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ちゃんの一番をもらえて嬉しかったわ。どうもありがとう」



 別れ際、手の甲にではあったけれどドロテアさんに口づけられるとは思わず、その唇がちゅ、と音をたてて皮膚に落とされた瞬間「ひゃあ〜」と妙な声音を出してしまったことは反省点ではあった。とはいうものの、目立った失態もなく何とか踊れたことには安堵している。まだしっとりとした感触の残る手の甲を包み込むように抱きしめながら、ローレンツくんかヒルダちゃん、いずれかの姿を捜し歩く。緩やかな音楽は今も尚途切れることなく流れていて、自分の視線を煌びやかな中央に向ければ、つい先ほどまで自分があの中で踊っていたことが信じられないことのように思えた。まだ、身体の内側が脈打っているのが分かる。
 ドロテアさんは私のたどたどしい舞踊を笑ったりしなかったし、びっくりするくらいに優しく導いてくれた。あまりの踊りやすさに、ついおしゃべりに夢中になってしまったけれど、そんな中で、一度つんのめった以外は失敗らしい失敗をしなくて良かった。安堵の息を吐きながら、もしかしたらドロテアさんは私の緊張を見抜いていて、それを解すためにああしてたくさん、お話に付き合ってくれたのかな、と考える。本当に良く気の付く、優しい人だから。



「えー? そうなんだー?」



 不意に聞き覚えのある声が耳に入って、顔をあげる。ヒルダちゃんだ。名前を呼びかけたけれど、数人の男子学生に囲まれていて近づけなかった。ヒルダちゃんとは今朝、「とうとう今日だねー! 応援してるからねー!」と手を握られて以降話が出来ていないけれど、彼女の周囲の人だかりを見るに、今晩はもう二人でお話するのは難しいかもしれない。遠くから「人前でもきちんと踊れたよ……ありがとう……」と手を合わせ、私は再び歩き出した。
 ローレンツくんはどこに行ったんだろう。まださっきの場所に居るのかと思ったけれど、既に姿はなかった。彼ももう誰かと踊っているかもしれない。先ほどよりも随分と賑わっている大広間の中央は、見知った生徒も多かった。隙のない仕草で女生徒の手を取るフェルディナントくんに、のんびりした動きに見えるのに、きちんと拍に合っている踊りを見せるメルセデスさん。小柄な体躯でくるくると踊っているフレンちゃんは、今日ばかりは男子と触れ合うことを許されているのかもしれない。すぐ傍でセテス様がものすごい形相で彼女と踊る男子学生を見つめていらしたけれど。
 その奥で、ベレト先生が踊っている姿が見えた。相手がクロードくんではなくなっていたから、一度外した視線をもう一度向けてしまう。あれはルーヴェンクラッセのアネットちゃんだ。満面の笑みでベレト先生の手を取る彼女に、先生も穏やかに微笑んでいる。大樹の節からは考えられない表情に、こんなときなのに、時の流れを感じてしまった。



「わあ、ちょっと二人とも、料理は流し込まないでください!」



 歓談を楽しむ生徒でごった返した壁際、周囲を気にせず食べることに熱中するラファエルくんとカスパルくんの隣に、二人を止めようとしているアッシュくんの姿を見つけた。その足元には何か大きな塊があって、一瞬目を奪われてしまったけれど、あれはリンハルトくんだ。読んでいた書物を閉じ、立ちあがろうとしかけたところを目敏く見つけたカスパルくんに止められている。アドラステア帝国の有力貴族である彼らと踊りたい女子生徒は大勢いるだろうに、二人は全く周囲を意識してはいないようだ。



「おいおい、どこに行くんだよリンハルト」

「ここ、やっぱり煩いし部屋で寝る。どうせ踊らないならどこにいたって一緒でしょ……」

「踊らなくても飯は食えるだろ! 食うことも身体づくりの一環だぞ、リンハルト!」

「頼むから口に入れたものを飲み込んでから喋ってくれないかなあ」

「そうですよカスパル。それからきちんと噛んで……」



 カスパルくんに注意をしようとしたアッシュくんと、カスパルくん越しに目が合った瞬間、彼は分かりやすく「あ」と言った。緩く微笑まれて、私もほっとしたような気持ちになる。



、こんばんは」

「こんばんは、アッシュくん」



 ちらりと私に目線をくれたカスパルくんとリンハルトくんに、小さく会釈をする。以前会話をしたことを忘れているのかそうでないのか定かではないけれど、リンハルトくんは私に薄く目を細めた後、興味を失ったように壁に背を預け、一度は閉じた本を開いてしまった。相変わらず興味がない人間に対しては、分かりやすく素っ気ない人だ。一方でカスパルくんは口の中に入っていたものをきちんと咀嚼して飲み込んだ後、私に向き直る。



「えーと、どっかで見たな、あんた、ヒルシュクラッセのやつだろ」

「はい、ヒルシュクラッセのと言います」

「そうそう、。オレはカスパル。よろしくな」



 差し出された手に戸惑いつつも手を出せば、思いの外力強く握られて「うっ」と声が漏れてしまった。周囲のざわめきにかき消された私の悲鳴にカスパルくんは気が付かず、「あと、です、とかます、とかいらねえからさ!」とさらに力を込められてしまい、骨が軋む。
 その時「カスパルくん! 追加の肉だぞぉ!」とラファエルくんが叫んだことで、カスパルくんの意識はそちらに戻された。「うおお! まだまだ食うぞ!」と張り切っているけれど、ラファエルくんと違って小柄な彼の、一体どこにそんなに食べ物が入るのだろう。解放された手を自分の身体に引き寄せ抱きしめる私に「カスパルがすみません」とアッシュくんが遠慮がちに笑った。学級も違うし、得意とする武器も違う二人は接点がないように思えるけれど、意外と仲がいいらしい。



「ところでは誰かを捜しているんですか?」

「あ、うん、ローレンツくんを捜してるんだけど……」

「ローレンツ……」



 さっきどこかで見たような、と呟きながら視線を彷徨わせるアッシュくんは、やがて思い出したようにぱっと目を見開く。「ああ、そうだ、向こうの机の方にいましたよ。飲み物を飲んでいたと思います」反対側の壁を指差されてしまったことで何となく躊躇の気持ちが芽生えてしまったけれど、大体の居場所が分かれば捜しだすことも難しくはないだろう。私はアッシュくんにお礼を言ってその場を後にした。








「あれ、誘わなくて良かったの?」



 の後ろ姿を見送る僕の背に、ほとんど逡巡なくそう声をかけられてしまい、流石に言葉につまる。誘うって、何がですか? そうとぼけられれば楽だけど、きっと彼にそういう誤魔化しは通用しないだろう。カスパルほどには親しくはないけれど、リンハルトがそういう、他人に興味のない人間でありながらもその感情の機微に関しては敏感であることくらいは分かるから。彼に決して踏み込む気がないだけで。
 壁に背を預けたまま、それでも目線は書物から僕に向けてくれているリンハルトの横に立つ。そうしていると、丁度食事に夢中になっているカスパルやラファエルの姿が視界の端に入った。いつもと変わらない二人の様子に、僕はほっとしてしまう。だからだろう。濁すつもりだった本音を吐露してしまったのは。



「……あはは、そうですね。こういう時、普通に誘えるくらいに僕にも勇気があればいいんでしょうけど」

「舞踊の誘いくらいで怖気づくような人間には見えないけどなあ」

「そうですか? ……でも彼女、人を捜しているようでしたし」

「ふーん。そうなんだ」



 言いながら、ふわ、と欠伸を噛み殺したリンハルトは、興味を失ったように再び書物に目線を落とし、頁を捲る。僕には到底理解しえない紋章学の小難しい理論の並んだそれは、一目見ただけで脳が拒否してしまうのに、今はそこから目を離すことの方が億劫であるように思えた。
 ローレンツの名前がその口から出なかったら、僕は彼女に「一緒に踊ってもらえませんか」と言葉にすることができたのだろうか。は優しいから、きっと断るようなことはしないだろう。でも、それが分かっていても尚僕はそれを口にする勇気を持たなかったんじゃないかな、と考える。
 書物から目線をあげれば、の姿は、とうに雑踏に飲み込まれて消えていた。








 いくら踊っている生徒が増え始めたと言っても、やっぱりそうでない生徒の方が圧倒的に多い。おしゃべりをしている人たちの邪魔にならないように注意しながら移動するのは困難を極めた。足を踏んでしまいかねなかったし、飲み物を持っている生徒の傍を通るときは殊更に緊張してしまう。ぶつかってしまえば謝って、顔見知りの生徒がいれば会釈をして、声をかけられれば挨拶を返して、だけどそうしながらも私はローレンツくんを捜していた。
 それはほとんど、庇護してもらうためと言っても良かったのかもしれない。私はこの大広間でドロテアさんと踊ったとは言え、まだ勇気がなかった。自信は、どうだろう、勿論壁際に立っているだけの時よりは緊張は解れたし、傍に他の生徒がいようと、きちんとした音楽が流れていようと、普段と変わらずに踊れたと思う。それはドロテアさんのおかげであることを前提として、だけれど。
 だからこそ、私はやっぱり一番の目的のクロードくんと踊ることに関しては、まだ覚悟が出来ていない。自分から誘わなくちゃ、そう思っているのに、考えるだけで緊張で吐きそうになってくる。お昼から何も食べていないから、吐くものなんてほとんどないはずなのに。
 ローレンツくんに、背中を押してもらいたい。甘ったれでどうしようもないとは分かっているけれど。最後の思い出を、そうでなくちゃ作れる気がしなかった。



「あ」



 アッシュくんが教えてくれた場所に、果たして彼は立っていた。他の人よりも背が高いから、遠くからでもそこにいることくらいは分かるのだ。「ローレンツくん」と声をあげかけて、飲み込む。彼はその視線を下に落としていた。俯いているのか、というと、そういうわけでもない。その目線が、僅かな口元の動きが、変化する表情が、彼が誰かと話をしていることを私に伝えてくれる。ちょうど人の切れ目がなく、それ以上は今すぐには近づけなかったから、背伸びをしてみた。見覚えのない女子生徒の後ろ姿がそこにあって、私は思わず口元を抑えてしまう。
 舞踊に誘っているのか、誘われているのか、ちょっと良く分からない。いや、そもそもただ話をしているだけかもしれない。さっきの私と、アッシュくんやカスパルくんと同じように。でも彼がこの舞踏会と言う場で女の子と言葉を交わしていると言う事実に、存外動揺している自分に気が付いた。幼馴染の恋愛事情を垣間見ていることに、何となく落ち着かない気持ちになっているらしい。
 どう、どうしよう。
 動くに動けず、傍にあった丸机から飲み物を手に取った。口内の渇きを潤すために口に含めば、それは思った以上に塩辛く、舌が痺れる。ぐ、と目を見開きながら、ローレンツくんの、丸い頭蓋を見つめた。ごくりと飲み込んだこの飲み物を飲みきる前に、クロードくんに声をかけられることになるとは夢にも思わないまま。


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