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思えばそれらしき兆候は見られていたのかもしれない。角弓の節まで定期的にあったお父様からの手紙は、あのお見合いの一件から途絶えていたのだから。
ガルグ=マクから戻った直後の私に、あの頃既にお父様の病が進行していたのだと滔々と告げたのはお兄様だ。まるでそうでもしていないと、端から決壊してしまいかねないとでも言うかのように、慎重に、お兄様は言葉を重ねていく。だけど、ほとんど聞いていられなかった。屋敷に着いて、憚らずに走ったせいか横腹が痛い。目の前がぐるぐると揺らいで、どんなに呼吸を整えようとしても、うまくいかない。お父様。声が出ないのだ。まるで喉を締められたみたいに。
早馬を走らせても、ガルグ=マクからアレキサンドルへは一日近くかかった。寝台の傍に取られた窓からは月明かりが漏れていて、私は縋りついて泣くこともできず、ただ茫然とお父様を見下ろしている。
お父様が亡くなられた。
顔に白い布を被されたお父様の亡骸は、私の記憶にあるものよりも痩せ細っていた。
私は、もしかしたらお父様は私がお見合いをお断りしたことを怒ってらっしゃるのかもしれないと思っていた。客観的に見たら、あれはアレキサンドルからすると良縁だったから。継承権も紋章も持たぬ私は、これから先レスター諸侯同盟内の貴族の妻として娶りたいと言ってもらえることなんて、きっとない。だから、お父様は私に失望なさったのかもしれないと。だから手紙が来ないのだと。父はそんな人じゃないと誰よりも知っていたのは、私なのに。
「が嫌ならば仕方ないと笑っていたよ」
「……」
けれど武器を持ち戦うということへの葛藤や、紋章の有無、鷲獅子戦と言った心身ともに忙しない日々が、手紙のないことへの違和感を薄れさせていたのも事実だ。代わりにお兄様からの手紙が届くようになったことだって、深く考えていなかった。それに思考を割いていられない程忙しない日々だったからなんて、そんなの言い訳だ。
「自分が長くないことを知って焦ってしまったと。もしもがあの件に関して気に病んでいるようならば、あれは自分が悪かったのだと伝えておいてもらえないかと言付けられていた」
「……そんな」
「お前が心から愛することのできる人間と出会えたらいいと送り出したのは自分だったのに、と」
私の言葉に重ねるように続けられたその声は、掠れていた。
途方に暮れたような背だった。恐らく、私の背もそうだったのだろう。私達は父を失った。
舞踏会のさなかのそれは、私にとって青天の霹靂だった。
「ローレンツ……と、誰だ?」
クロードくんの言葉に、私は首を傾げる。背の高いローレンツくんの姿が大広間の扉にあることは分かったけれど、その隣にいる人の姿は私には確認できなかったのだ。
名前を叫ばれたことで、歓談していた生徒たちの視線が私に突き刺さる。音楽が止まるほどではなかったし、気にせずに踊り続けている生徒たちの方が多かった。だけどそんな中、どこか怒ったようにすら見えるローレンツくんの表情に、何が起きているのかをすぐには理解できなかった。
さっき話し込んでいた様子の女の子と踊っているものとばかり思っていたのに、彼はどうして外から、それも玄関ホールの方から飛び込んできたのだろう。
ざわめく人波を掻き分けて私とクロードくんの元にやって来たローレンツくんは、私の手首を掴んで「来い」と告げた。状況を理解していないのはクロードくんも同じだったろうに、物々しい空気を察して、彼は私の背を押す。
「何だかよくわからんが、穏やかじゃないな。行って来いよ、」
「えっあの、でも」
「事情は後だ。先生には僕から伝えておく。兎に角君は今すぐガルグ=マクを発つ準備をしろ」
「た、発つ? な、なんで」
本当はその言葉を耳にしたときから嫌な予感はしていた。
ローレンツくんの瞳が苦々しげに細められる。クロードくんの手の平の感触が背中から消えたことにすら気が付かず、私はローレンツくんの口の動きだけをただ見つめている。
「君のお父上が」
その時、私はローレンツくんが伴っていた誰かが見知った人物であることに気が付いていた。アレキサンドルに長く仕えてくれていた馴染みの従者は、唇を噛みしめて、私を見つめていた。
父は私がガルグ=マクを発って間もなくして亡くなった。
私は父の死に目に会えなかった。
父の病が発覚したのは、青海の節だったと言う。
身体を内側から蝕む病だった。気が付いたときには手遅れで、余命をも宣告されていたのに、父は頑なに自分の病を私に伝えることを拒んだと言う。手紙だって、限界が来るまで書き続けていた。「が看病のために士官学校を辞めて来たら困るからと、冗談めかして言っていたわ。いくらお父様を慕っていたあなたでも、そんなことはしないでしょうにね」母の言葉に何も答えることができず、私は服を握りしめる。皺になったそれが、まるで己の肉にでも刻み込まれたようにすら思えた。
ケント家からもたらされた縁談を本人の意思に反してまで押し付ける気はなかったし、例えその話がうまくいったとして、孫を見ることができるほど自分の命は長くはないのは明らかだ。だけどもしも叶うならば、お前が幸せになる将来の道が敷かれたところだけでも見たかった。無理強いをするつもりはなかったのだ。
赤狼の節に書かれたという父の遺書は、私への謝罪で溢れかえっていた。緩く波打つ蛇のような文字は、かつての父の書く力強いそれとは違う。それは私の息を呆気なく止めてしまうのだった。
もしも一年前、私がガルグ=マクへやってくる前に縁談の話があれば、私もどう答えていたかは分からない。婚約者として、将来自分がケント家へ嫁ぐことを良しとしたかもしれない。或いは、あの時私が諸々のことに気を揉んでいなければどうだっただろうか。誰かに嫁ぐべきだと言われていたら、私はどうするつもりでいたのか。優柔不断な私は、ローレンツくんの言う通り、大勢につく。
ならばいっそ父のために縁談を受けておくべきだったのかもしれない。
「とが考えることは父上も望まれてはいまい」
「……は?」
私の内心と重なるように口にされた兄の言葉に、私は顔をあげる。
葬儀の準備は滞りなく進んでいた。母上と前もって準備をしていたからと呟いた、乾いた兄の声は、鼓膜に張り付いて剥がれそうになかった。
「が最後に寄越した手紙を父上はもう読めなくてね。俺が代わりに朗読してさしあげたんだ。父上が亡くなる少し前の夜だった。起き上がることもできず、ほとんど眠っておられたが、その時ばかりは目を開けてお前の手紙を聞いていた。あの、舞踊を嫌がって部屋に閉じこもっていたような子が踊れるようになったなんてと、掠れた声で、仰った」
「それは、ローレンツくんと、ヒルダちゃんが」
「……ローレンツ君とも仲良くできているようで良かったと。グロスタール伯爵家の彼とは自分たちのせいで疎遠になってしまったようなものだからと、気に病んでいたそうだ。……俺がに舞踏会への参加を避けさせていたことにも、一因はあるのにな」
お兄様の乾いた笑い声が掠れる。
「自分の命が長くないことを知りながら、最後まで知らずにいてほしいと願ったのは親心だよ。だから容体が急変しても尚、お前を呼ぶことを拒んだ。お前が舞踏会を楽しみにしていることも頭にあったのかもしれない。ガルグ=マクに早馬を走らせたのは俺だ。せめて死に目に会うべきだと思った。だが、今頃父上は俺を怒っておられるかもしれないな」
目頭を押さえて俯かれたその横顔が、見てはいけないもののように思えた。私はただ、兄の自責に首を振ることしかできない。
父上は。
その言葉に、私はとうとう動けなくなってしまう。
「お前と踊ってみたかったと。」
父の亡骸は既に棺に納められて、明日、埋葬されることになる。
領主の死に、民が必要以上の混乱を強いられなかったのは、既に兄がほとんどその座を継いでいたからだ。頼りないところのあった兄は、最早アレキサンドル家の当主としてその地位を確立しつつある。葬儀でも、兄は訪れた近隣諸侯の貴族たちの前で堂々とした挨拶を見せた。
アレキサンドルと言う小さな貴族の当主の葬儀だ。近隣のリーガンやダフネル、見合いの話のあったケントからは当主が足を運んでくれたけれど、それ以外は代理の者が弔問に訪れた。ジュディットさんは兄を激励し、私の肩を叩いてくれた。何か困ったことがあればいつでも相談に乗るからと。御老体を押してやって来てくれたリーガン公は精悍な顔つきをしていらっしゃった。その肌や髪の色、一重の瞳はクロードくんと似付かないように思えたけれど、立ち姿は面影があった。
グロスタール伯爵は些事を息子であるローレンツくんに任せることが多い。ガルグ=マクから来てくれたのだろう、ローレンツくんも葬儀に参列してくれたけれど、慌ただしさの中、話をすることが出来なかった。無意識のうちに、その同情するような視線から逃げていたのかもしれない。彼に何か言われてしまえば、私はそれらの全てを受け入れざるを得なくなるから。彼の相手すらもお兄様に押し付けて、私はまるでその存在をも素知らぬふりをした。
実感など湧かないままでいさせてほしかった。
棺に納められ埋葬された後も、弔問客が帰った後も、残った雑務に奔走していたおかげか、脳が現実を拒んでいる。もしかしたらお母様も、お兄様も同じなのかもしれない。だけど、心構えをしていただけ、私よりは現実を飲み込めているか。私だけが取り残されている。
だって、私はまだ泣けないのだ。
守護の節を迎えても尚、私はアレキサンドルの空の下から動けない。