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 ジェラルトさんが亡くなっただなんて、俄には信じられなかった。
 伝説の騎士と呼ばれたジェラルトさんを失うことはセイロス聖教会にとって損失以外の何物でもないだろう。大樹の節にベレト先生と共にガルグ=マクへやって来た彼が騎士団長に就いたことに異論を唱える者など誰一人としていなかったはずだ。実際、それだけ彼は圧倒的な強さを誇っていた。私はジェラルトさんと個人的に話をしたことはなかったけれど、その大きな背が先陣を切る姿を頼もしく思っていたから、殺されてしまっただなんて、信じられなかったのだ。
 だけど、確かめようとした私に目を合わせてくれなかったお兄様を見て、それが真実らしいということを受け入れざるを得なくなる。大方、私が動揺することのないように屋敷内の人間にも口を閉ざさせたのだろう。その心遣いは有り難い。実際お父様の死を受け入れる前にそれを知らされていたら、私は気持ちの落としどころをつけられぬまま無理にガルグ=マクへ戻っただろうから。そうしたところで私にできることなんか何もないということをきちんと理解しながら。
 けれど私はそれでもどうしても考えてしまう。ベレト先生がもしも自分と同じ思いでこの一節近くを過ごしていたというなら、それは彼にとって酷く陰鬱とした日々だったのではないかと。
 お父様を失って、大きな穴が穿たれたような喪失感は確かにあるのに、自分がそれでも平然と息をしていることが不思議だった。例え味覚に乏しくとも、生きるために食事を摂る自分を、まるで浮遊して天井から眺めているような感覚があった。
 ジェラルトさんはベレト先生のお父様だ。いくらベレト先生といえども、肉親を失って悲しくないはずがない。ローレンツくんは自分が直接目の当たりにしたわけではないから鵜呑みにするなと釘を刺したけれど、ジェラルトさんはベレト先生の目の前で刺されたらしいと言う。それも、角弓の節に行方不明となっていたフレンちゃんと共に発見された、オックス家のモニカさんの手によって。
 もしもそれが真実であるならば、先生は悔やんでも悔やみきれなかっただろう。何か一つでも間違えていたら救えていたかもしれないと思っているのではないだろうか。私以上の無力さと後悔に打ちひしがれているのではないか。あの人のそんな姿はうまく想像できないけれど、だからこそ余計に不安になる。
 ルーヴェンクラッセの生徒たちはベレト先生を支えているだろう。そうでなくてもベレト先生を慕っている生徒は大勢いる。レア様や、先生たち、アロイスさんたちだって彼を心配し、何らかの力になろうとはするはずだ。私がそこに加わったところで、大した意味は持たないのかもしれない。自己満足でしかないのかもしれない。私にしかできないことがあるはずだなんて、そんなの傲慢だ。だけど、私にとってベレト先生はもうすれ違っただけの見知らぬ人ではないから、例え自己満足だろうと、何の意味も成さなくとも、声をかけるくらいはしたいのだ。








 自室の扉を開けたとき、墓地に行く直前に外套を取りに戻ったときよりもその室内が鮮やかに輝いて見えたのは、私がきちんと、父の死を悼んで泣くことができたからだろうか。アレキサンドルに戻ってからというものの、私はこの部屋にいるとどうにも息苦しくてならなかった。体内の不純物を出し切ったことで、纏わり付くような不快感は和らいだように思う。ガルグ=マクの現状が芳しくないことを前提としながらも、自分の身体や心が軽くなったことは嬉しかった。
 着ていた衣類を脱ぐと、士官学校の制服を取る。襟衣を着て、下衣を腰で止めた。ちょっと緩くなっていたから、軽く調節する。袖を通さなかったのはほんの少しの間だけだったはずなのに、羽織った上着にどうしてか肩がこるような重さを覚えた。足の傷が疼くことはもうほとんどないけれど、私はそれでも確認するようにそこに触れてしまう。
 思えばこの怪我から始まった一年だった。まだ学校生活は二節半も残っているのにそんなことを考えてしまうのは、部屋を出る際にローレンツくんから渡された、一通の手紙のせいだ。



「君がまだガルグ=マクに戻らない可能性もあるからと、預かってきた」



 クロードからだ。
 最後のローレンツくんのその言葉は、低く掠れていた。
 個人的な手紙を受け取ったからと言って、それで自惚れるほど愚かではない。クロードくんはただヒルシュクラッセの級長として、いつまでもガルグ=マクに戻ってこない私を気にかけてそれをしたためたに過ぎないのだろう。それが私じゃなくたって、彼はきっと筆を取った。そんなの分かっているのに、それを読もうと考えると緊張してしまう。期待をする必要なんて一切ない。受け取った瞬間、ローレンツくんがどんな顔をしていたかを私は知らない。手紙の封筒に書かれた私の名前を、凝視していたから。
 クロードくんの横顔を、私は思い出す。それは放課後の教室だったり、グロンダーズの森の中だったり、古びたものから新しいものまでずらりと本が並ぶ、紙のにおいが充満する書庫だったり、普段よりずっと明るい、音楽の奏でられる大広間の中央だったりする。そんな妄想の中ですらも、クロードくんと目が合う回数はそんなに多くない。彼が私を見ないと言うよりも、私がその気配を察すると慌てて視線を逸らしてしまうためだ。現実でもそんなものだから、クロードくんの顔を正面からまじまじと眺めたことは、案外多くなかった。
 舞踏会の夜、私は彼を女神の塔へ誘う寸前だったわけだけど、思い返してみると、よくあんな大胆なことをしようとしたものだと思う。一緒に踊るという夢を叶えられたことが嬉しくて気が大きくなってしまったことに間違いはないが、欲が出てしまった。もう少しクロードくんの傍にいたいと思ってしまったのだ。鏡の前で細い息を吐きながら、前節の己の行いを省みる。
 そもそもいくら前もって女神の塔の噂について尋ねられていたとは言え、男女二人で同じことを願えば女神がそれを叶えてくれるという伝説にかこつけた逢い引きに、彼が乗ってくれたとも思えない。変に気まずい思いをせずに済んだと思えば、ローレンツくんにあそこで名前を呼んでもらえたことは不幸中の幸いだったのかもしれなかった。
 支度を済ませた私は、精一杯の深呼吸の後、手紙の封を切る。肉や骨で守られているはずの心臓が、薄皮一枚隔てたその先で鳴っているかのような感覚を覚えた。
 ともすれば力の入りすぎてしまう指先が、何の変哲もない紙に皺を作る。
 本当は直接会って話をしたいところではあるんだが、如何せんこの状況じゃあガルグ=マクを出ることも難しい。手紙になってしまうことを、どうか許してほしい。
 そんな文章から始まったクロードくんの私への手紙は、恐ろしいほどに整った筆跡をしていた。
 大樹の節、学級別対抗戦の提出用紙を記していたクロードくんもよほど丁寧な字であったけれど、あれから益々達筆になったのではないだろうか。文字を覚えたばかりの子供じゃあるまいに、そんな短期間で筆跡が変わるとも、わかりやすく上達することも考えにくいことだけれど。
 文章の中身よりもそちらに気を取られてしまうのは、そんなことを考えてでもいないとこれ以上読み進められそうになかったからだ。本当はゆっくり、噛みしめて、一晩かけて読むくらいで丁度良いくらいなのだけれど、すぐにガルグ=マクへ戻ると言うローレンツくんを待たせている以上はそういうわけにもいかない。かといってガルグ=マクに戻ってから読む、というのもおかしな話だから、この手紙を読むのは今しかないのだ。
 もう一度細く長い息を吐き出してから、強く目を閉じる。再び開いたとき、重く点滅する視界の中で、私は彼が記した文章を読み始めた。
 これがクロードくんからの、最初で最後の手紙だろうな。そんな確信を、なぜか抱きながら。








 が戻ってくるまで、紅茶を二杯も頂いてしまった。
 だが、おかげでヴァイル殿とはアレキサンドルとグロスタールのこれからに関して実のある話もできた。今後の方針について悩んでいるのだと言うヴァイル殿に不肖の身でありながらも助言させていただいたが、同盟領内でも一、二を争う穀倉地帯であるアレキサンドルは今更他方の伸長を目指すよりもその強みを生かすべきだし、それこそ足りない部分は近隣の他の家、つまりグロスタールやダフネル、リーガンを頼れば良い。中でもグロスタールを強調しておいたのは、互いの思惑が一致するだろうと想定したからに過ぎないわけだが、ヴァイル殿は素直に頷いてくれた。こういうところがによく似ているというか、少し危ういと感じる部分ではあるが、今後十年、二十年と彼が領主として過ごすうちに、それは矯められていくのだろう。かく言う僕だって、まだ次期グロスタール家の当主に足る完璧な人間であるとは言い難いのだから。



「お待たせしました」



 やがてが応接室に戻ってきた。
 体感ではあるが、半刻ほどの時間が経過していただろうか。僕は、がクロードからの手紙を読んで、感極まって泣いているのではないかとすら思っていたが、どうもそうではなかったらしいと彼女の顔を見て思う。は顔色の一つも変えず、鼻を啜ることもその瞳を潤ませることもなく、ほとんど屹立していると言って良いほどの姿勢で扉の向こうにいた。そもそも、読んでいないのだろうか。あの表情を見るに、それもあり得る。緊張して、とうとう開くことができなかったと。彼女ならばそう言いそうだ。
 ガルグ=マク士官学校の制服を纏うを見て、改めて、彼女が痩せたことを知った。
 膝丈の下衣から出た足はほとんど無駄な肉がない。黒い上着は余計に彼女を華奢に見せるから、不安になった。やはりお父上を失った傷は、彼女にとって相当深かったのだろうと、アレキサンドルを発つ寸前で思い知らされてしまう。葬儀で僕に向けた背を、彼女はもう見せようとはしなかった、それだけが僕にとっては救いであるように思えたけれど。



「母上に挨拶は済ませたか」

「はい。後で屋敷の外まで見送りに来られると仰っていたので、もう一度お会いしますが。その時にローレンツくんにもご挨拶を、と」



 ヴァイル殿に向けていた目線を僕に移したは、不意に薄く微笑むから、息が詰まった。読んでないわけがない。その時僕は、鮮烈に思ったのだ。肉親を失ったことを心配するクロードからの手紙を読んで、そもそも泣くという考えがおかしかった。勇気づけられたのだろう。再びガルグ=マクへ戻り、共に学び、そして同盟貴族に相応しい人間になるため砥礪切磋する。彼女はそう心に決めた。強くあれと自身に言い聞かせて。
 蹲っていた彼女の腕を取り、立ち上がらせるのはやはりクロードなのだ。
 だって、なあ、。僕は君を迎えに行くと言ってガルグ=マクを発ったが、それでもいっそのこと、君はこのままアレキサンドルに残るという選択をするのも良いんじゃないかと思っていたんだ。
 それで君がもうなにものにも苛まれることがないというならば。



「クロードからの手紙には、なんと?」



 礼儀のなっていないことであると知りながら、僕は尋ねる。
 は一瞬、子供のように目をぱっと見開くと、その目線を天井に向けてぐるりと動かした。困ったように下がったその眉尻は、幼い頃の面影を一際色濃く残している。



「内緒」



 その唇がそう動いたとき、僕はどんな顔をしたらいいか分からなくて、小さく笑った。
 ヴァイル殿が不思議そうに僕との姿を見つめていることだけは、視界の端でみとめた。


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