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例え私の脳がこの現状を理解できずに居ようと、現実である以上舞踊は進む。級長の証である外套は原色で、暗い色の制服に良く映えるから、彼と一緒に居る以上はどうしても目立ってしまうけれど、私の心情を汲み取るかのようにクロードくんは目立ちにくい位置を陣取ってくれた。おかげで周囲の人に目線を向けられたのは一瞬だけだ。
緊張で手が震えていたのは最初だけで、一歩足を踏み出せば、私の身体はローレンツくんたちとの特訓の日々を覚えている。良かった、クロードくんが相手でも、基本的な動きが脳からすっぽりと抜け落ちるということはないみたいだ。
拍を意識して、丁寧に。下半身の動きに気を付けて。触れた部分を意識しないようにしながら、なるべく舞踊に集中しようとする私に、クロードくんは意地悪くその目を細めた。
「お、何だ、踊れるんだな」
「や、に、苦手ではあるん、ですけど」
ローレンツくんとヒルダちゃんが時間を作って、特訓してくれて。拍の合間に何とか口にすれば、彼は「ああ、成程」と納得したように頷いた。元々舞踊が出来ないことは貴族としては恥だし、できるならば隠しておきたかったけれど、彼も薄々察していたところではあったのだろう。「頑張ったんだな」と吐き出された言葉に、どうしようもなく顔が熱くなって、目線を落としてしまう。
緩く繋がれた手が汗だくで、触れ合う面積を最小限にしようと指先に力を入れる。クロードくんはそれには特に反応しなかったけれど、代わりに腰に添えられた手は力強く私を支えるから、身体は逃げようにも逃げられない。舞踊って、こんなんだっけ、だんだん頭に熱が回ってきたように朦朧とし始めて、困った。
クロードくんは、先ほどベレト先生と踊ったようなめちゃくちゃな踊りを私の前ですることはなかった。私の良く知る型にはまった舞踊はローレンツくんのそれと比べれば随分と荒削りであるように思えたけれど。私の内心を読み取ったかのように、クロードくんはその口元を緩める。
「俺も正直、こういう堅苦しい踊りは苦手でなあ」
これでも、何とか身に着けたんだぜ。珍しく過去を振り返るような瞳をして彼が言うから、思わずその顔をじっと見つめたその瞬間、つい意識をそちらに向けてしまったせいでつんのめる。クロードくんはそんな私を転ばないように手を引いて支えてくれるから、私は余計に、どうしたらいいのか分からなくなってしまった。
「ご、ごめん……ありがとう」
く、と喉を鳴らしながら、クロードくんは私を笑う。気にするなとでも言わんばかりに、その添えられた手が二度、私の腰を叩いた。そこにあるのは、きっと情だ。
クロードくんのことを、私はまともに知らない。クロード=フォン=リーガン。フォドラの十傑であるリーガンの紋章を持ち、この士官学校に於いてもその才覚を惜しまずに発揮する彼は、レスター諸侯同盟をまとめ上げるリーガン家の血を確かに継いでいる。だけど、現当主でいらっしゃるリーガン公の嫡男であるゴドフロア様は公務中の事故により他界されていて、彼に跡継ぎはいらっしゃらなかった。リーガン公にはもう一人女子がいらっしゃったと聞くけれど、行方が知れていない。だからリーガンは近く、このまま絶えることになるだろうというのが、ここ数年のレスター諸侯同盟における貴族たちの認識だった。ローレンツくんのお父様はそのために色々手を回していらっしゃったし、だからこそアレキサンドルにも良くしてくださっていたのだ。
単純に考えれば、クロードくんはゴドフロア殿の落胤か、或いは行方不明と言われている息女の息子ということになるのだと思う。偶然か必然か、その存在が明るみに出たのが去年だ。
クロードくんのことを教えてほしいと訴えれば、聞かせてくれるのだろうか。彼が辿った軌跡を振り向くことを許してくれるだろうか。
私はそこに踏み込んでもいいだろうか。
クロードくんを見つめた私を、彼は感情の読み取りにくい瞳で見つめ返している。
大聖堂へと続く橋から離れようと思ったのは、定期的に通りかかる生徒が存外多いことに煩わしくなってしまったためだ。恋人同士と思しき二人組だけでなく、女神の塔付近で待ち合わせの約束でもしているのか、緊張した面持ちで一人向かう生徒も目についた。勿論、願い事を終え塔から戻って来たらしい二人組も何人か。彼らの誰もが顔見知り以下でしかない生徒であったのが唯一の救いか、こんなところで誰かに会おうものなら気まずいどころでは済まない。
舞踏会の行われている大広間に戻る気になれない以上、一度士官学校の教室側へ向かおうかとも考えた。舞踏会を抜け出す恋人同士の目的地が女神の塔であるならば、わざわざ教室の方で用もなく話し込む生徒などいないだろう。ただでさえ今夜は一段と冷えるのだから。或いは、いっそもう部屋に戻ってしまってもいいか。そちらの方がより合理的であるはずなのに、僕はどうしても、大広間の付近から離れるのが億劫であるように思えてしまう。
それでも歩きはじめようとしたその瞬間だった。大聖堂の方、つまり女神の塔から足音を響かせ、一人駆けてきた人影と目が合ってしまったのは。
「お、ローレンツ」
「…………シルヴァンか」
露骨に嫌な顔をした僕にシルヴァンは何故か躊躇なく腕を掴んでくるから、とうとう気が触れたのかと考える。或いは酔っぱらっているのだろうか。しかし酒の類はあの場にはなかったはずだし、そもそも呼気は正常だ。それを判断できるくらいに顔が近いのが、不愉快なことこの上ない。
「助かった、匿ってくれ」
「断る」
「お、おいおいちょっとは話くらい聞いてくれよ薄情な奴だな」
「君のことだ。大聖堂側から走ってきたと言うことは、どうせ女神の塔での約束を二重に取り付けてしまったのだろう」
「いや〜参った参った、時間をずらして約束したはずなんだが、一人早めに待っててくれたみたいでさあ」
「自業自得だ」
「冷たいこと言うなって、な?」
馴れ馴れしく腕を絡めたまま口にするシルヴァンに思わず眉根を寄せる。そのまま大広間側に引っ張られるから「おい、やめろ」と振り払おうとするものの、がっしりと固定された腕はびくともしない。扉の先から漏れる白々しい光と、非の打ちどころのない技術で奏でられる音楽、人の気配を多分に含むあの先に、二人がいる。それを想像するだけで、内臓がすっと冷えるような心地になる。
舌打ちの一つでもしたくなるが、飲み込む。「まあまあ、二人で寂しく話そうぜ。俺だって何も大広間に戻りたいわけじゃないんだからさあ」と言われなければ、どうしていたか。シルヴァンは大広間ではなく、騎士の間に続く通路を選んだ。再び外に出たあたりで腕を解放されて、僕は彼の意図が理解できぬまま、その後ろ頭を凝視する。
「……踊らなくていいのか」
「はは、もう嫌ってくらい踊ったさ。そう言うローレンツこそどうなんだ? こういう日こそお前の好機だろう。グロスタール伯爵の息子は舞踊に秀でていらっしゃると聞くぜ」
好機であるものか。言いかけた言葉は胸のあたりで留めた。
僕は、ここで貴族としての責務を全うするために日々研鑽を積むことだけでなく、将来の妻に相応しい女性を見つけるつもりでいた。グロスタールに釣り合う貴族であれば、紋章はあろうがなかろうがこの際どうでもいい。僕の身体にグロスタールの紋章を受け継ぐ血が流れているわけだからな。もしも僕が紋章を至上のものとして扱うファーガスに産まれていれば、この価値観もまた違ったのだろうが。
ガルグ=マク士官学校には、同世代の若者が大勢いた。勿論、その中には自身の経歴に箔をつけるため、大金を準備して士官学校に入学する平民もいる。そう言った彼らは、ほとんどが騎士になることを目標としているだろう。しかし僕の妻に足る資格を持つのは貴族だ。それも、それなりに大きな家のご令嬢でなくては。
ゴネリル公爵家の一人娘であるヒルダさんや、コーデリア伯爵家のリシテア君、ここ数年で国力を蓄え急激な成長を遂げているエドマンド辺境伯の養女だと言うマリアンヌさん。ヒルシュクラッセで言えばこの三人は僕に相応しいだろう。そう考えていたのは、春先から、初夏にかけての実に短い期間だった。
僕ではない別の男を追いかけるあの後ろ姿を見るようになったのがいつからだったかなんて、もう覚えていない。
人の気配の他にないそこで縁台にでも腰掛けるつもりかと思えば、しかしシルヴァンはそのまま大広間の外壁に沿う形で歩き出した。そのまま放っておきたい衝動に駆られるも、時間潰し程度にはなるだろうかと考え直す。一人でいると、余計なことを考えていけない。そう思ったのだが、如何せん相手が悪かった。もう少し人畜無害な相手であれば、こんなに感情を乱されることもなかったはずなのに。
僕はこの時、シルヴァンとの間に面識以上の何かがあるとは考えていなかったのだ。少なくとも、シルヴァンにとって彼女はほとんどその辺に転がった石と変わらぬと。だから、彼がわざわざ彼女の話題を出すとは思ってもみなかった。
「うちの先生がどうも落ち込んじゃってさあ」
「ベレト先生が? どうして」
「いやあ、お前も聞いてるだろ? クロードの魔の手から救い出そうとした女の子がいたんだけど、本人からも断られるわクロードからも釘は刺されるわ」
のことを言っているのだ、と瞬時に理解する。救おうとした、と言われると、あの他人に興味のなさそうな教師がなぜ、という疑念も湧くが、所詮シルヴァンの目から見た話だ。事実が多少歪曲されているに違いない。しかし。
「……魔の手か。言い得て妙だな」
「でもお前は今、その魔の手にあの子を譲った、ってわけだ」
現在進行形でな。続けながら、シルヴァンは右手側にある建物に目をやる。音楽の漏れ聞こえる大広間は、未だ舞踏会の最中であることに間違いない。年に一度の記念日だ。この日ばかりは学生の浮かれようも大目に見てもらえる。本来立ち入り禁止であるはずの女神の塔に忍び込む連中が後を絶たないのに、大々的に禁止にすることも見張りを置くこともしないのがその証左だろう。
見透かすように言葉を重ねていくシルヴァンが、結局のところ何を言おうとしているのかを推し量るもうまくいかず、僕は目を細めてその後ろ姿を見つめた。
星辰の節の夜空は空気が澄んでいて、星が良く見える。こんなに冷える夜なのに、しかしシルヴァンは昼とほとんど変わらぬ軽装で、僕はこんな時に、この男が、極寒の地ゴーティエに生きる人間だということを思い知らされている。
「俺もあいつと同じ穴の貉だから大っぴらに悪くは言えないが、人の感情を利用する奴ってのは、見ていて清々しいもんじゃないよなあ」
その横顔が、どこか諦めた人間のそれであるように思えたのだ。
「それが無意識であるなら尚更、利用された方の人間が憐れだと俺は思うね。……まあ、あいつがそれを自覚していたとしても、報いる気がなければ意味はないんだが」
俺みたいにさ。そう僕に振り向いたシルヴァンは、その下がった目じりを細めて笑った。外灯の下で、それはいっそ清々しくすら見えたのだ。
「俺はお前の方があの子を幸せにしてやれると思うよ。ローレンツ」
だけどそんなの、僕の独り善がりじゃないか。
「あ、あの、クロードくん」
重ねあわされた指先は、今もまだじんと痛んでいる。腰に添えられた手が、いつもよりずっと近いその顔が、彼の香りが、私の思考を曖昧にしていく。
女神の塔の伝説を知っているか? あの日、そう尋ねた彼に、ひょっとしたらそれ以外の意図は何もなかったのかもしれない。男女が同じ願い事をすれば、女神さまが叶えてくださる。ちょっと胡散臭いけれど、希望の詰まった素敵な噂話だ。それに縋らせてほしいと思ってしまうのは、きっと間違いじゃない。
「ん?」
至近距離で見つめられて言葉につまる。
もしかしたら、信仰心が篤いようには思えない彼は女神の塔の伝説なんて馬鹿馬鹿しいと考えているのかもしれない。一瞬過ぎったその考えは、けれど舞踏会と言う特別な空気に飲み込まれた。私の背すれすれで緩く回って見せたフレンちゃんの楽しげな笑い声が、数分も経たずに誘ってきた男性との舞踊を終わらせてしまうドロテアさんの、その気の無い謝罪の声が、カスパルくんたちの話し声が、魔力の込められた燭台の、目が眩むほどの明るさが、私の正常な判断力を奪う。勇気じゃなくて、たぶん、これはきっと無謀だった。
あなたのことが知りたいです。あなたの望むものを教えてほしい。その線を踏む権利がほしい。あなたは私の特別だ。
女神の塔に一緒に行ってほしいって口にするのは、それらの全てを告白するのと同義だった。でも、それでも今伝えなくてどうするのだ、と思う。無意識に力を込めてしまった指先が、クロードくんの大きな手の平を握りしめてしまう。
「あの」
クロードくんの瞳に、いつまでも飲み込まれていられたら良かった。
件の女生徒なのだろうか。シルヴァンの名前を呼ぶ声が響くや否や、彼は「悪い、俺はここで」と厩舎脇を駆け抜けて行った。暗闇に消えていくその後ろ姿を眺める僕の背後から「シルヴァンを知りませんか?」と予想通り尋ねられたため「彼なら今大広間に戻ったところだよ」と告げておく。不本意ではあるが、まあ、庇うくらいはしてやるさ。
お礼もそこそこに大広間に向かう女生徒の後ろ姿を見送りながら、僕は小さくため息を吐いた。シルヴァンの言葉が、まだどこかに刺さっているような気がした。
「あっローレンツさん!」
玄関ホールと大広間を繋ぐ小路の前を通りかかったところだった。いつも門から動くことのない門番の男が、慌てた様子で、どこかで見たことのあるような男性を伴って現れたのは。
「すみません。どうかこちらの方を大広間まで案内していただけませんか。何分、自分はすぐに門に戻らねばならず……」
僕を見たその男性は、はっと息を飲む。しかし僕は、それでも彼のことを思い出せない。記念日であるこの夜に、決して舞踏会に招かれた様子ではない来客があるとは。身なりとしてはそれほど高貴な人間であるようには思えないが、しかし、どうにも見知った顔であるような気がしてならない。胸の奥に何かが燻ったような感覚がある。
「…………ローレンツ様」
しげしげと見つめる僕に、彼は何か詰まった様子で、掠れた声で、僕の名を呼んだ。
彼が吐き出したその声に、僕はほとんど落雷に打たれたように、十年前を思い出していた。幼い彼女の傍に立っていた若い従者。彼の正体に思い当たった瞬間、鮮烈に脳裏を過ぎるものがあった。爪先から頭のてっぺんまで、粟立ったような感覚に襲われるのは、どこかで違和感を感じ取っていたからなのかもしれない。
鷲獅子戦の折から。
門番は僕の動揺を拾うことをしない。
「ああ、お知り合いですか? 良かった。こちらの方が、ヒルシュクラッセのさんに火急の用があるそうで」
彼はアレキサンドル家の従者だ。
「あの」
勇気を出して口を開きかけたその瞬間、玄関ホール側の大広間の扉が激しい音を立てて開かれた。その付近に居た誰かの小さな悲鳴を飲み込むように、その人は私の名前を叫ぶ。現実に引き戻される。、と。「私と女神の塔に」その言葉は、もう二度と口にできない。
クロードは良くない、そう思う一方で、それが僕の利己的な感情によるものでないとは言い切れないと気づいてしまう。クロードが非凡な男であることを僕は既に認めているし、癪ではあるが、卒業後のクロードの行動如何によっては、僕は彼に従う気でいる。レスター諸侯同盟の盟主としての資質が彼にあることは、最早疑いようがないと僕は既に認めているから。
お前の方があの子を幸せにしてやれると思うよ。シルヴァンの言葉を手の平に置いたまま、だからこそ、僕はそれをどうしたらいいのか分からないでいるのだった。
だから思うのだ。彼が彼女を愛してくれていれば良かった。心から。
大広間の扉を開け、彼女の名前を叫んだ瞬間、人々の無遠慮な視線が突き刺さった。その奥で、手を取り合って踊っていたらしいとクロードが、ほとんど同時に僕に振り向く。ああ、良かった、君が無事に踊りきることが出来て。こんな時に場違いなことを考えてしまう僕も、動揺を殺せていなかったのだろうな。
の見開かれた眼球は、こんな時でも美しい。