだってしないはずだ。話しかけるようなことだって。いや、話しかけてくれたのは、私の視線に耐えかねてのことだったのかもしれないけれど。
「……ヒルダさんと一緒にいないのも珍しいな」
目線は食器に落としたまま。けれど恐ろしいほどに美しい姿勢で、彼は座っていた。こんなに優雅な人が、本当に茶器を割った上で机に頭をぶつけるのだろうか。クロードくんからの手紙の内容を思い出して笑いそうになったけれど、唇を噛みしめて耐えた。
「ヒルダちゃんは課題の提出がまだだったみたいで、ハンネマン先生に呼び出されちゃった」
「……ああ、紋章学の論文かな」
「他の学級にはない課題なのに不公平〜って言ってた」
「まあその分、他は他で別の課題が出ているはずだが。……も期限は僕たちより長いはずだが、一応課題として出されただろう?」
「……はい、まあ。でも紋章学はそこそこ好きだし、多分なんとか……なる、かなあ……」
「提出期限の直前になって泣きつくなよ」
「泣きつかないもん」
あまり顔を見てくれないとはいえ、こうして会話には応じてくれている以上、いちいちその理由を問い詰めるようなこともしにくい。
結局私はその不自然さから目を逸らして、自分は普段通りに振る舞っていようと心に決める。私はアレキサンドルまで迎えに来てくれたローレンツくんに感謝しているし、彼が悩んでいることがあるならば、自分からそれを打ち明けてくれるまでは黙って傍にいてあげたいのだ。彼がいつも私にそうしてくれていたように。
無言で食事を摂る、ローレンツくんの美しい所作をじっと見つめる。ちょうど背後の窓から午後の陽光が差し込んでいた。冬とはいえ、陽がさせば心地良いものだ。
ガルグ=マクに戻ってきてからまだ一日しか経っていないけれど、やっぱりどこを見ても騎士の数は少なかった。食堂だって、以前のこの時間ならもう少し席は埋まっていたはずだ。詰所や大広間など、どこにいても空気がぴりぴりとしているし、残った騎士の方や教団の人たちの眼光は、張り詰めて鋭い。ジェラルトさんの死が与えた影響の大きさを肌身で実感せざるを得なかった。
父親を失ったベレト先生の姿は、ルーヴェンクラッセの教室の前を通りかかったとき、一瞬だけ見た。朝、寮内で話をすることができたイングリットちゃんは「先生は、やはりまだ思い詰めたような目をしていますね」と神妙な表情で教えてくれたけれど、遠目から見た先生はそういう先入観がなかったとしても顔色が悪いように思えた。
これまではガルグ=マク内のどこでも神出鬼没に現れることの多かったベレト先生は、最近は騎士団長の部屋にいることが多いらしい。遺品の整理もあるのだろうけれど、そこから離れがたいのだろう。私もそうだったから、なんて簡単な言葉で彼を理解した気になってはいけないと己を戒めつつも、ベレト先生のことはどうしても気にかかった。
一年のうちの一節っていうのは、思ったよりも長い。
ベレト先生はその間、ずっと耐えていたのだろうか。お父様の部屋で日がな一日過ごしていた、私のように。
だけど私は、貴重な時間を無駄に使ったとは思わない。アレキサンドルで父の死を悼んだあの日々は私にとってなくてはならなかったものだった。立ち直るきっかけのないままにガルグ=マクに戻っていたって、勉学も訓練も手に着かず、主に祈るだけの無為な日々を重ねただけだったと思うから。
だから、やっぱりローレンツくんがいてくれて良かったな。クロードくんから手紙をもらえて良かった。皆が待っていてくれて良かった。全部が全部、私に必要なものだった。聖句の続きを唱えてくれて、ありがとう。あの時私は馬鹿みたいな願掛けをして、身動きがとれなくなっていたんだよ。そんなことを言ったら笑われそうだから、今は秘めておく。そういう思いをこめてじっとローレンツくんを見つめれば、さすがに視線が鬱陶しかったのだろう。彼はようやく顔をあげて「そうじろじろ見ないでほしいのだが」とわかりやすくその眉目を寄せた。
一度目を合わせてもらえただけで、どうしても嬉しく思えてしまう。視界の端に映ったローレンツくんの胸元の釦は、不格好に縫い付けられたままで、私はなんだか泣きたくなった。懐かしく思えてしまったのだった。あれは確かに前節のことだったのに、まるで何年も前のことのように思えてしまう。
ラファエルくんがお皿にいっぱいの食事を持って戻ってきたのは、それから数分後のことだった。