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私の意識はすっかりローレンツくんと名前も知らない女の子に向けられていたから、クロードくんに顔を覗き込まれるまで、私は彼の存在には気が付かなかった。
「よう、」
「ぶえっ」
丁度飲み物を飲み込んだ瞬間で助かった。もう少し声をかけられるのが早かったら、私は口に含んでいたそれを吹き出してしまっていたかもしれない。それでも変に咳き込んでしまい苦しくて、緩く背を丸めながら胸に手を当てて呼吸を整えていると、何とか顔をあげた私にクロードくんは何だか楽しそうに目を細めていたから、本当に困ってしまった。
「一人か。珍しいな」
「そ、そんなこともないですよ?」
そう言いながら、目線を彷徨わせる。
クロードくんこそ私の想像に反して一人で、女の子に囲まれたりもしていなかった。むしろ舞踊を申し込むための輪ができてしまっていたのはディミトリくんの方だ。彼が移動する度にその塊が大きく膨らんでいるのが分かる。
次は私と踊っていただけませんか、そんな声が絶えず聞こえるけれど、遠目から見てもディミトリくんは明らかに困惑していた。顔色もあまり良くないようだし、もしかしたら具合も良くないのかもしれない。そりゃあ、あんな風に人口密度の極端に高いところで女の子に囲まれていたら、具合も悪くなるだろうな。他人事のようにそんなことを考えて、壁を背にして立っていた私の隣にまるで長話でもするつもりであるかのように並んで立ったクロードくんの存在を、あまり意識しないように心掛ける。視界の端に映った級長を象徴する外套が私の緊張感を増幅させるから、そんなのどうしたって無理な話なのだけど。
「いや〜、王子様はすごいねえ。あやかりたいもんだ」
「そうだねえ、ディミトリくん、やっぱりかっこいいから、皆踊りたくなっちゃうよねえ……」
「あ〜。。それだとどうも俺がかっこよくない、ってことになっちまうが……」
「あ、いや、いやいや、そういう意味じゃないよ!」
彼は私の言葉に、わは、と人好きのする笑みを浮かべて見せた。クロードくんもかっこいいよ、なんて、うっかり吐き出してしまう所だった本音をどうにか飲み込んで、ぐう、と目を閉じる。
でも、もしもクロードくんがあんな状況になっていたら、私はやっぱり彼を舞踊に誘うことを諦めてしまっていただろう。こうして彼が一人で私の前に現れてくれたことは、だから、奇跡のようだ。だけど、同時に逃げ場がないことを知ってしまう。これはきっと最初で最後の好機だ。一度ここで彼と離れたら、間違いなく二度目はない。その時彼が一人であるとも限らないし、そうしたら私はそこに割って入る勇気なんかないのだから。でも、じゃあ一体どうしたら良いんだろう。
踊りの練習にばかり意識を割いていた私は、舞踊さえ人並みに踊れてしまえば舞踏会で彼と踊れるものだと思っていた。もしかしたらそうやって突き進むことで、最終的に直面するであろう問題から目を逸らしていたのかもしれない。どんなに踊れるようになったって、誘えなければ意味がない。唸りそうになったとき、クロードくんは小さな声で、しかしはっきりと呟いた。
「皆、楽しそうだな」
「え?」
「ちょっとお堅い場だけどさ、こういうのもアリだよな。俺としてはもっとこう、好き勝手に踊る方が好きなんだが……」
知ってたか? 西方のブリギットの舞踊はそんな感じらしいぜ、自由で良いよな。と続けるから、私の知識にない話題に感心しながらも、ブリギットからの留学生であるペトラちゃんとそんな話をしたのかな、と薄ら考える。
アッシュくんとカスパルくんもそうだけど、一年近くの共同生活で、私たちはそうやってそれまで接点のなかった人たちとも関係を築いている。十代、二十代の時期に、国境を越えて、身分や立場の違う人間と触れ合えるっていうのは、それだけですごいことだ。貴族としての見分を広められる時期。ローレンツくんはこの一年をそう表現するけれど、まさにその通りだった。
ガルグ=マク士官学校は、厳密に入学時の年齢が定められているわけではない。私がもしも今年の入学を先延ばしにしていたら、クロードくんやヒルダちゃんと親しくなることもなく、レオニーちゃんやイグナーツくんたちの存在も知ることがないままだったはずだ。イングリットちゃんやアッシュくん、ドロテアさんとも会えず、ローレンツくんとだって疎遠のままだっただろう。なのに、私は今こうして、こんな風に友人を作っている。それって何だか、奇跡的なことであるように思えるのだ。
視線を何気なく大広間の中央に戻せば、さっきまでアネットちゃんと踊っていたはずのベレト先生は、今度はフレンちゃんに手を握られていた。「あーあー、先生も大変だ」と他人事のようにぼやくから、私はつい笑ってしまう。少しだけ、さっきまでの緊張が解けているような気がした。
「でも、まさか真っ先にベレト先生と踊るのがクロードくんだなんて思わなかった」
「なんだ、見てたのか?」
「見てたも何も、すごく目立ってたよ。おかげで場が和んだの、良くわかった」
「はは、そいつは良かった。……まあ、そんなつもりで誘ったわけでもなかったんだがな」
「え?」
「いや、こっちの話だ」
残った飲み物を口に含んだ瞬間にクロードくんが口走った低い言葉を聞き取れずに首を傾げるも、彼は曖昧に笑うから、私はすっかり丸め込まれてしまう。勿論、そういう自覚は私にはなかったわけだけど。
しかし、やっぱりこの飲み物は塩辛い。果物を絞ったわけでもなさそうだし、この正体は一体何なのだろう。ファーガスかアドラステアの特産品か何かだろうか。なるべく息を止めて飲み干したとき、クロードくんは不意に「そういえば」と切り出した。
「はもう誰かと踊ったのか?」
「へっ?」
「折角の舞踏会だ。いつまでも壁の花、ってわけにいかないだろ。そうだ。ローレンツとは踊らないのか? そういや見かけないが……」
「い、いや、ローレンツくんは女の子と一緒にそこに……あ、あれ、いない……?」
さっきまで確かに彼がいた場所に、既にその姿はなかった。勿論あの女の子も。私はすっかり狼狽してしまうけれど、状況的に考えて、きっと二人は踊りに行ってしまったのだろう。大勢の生徒が舞踊を楽しんでいる中、その姿を捜しだすことは困難を極めたけれど。それに心細く感じてしまったのは何故か。そもそも私は、クロードくんを踊りに誘う勇気を分けてもらいたくてローレンツくんを捜していたのだ。そのローレンツくんが居ないのならば、私はもう自力で勇気を振り絞るしかない。私の中のものをかき集めて作った、なけなしの、かすかすの勇気だ。
空になった杯を白い食卓布のかけられた丸机の上に置いて、それから一度深呼吸する。「あ、あの」今だ、今しかない、そう思っているのに、隣に立っているはずのクロードくんの方を見る勇気もない。腕も足も、身体中が震えて、立っていられないような心地になった。ざわめきも、音楽も、今は酷く遠い。呼吸音と脈だけがはっきりと耳にこびり付いて、眩暈がした。胸の間を汗が伝って、首の後ろも熱い。「クロードくん」言いかけた声は、けれどクロードくんの吐いた息によってかき消された。
「じゃあ折角だ」
私は自分の前に差し出されたその手の平を、きっと、一生忘れられないと思う。
「ローレンツには悪いが、先に俺と一曲どうだ?」
その時のクロードくんの、悪戯っぽく細められた瞳を、私は春にも見た。良い結婚相手を見つけられたらと思っているんだけど、そう言った私に「選り取り見取りだな」と彼が笑った、あの日を私は今でも覚えている。焦げ付くような痛みがあった。その痛みの正体を知らなかった。もう充分だと思えたら傷つかずに済んだのだろうか。この人の一番になんかなれる気がしないと思った大樹の節、どうして私はあれから退化してしまったのだろう。
差し出された手に自分のそれを重ねれば、いっそ笑えるほどに私の手は震えていた。その震えをクロードくんは飲み込むみたいに包み込む。あ、全然、手の大きさが違う。がさがさした、マメだらけの手だ。ヒルダちゃんともローレンツくんとも、ドロテアさんとも違う、知らない手。一瞬怖気づいた私を、彼は笑った。
「何も、取って食いやしないさ」
ほら、行こうと。
まるで導くように私の手を引くその人の背を、網膜に焼き付けるように見つめる。生徒をかき分けると言うよりも、クロードくんの進む先が勝手に開けていくようですらあった。繋がれた手だけが酷く熱くて、自分がどこにいるのか分からなくなる。顔をあげれば、目の前が白む。動悸だけが、自分が今本当にここに存在していることを教えてくれていた。
褐色の肌が、柔らかな暗い色の毛が、振り向いたときの瞳が、彼を形作るなにもかもが、ただ私の息の根を止めるようで、だから、夢じゃないんだと思う。舞踊は苦手だったけれど、頑張りたかった。クロードくんの隣で胸を張って踊りたかった。それが、本当に叶うのだ。
なのに、どうして実感が湧かないのだろう。目の前に今、彼はいるのに。
つい口の端から漏れてしまったため息に、思わず唇をかみしめる。
舞踏会の会場となっている大広間は元々広く、天井も高いが、あれだけの数の生徒が集まれば空気も悪くなる。しかし雑踏から離れ人心地ついた後、外の空気を深く吸えば、何故だか存外寒々しい気持ちになった。大聖堂と他の施設を繋ぐ橋は、今は信者の姿もなくひっそりと静まっている。
吐いた息が白い。ガルグ=マクは標高が高い分、グロスタールよりは冷える。途方に暮れたような気持ちになってしまうのは、先ほどのことが尾を引いているせいなのか、もしくは直前に見かけた光景が脳にこびり付いてしまったせいであるのかは定かではない、そう言うことにさせてほしい。
女生徒からの苦情が減っていると指摘されたのはいつのことだったか、全く無自覚で不本意な話ではあるが、以前までの僕はどうも女性に迷惑をかけるような声のかけ方をしてしまっていたらしかった。それに対する苦情が減少しているということはつまり、僕がそれなりの接し方を心得たということか、或いはそもそも女性に声をかけることがなくなったか、ということになるわけだ。そして、その答えを知っているのは他でもない僕自身だろう。最近の僕は、特に鷲獅子戦が終わってからの話であるけれど、女性には声をかけていない。
僕が周囲に諸々の感情を撒くのをやめた結果、妙な現象が起きていた。女性の方から僕に声をかけてくることが増えたのだ。今日もがドロテアさんに浚われるように連れて行かれてから実に数名の女生徒から誘いを受けたが、不思議なものだ。追えば逃げるのに、追わねばこちらが追われる立場に変わる。まあ、そもそもこのローレンツ=ヘルマン=グロスタールの魅力が成せる技であることに間違いはない、が、成程、やんわりと断ってもそれが通じない相手というのは厄介だ。過去の僕があそこまで強引だったとは思いたくないが、苦情まで来ていたということは、認めたくはないが、そういうことなのだろう。
「今日は調子が悪くてね。申し訳ないが、グロスタールの嫡男として完璧な舞踊が出来ないのは恥なんだ。卒業後、またこういった舞踏会で出会うことがあれば、次は僕からお相手をお願いしても良いだろうか」
半分は嘘ではなかったが、だからと言って全く心が痛まないわけではない。とは言え、精神的に落ち着かない状態で舞踊の相手を務めることなど失礼極まりないし、そもそも上手く先導できる気もしなかった。
食い下がった女生徒も、最後には納得し引き下がってくれた。ようやく一人になれたことに安堵し、の姿を捜した時、だけど僕はそこから目を逸らしたのだ。
彼女はクロードと一緒に居たから。
クロードの顔を見上げていた彼女の表情はどこか緊張で強張っていて、それでもその頬は薄く色づき上気していた。思えば春から彼女はああしてクロードを見ていたのだった。
覚悟なんてとうにしていたはずなのに、やっぱり、目の前であの二人を見るのは堪えるな。
はあ、とため息を吐いた時、橋に背を預けたまま空を見上げる僕の前を、二人組の男女が大聖堂の方に向かって歩いて行った。気まずそうに目を逸らされたから、一瞬考え込んでしまうが、ああ、そうだとぼんやり思い出す。星辰の節の夜、女神の塔で男女が何か願い事をすれば、天上におわす女神様がそれを叶えてくださる、と言う噂があったのだ。女性はそう言うのが好きだろうし、分からないでもないが。
クロードとが女神の塔で何かを願う姿を一瞬想像しかけて、緩く頭を振った。願掛けの類を嫌うあの男が殊勝に祈る姿が、僕には想像できなかった。