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ローレンツくんは、兄名義で手紙を一通寄越したきり、何の音沙汰もないまま実に一節近くが過ぎようとしていた現状を憂慮してくれたらしい。
冬の空の下、私が落ち着くまで辛抱強く待ってくれていたローレンツくんは、私の背中が震えるのをやめた頃、自分の襟巻きをそっと私にかけてくれた。ふわふわのそれに顔を埋めながら、私は訳も分からずに再び泣けてきたから、借りた手巾で強く目頭を押さえる。ぐ、と拭ってから顔をあげると、ローレンツくんはほとんど動じた様子もないから、落ち着かないような気持ちになる。
「君を心配していたのは僕だけではないが、僕が一番アレキサンドルには慣れているからね。ヒルシュクラッセを代表してやってきたというわけさ」
どうやら墓地に行く私と入れ違いだったようで、兄に居場所を教えられ、案内役もつけずに一人でここまで歩いてきたらしい。
彼の存在にも、続けてくれた聖句にも救われたくせに、泣き顔を見られたことが気恥ずかしくてつい「別に、屋敷で待っていてくれてもよかったのに」なんて憎まれ口を叩いてしまった。
「なに。僕も君のお父上にご挨拶がしたかったからね」
ローレンツくんは小さく笑ったような息を吐き出す。白くなった呼気が、私の頭の上で吐き出されている。ローレンツくんから手渡された手巾を握りしめたまま、こっそり鼻を啜った。
どちらからともなく屋敷へ続く道を歩き出したとき、誰かとこうして肩を並べて歩くことに私は懐かしさを覚えていた。彼の纏った外套の下は、おそらく士官学校の制服だろう。一方私は、平服だ。ガルグ=マクでは身につけることのなかった膝よりも長い下衣の存在を脛に感じながら、私は言い訳めいた言葉を吐き出してしまう。
「私も戻ろうと思ってたんだよ。明日には」
「ほう。準備はしていたのか?」
「準備も何も、ほとんど身一つで来ちゃったし。必要なものは寮にあるから」
せいぜい制服に着替えるくらいだ。その言葉を飲み込んで彼の顔を窺う。
「……ああ、そうだったな」
思わず言葉に詰まったのは、ローレンツくんの細められた目が、何かを思い出しているようだったからだ。そういえば、ローレンツくんとは舞踏会では踊れなかったな、そんなことを不意に思い出す。あそこまで踊れるようにしてくれたのは彼の力があってこそだったのだから、ドロテアさんに声をかけられる前、あんな風に緊張していないで、ローレンツくんに踊ってもらえばよかった。彼にとっては散々相手をした私との舞踊なんて今更新鮮味もなかったかもしれないけれど、それでもあの舞踏会は人生で一度きりだったのだから。私は今更それを、後悔している。
屋敷に戻れば、私たちを兄が出迎えてくれた。アレキサンドル家の当主となった今、兄は諸々の仕事に忙殺されているはずなのに、時間を割かせてしまったことを申し訳なく思う。
「ローレンツ君。すまなかったね、手間取らせてしまって」
「いえ。ついでのような形になってしまいましたが、先代殿にご挨拶もできましたので」
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
応接室には既に温かいお茶が準備されていた。茶器の美しさを嗟嘆するローレンツくんに、それは唯一父が気に入っていた茶器だと言いかけたけれど、口にはできなかった。お兄様に名前を呼ばれたからだ。
「……ところで」
「は、はいっ」
思わず背筋を伸ばす。根は私のよく知るお兄様であるはずなのに、やはりお父様が亡くなられてから雰囲気が変わられたというか、そうするように努めておられるから、つい緊張してしまう。特に今は目の前にローレンツくんがいるから、余計に当主らしくせざるを得ないのかもしれないけれど。
「ガルグ=マクへはいつ戻ることにしたんだ?」
「え、ええと、そうですね。明日には……」
「明日か。ローレンツ君はそれでいいのだろうか」
「……ああ、いえ、僕は……」
ローレンツくんは言葉を濁すと、お兄様に意味深長な目線を一瞬だけ向けた後、斜向かいに座る私を見つめ直した。てっきり一緒に戻ってくれるものとばかり思っていたけれど、どうやら事情があるらしい。神妙な面持ちで切り出した彼の、どこか言い淀むような口元を見つめる。
「……既に耳にしているかもしれないが、今ガルグ=マクは騎士団が出払っていてね。守りが薄い状況である以上、僕も早く戻らねばならないんだ」
「えっ」
「が明日必ず戻ると約束してくれるならば、僕はこのままガルグ=マクへ戻るつもりでいる。……できれば君をともに連れて行きたいところではあるが」
支度に時間もかかるだろうし、いきなり戻ると言われても、君の母君や兄君も困られるだろう。そんなことをローレンツくんは続けたようだったけれど、頭にはほとんど入ってこなかった。
騎士団が出払っているって、どういうことだろう。赤狼の節、ルミール村で異常が起きたときも、騎士団はガルグ=マクの守りが疎かにならないよう、まとめてではなく代わる代わる騎士を派遣して監視に当たっていた。私がアレキサンドルに戻っているうちに、それ以上の何か大きな事件があったというのだろうか。だけど、そうだとしたらアレキサンドルにまでその話は届いているはずだ。彼が「耳にしているかもしれない」と前置いたことだって、それを証明している。
お兄様に目線をやるけれど、頑なに私と目を合わせようとしない。こういうところは、昔から変わらないのだ。都合が悪いときや、嘘をついているとき、お兄様は目を逸らす癖がある。
「そうか……。一日くらいゆっくりしていってほしかったところではあるが、事情があるならば仕方ない。は明日、従者をつけてアレキサンドルを発たせよう」
「そうしていただければ僕としても安心です」
「え、ちょ、ちょ、まって」
私を置いて話を進める二人を制止するように思わず両の手の平をそれぞれに向ける。その指先が茶器に触れかけて、危うく倒しかけるところだったがどうにか耐えた。話が読めないけれど、どうもお兄様は私に何かを隠しておられるらしい。逸る気持ちで髪の先がちりちりと痛むような感覚を覚えながら、私は二人の、いや、ようやく私に目を合わせてくれたお兄様の顔を凝視する。その瞬間、喉の奥が一気に乾いて、喘ぐような息が漏れた。
「き、騎士団が出払っているって、どうして? 何があったら、そんな」
視界の端で一瞬目を見開いたローレンツくんに目線をやれば、彼は私と見つめ合った後、お兄様の方を見やる。その眼差しが何かを問いかけるような類のものであったことは間違いないけれど、それを読み解くことができるほど私は賢くはない。
やがて、お兄様は観念なさったように緩く首を振った。それを合図に、ほとんど無意識にだろう、ローレンツくんはため息と呼吸の中間ほどの息を吐いて、それから私を見る。
「前節、ジェラルト殿が殺害された。敵を捜し出すのに、教団は躍起になっているのだよ」
人間、驚きすぎると息も出来なくなるらしい。
「彼女に教えておられなかったんですね」
慌ただしかった葬儀の間ならばまだしも、さすがに一節近くも経てばガルグ=マクで起きた事件が、ほど近いアレキサンドルに伝わっていないはずがない。
が応接室を出て行った後、ヴァイル殿に「敢えてですか」と尋ねると、彼は眉尻を下げて笑った。それはほとんど肯定しているようなもので、僕はけれどそれを、分からないでもないと思うのだ。
父君の死に、彼女はずっと落ち込んでいただろう。もしかしたら、あの墓地の前で毎日泣き明かしていたのかもしれない。毎日ああして死者を悼み、弔い、花を供え、指を組み、祈り続けていたのかもしれない。ならば、さらに追い打ちをかけるような事実は伝えないでおくべきだと、僕だって思うから。
「さすがに、妹を追い詰める真似をしたくはないからね」
彼がには話をしていなかったことを察した瞬間、僕もどうにか誤魔化せないかと思案してしまった。だが、どのみち彼女が明日にもガルグ=マクへ戻ると言うならば、隠し続けられるものでもあるまい。
ヴァイル殿は、アレキサンドルの当主というよりもどこか幼い頃の面影が残る眦で「君が話してくれて助かったよ」と力なく笑った。
「あの子の前では心配をかけぬよう当主らしくあらねばと無理をしてしまうんだが……やはり俺には向いていないな。どうしても、そういうことから逃げてしまう」
「……それを判断するのは民です。それに、まだヴァイル殿が領主となってからまだ日が浅い。そう自分を卑下することはないでしょう」
「……だと良いのだが」
だが俺は、妹を士官学校に戻らせることすらできなかったと、ヴァイル殿はほとんど独りごちるように口にした。彼はの前では無理をしているのかもしれない。本来弱みを見せるべき相手にそうせず僕に見せてしまうあたり、彼の言うとおり、彼は為政者としての才覚に乏しいのだろう。もちろんそれは今の段階での話だが。
余命を知っていたとは言え、領地を委ねられるには彼には覚悟がなかったのかもしれない。もしも彼が成人していなければアレキサンドルの正当な血を継いでいる先代の奥方様が一時的に政治を担うことがあっても良かっただろうが、そうでなくても彼女は元々表舞台に出たがろうとしなかった。
アレキサンドルは正念場だろう。ヴァイル殿の手腕が問われるのは間違いない。が今後、どれだけ彼を支えられるかも。
次期グロスタールの当主として、僕も何か力になれたら良いのだが。
ガルグ=マクの現状を聞いて、ならば自分も明日と言わずこれからアレキサンドルを発つと言って部屋を出て行ったはまだ戻らない。母君に挨拶を済ませてくるとも言っていたし、着替えなどの準備も必要だろうから、すぐには戻ってくるとは思えないが、どうにも落ち着かなかった。
僕は、彼女が席を立った時に渡した手紙のことを考えてしまう。あれを読んでいるから、彼女は戻らないのではないか。もしかしたら感極まって、或いは動揺して、泣いているかもしれない。だってあれはクロードの、の思い人からの手紙なのだ。そこに何が記されているかを、勿論僕が知る由はないが。あれを入れた懐は、重くてたまらなかった。僕の手から離れた今もなお、燻るような感覚が残されている。
細く吐いた息に、ヴァイル殿は目を細めていた。「君がの傍にいてくれて、良かったよ」その言葉を、僕はこの場では額面通りに受け取るべきだったのに、どうしてもそれができなかった。手紙を抱きしめて感情の行き場を失うの姿が、なぜかありありと目に浮かぶのだった。