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 食事はあまり喉を通らなかったけれど、食べないとお母様たちに心配されてしまうから無理に咀嚼した。味はほとんどなく、木の皮を噛んでいるようにすら思える。吐きはしなかったものの、それでも食事量の減った私に、兄は「ガルグ=マクへはもう少しだけ休んでから戻った方がいい」と眉尻を下げて言った。その表情が、大樹の節、私がガルグ=マクに発つ朝に父が見せたものに似ていたから、私は何故だか殴られたような気持ちになってしまう。
 守護の節の間には戻れるだろうか。皆に会いたいという気持ちは強いのに、その意志に反して身体は重く、動かない。ヒルダちゃんだったら慰めてくれるだろうか。「心配してたよー」なんて言って背を撫でてくれるか。クロードくんはこんな私をどう思うだろう。葬儀にまで来てくれたのに、ローレンツくんに対して私は背を向けてしまった。ヒルシュクラッセの皆のことを考えると、最後にはどうしても自分への不甲斐なさが勝つせいで、気が滅入った。
 葬儀が終わって数日経ってもその調子の私を見兼ねて、兄がハンネマン先生に手紙を出してくれた。本当は私が書くべきだったのに、情けない。だけど、筆を持っても、言葉が出てこなかったのだ。数節の間ではあったけれど、手紙を父に出すことをやめていた日々を思い出してしまう。私は親不孝者でした。そんな思いが頭をもたげて、どうにも身じろぎができない。
 親不孝者でした。心の中で繰り返す。それが何の贖罪にもなり得ないことを知っているのは私自身なのに。








 お父様の自室で、一日の大半を過ごした。
 お父様の部屋は何冊かの本と多少の私物が残されていたけれど、生前に比べれば物が少ない。まだ身体が自由に動くうちに、ご自分で処分なさったらしい。平民の出であるためだろう。元々物持ちが良かったから、それでも手放したものは少なかったようだけれど。
 棚に残されたセイロスの書の写本は酷く傷んでいた。セイロス教の敬虔な信者であった父は、士官学校に入学した年に教本として貸しだされた本を、無理を言って譲ってもらったのものだと言う。修道士たちが作った写本だから、例え一冊であっても貴重であるはずなのに、それだけ父の熱意が凄まじかったか、或いは読み込みすぎて傷んでしまったため、それを回された次の代の学生が不憫であると考えられたかのどちらかでしょうねと笑った母を思い出す。本棚に並んだその本の、布張りの背表紙を撫でると、今にも剥がれ落ちてしまいそうな儚さがそこにあった。



「なんだったっけ……」



 幾つか教わった聖句の中に、死者を悼むためのものがあった気がする。背表紙を指でなぞりながら、目線を落とす。細い糸を辿るように記憶を呼び起こそうとする。「主よ」そう呟いた瞬間、どうしてか、その中身がほとんど空っぽであるように思えた。頭の中に得体の知れない靄が充満しているようで、息苦しい。
 本から指先を離して、私は父の部屋を後にした。自室に戻り外套を手にして廊下に出れば、偶然通りかかったらしいお兄様と出くわす。



「外出か?」

「はい。外の空気を吸ってきます。……今日はまだお墓にも行ってませんし」

「……そうか」



 お兄様は一瞬、何かを言い淀むように口を開きかけた。それを飲み込んでしまわれたかと思ったけれど、結局、そうすることをしなかった。だから、それで良かった。いつまでも甘やかされていては、私の足から伸びた根が腐ってしまいかねなかったから。



「後ろばかり見るのではなく、そろそろお前も行かねばならないよ」



 父上はお前の卒業を、誰よりも望んでいたのだからと。
 上手く笑顔が作れなくて、私はただ無理矢理に目を細めて頷いた。
 そろそろガルグ=マクへ戻らなくてはならない。



「はい。だから、お別れを」



 本当の意味での別れは、まだできないかもしれないけれど。
 兄様は小さく頷くと、私の肩を叩いた。その手は厚く、重く、そして震えていた。元々気丈な人ではなかったのに、兄は当主としての責務をその両肩に乗せて、これからの人生を歩まねばならない。支えてさしあげなくては。ならばこそ、私は折った膝を伸ばし、ガルグ=マクへ戻るべきだ。
 卒業もできないなんて、父に呆れられてしまう。








 アレキサンドル家の墓所は、屋敷の裏手側にあった。ローレンツくんのおうちのそれの数分の一にも満たない敷地の細やかな庭園を抜けて、森を僅かに切り開いたところ。歴代の当主がここで眠っている。
 古めかしい墓石はしかし端から順にきれいに磨かれていた。その中でも一際真新しい石が父の眠る墓だ。ここに来る道中、庭師から切って貰った花を供えれば、くすんだ空の下でも、それはいくらか華やいだような印象になる。真冬でも咲く小ぶりの花は愛らしかったけれど、父の好きな花くらい聞いて置けば良かった。今更そんな後悔をしてもどうしようもないのに。



「……主よ。おいでください」



 目を閉じ、祈りの言葉を紡ぐ。
 どうせ思い出せないのならば、その表紙の脆弱さに躊躇わず、父の書棚にあったあの本を引き抜いて確認すればよかった。触れたところからボロボロと剥離して、父の思い出までもが消えてしまうような錯覚に囚われる必要などなかった。守護の節の空気は肺を刺すように冷たいから、脳の芯までが冷えていくような心地になる。



「……我が、愛する人を、お迎えください」



 もしも、もしもこの死者を悼むための聖句を全て言い切ることが出来たら。突拍子もないことを思いついてしまう。それは、今の自分の踵が、あまりにも不安定な土の上にあるからだ。
 このおぼろげな記憶の中から拾い上げた聖句がなれば、私はこの指に掴んだままの父の魂を送ることができる。認め、前を向いて進むことができる。ガルグ=マクに自分の足で戻って、あと二節と半分しかない学生生活を過ごして、それからまたこの地に帰る。兄を支えるために。



「……いと冷たき雨がその身を濡らす時」



 私はただしくお別れをしなくてはいけない。



「…………鳥と、狼……とが、夜明けを告げるとき……」



 だけど続きを思い出せないならば、そんな賭け事のような願掛けはすべきでなかったのだろう。
 ぐるぐると、様々な聖書の言葉が脳裏を駆け巡る。混ざり合って、続くべき句を潰してしまう。暗唱させられた五戒を、今初めて疎ましく思ってしまった。
 父は、信仰心を育ませこそすれ、聖句の一つも暗唱できずにいる私を叱るだろうか。いや、嘆きこそするかもしれないけれど、叱ることはないか。痛々しいほどに優しい人だったから。
 次期当主として兄を厳しく育てた父は、兄に向けることのできぬ優しさを私に惜しげもなく与えてくれた。それでも兄に辛く当たられることがなかったのは、元の性格もあったのだろうけれど、お母様が犬馬の労をとったからだ。お母様も厳しかったけれど、いつもお兄様の味方でいらっしゃったから。「己にできぬことは無理をしない」と兄に教えたのは、お母様だ。
 領主さまのご一家は睦まじくいらっしゃる、そう言われる度に面映ゆく、嬉しかった。剣や槍の訓練は厳しかったけれど、舞踊程苦ではなかった。舞踊を拒絶して吐いた私の背を、吐瀉物で膝を濡らしながら撫でた父の手を思い出す。愛されて育ったと胸を張って言えるのだ。愛された分だけ、私も家族を愛していた。幸せな人生だったから、少しでも恩を返したかった。そのために傍にいてほしかった。でもそれも叶わない。
 どうして続きが出てこないのだろう。
 思いだせ、思い出せ、組んだ両手の指が軋む。



「鳥と狼とが……よ、夜明けを」



 墓石にしがみ付いて泣けば何か変わるのだろうか。お父様と呼べば時は巻き戻るか。お母様もお兄様もどうして何も教えてくれなかったと叫べば私は私を許すのか。どうして私はまだ泣けないのだ。こんなにも痛いのに。引き攣った喉が渇いた空気を吸い込んで、苦しい。吐いたって私の背を撫でてくれる人はもういないのに。
 ならば続けろ。父のための祈りを。思い出せ。目まぐるしく脳をめぐるこれまでの記憶。幼い私を抱き上げて笑った父のその目じりの皺、あなたを愛し、尊敬していました、心から。父と母と、主に連なる者を敬わねばなりません、そんなセイロスの教えがなくたって。
 でもこんな聖句も紡げない私は、あなたの娘に相応しくなかったのかもしれませんね。
 その時、ざり、と背後の土が踏まれた音に、私はすぐには振り向けなかった。



「鳥と狼とが夜明けを告げる時」



 その低い声は、私の吐き出した拙い言葉の続きを確かに紡いでくれたから。



「青き血潮の底にお迎えください」



 鳥と狼とが夜明けを告げる時、青き血潮の底にお迎えください。
 すっかり聞きなれたその声は、だけどこんな、私のおうちの墓石の前に相応しくはなかった。
 舞踊だけじゃなくて、歌も得意な人だから、その声は良く通る。



「瞬く星の一つにお迎えください」



 こんなことを言ったらローレンツくんは私を馬鹿だなと笑うかもしれないけれど。
 振り向いたその時、私ではなく墓石を見つめてそう言ってくれたあなたを見た瞬間、私は救われたのだ。
 眼球が痛くて、喉は、潰れたようなひしゃげた声を吐き出す。それが嗚咽だと気が付いたのは、目の前が霞んで、熱くて、たまらなかったからだ。乾いた地面にぼとりと落ちた涙の存在に、私はこんなにも、驚愕している。お父様。どうか、どうか。ローレンツくんの力がなければ形にならないような私のこんな祈りでも、あなたの命はただしく進めましたか。お星さまになってくれたのだろうか、父は。声がもう出ない。
 しゃくりあげて泣いた私を、歪んだ視界の中で彼が見る。切れ長の瞳は、僅かに目尻が下がっているように見えた。
 アレキサンドルで泣いてばかりいたのだと思われたくないのに、涙腺に詰まった異物が取り除かれてしまえば、もうそれは止まらなかった。後から後から流れる涙を隠すために手の甲で拭えど、それはあっという間に濡れて意味を成さない。
 ローレンツくんに差し出された手巾を逡巡の後に受け取れば、彼は、安堵したように小さく息を吐き出した。掠れた声で彼の名を呼ぶ私に、言葉もなく目を細める。その笑顔がともすれば泣き出しそうに見えたから、私は受け取った手巾で、自分の目を覆った。


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