■ ■ ■
「か、からま、ってるよね?」
「待ちたまえ、無理に動かない方が良い」
「う、首、や、やば、きつ」
「少し耐えてくれ……多少なら俯いてもらっても」
言いながらローレンツくんは、胸元の釦に絡まった私の髪の毛を解く作業に集中している。どうして、なんでよりによって今こんな偶然が起こるんだろう。主よ。私が一体何をしたっていうんですか。そんな風に自分の身に起きた不運を嘆いても、ローレンツくんの上着に絡まった髪が奇跡的にするりと解ける様子はない。
一体どうなってしまっているのか、一束の髪の毛が釦に絡まるなんて、よっぽど私は剛毛なのか、「き、きれいに梳いてきたんですよ、これでも」言い訳のように訴えながら、私はローレンツくんの言葉通り僅かに俯く。そうしていると、自分の髪が彼の指によって慎重に弄られているのが良くわかった。仕方ないとはいえ、ほとんどローレンツくんの身体に寄り添う形になってしまっているから、彼の心音が良く聴こえる。とく、とく、と正常な速さで音をたてる心臓に、この状況に緊張しているのは自分だけなのだと余計に恥じ入ってしまう。
部屋の外の廊下で、舞踏会の会場になる大広間へ向かう生徒の声が聞こえた。「いやあ、楽しみですねえ殿下。可愛い女の子と踊り放題ですよ。ええ? 誰も誘っていない? マジですかあんた……」なんて言葉でそれが誰なのかを察することはできたけれど、今はそれどころではない。
「今日も腹いっぺぇ御馳走が食えるんだよなぁ、楽しみだなぁ!」
ラファエルくんの声が、寮の外から届いた。窓の外の学生の気配も濃く、早くこの状況から抜け出さなければならないことを自覚させるのに、その焦りとは正反対に髪が解放される様子はない。どれくらいそうしていたか、ローレンツくんは小さくため息を吐くと、「埒が明かないな」と低く掠れた声で呟いた。
「失礼」
「ヒッ」
ローレンツくんも焦ってはいたのだろう。突然私の身体を抱きかかえた彼は、大きく机の方に踏み出す。確かに合理的だ。釦に髪を絡ませた私と歩幅を揃えてちまちま移動するよりも、抱きかかえてしまえば一歩で済む。髪の毛が引っ張られる心配も千切れることもない。ただただ私の心臓に悪いだけで。
宙に浮いたのは一瞬だったけれど、ローレンツくんは床に足をつけても尚動揺している私を気にも留めず、机の引き出しから何かを取り出した。丁度机の方に背を向ける形で動きを制限されていた私には、彼が一体何をしようとしているのかが分からない。ただ、彼の肉付きの悪い身体を凝視していた。左腕が私の頭上で何かを固定している。何をするとも言わぬまま、ジョキ、と音がして、その瞬間私は彼が手にしていたものが鋏か何かの類であったこと、そして、自分の髪が既に解放されたことを知る。
あ、切ったんだ。
もう何もかも終わった後だったのに、どうしても、強張った身体が動かない。
責めるつもりは勿論ない。彼が見て、切らざるを得ない状況だったならきっとそうするしかなかったのだから。
「もう少しこのまま待っていてくれ」
「え? は、はい」
絡まった部分の髪を切ったなら、もう待つ必要はないはずだけど、何となくすかすかになってしまった胸の内側を埋めるようにそんなことを考える。不自然にならないように整えてくれているのだろうか、だけど、それにしてはなんだか頭の上でまだ何かを弄られているような気配がある。
その感覚が突然消えたのと、ローレンツくんが安堵の滲んだため息を吐きだしたのはほとんど同時だった。
「取れた」
「あ、ありが」
そう言って彼が私に見せたものに、息が詰まった。
制服の上着の釦、そのうちの一つがその手にある。彼の大きな手の上に転がったそれは、つい先ほどまで確かに彼の胸元にあったものだ。「え」理解が追い付かないせいで、それ以上の言葉が出てこない。目線を動かせば、実際にローレンツくんの右胸の釦が一つなくなってしまっている。糸が飛び出たその部分は元々左右対称であるが故に不格好で、不自然だった。
「あ、あれ?」
自分の髪に触れる。触れた毛先は他に比べれば多少は傷んだようになっていたものの、長さは変わらない。だから、内臓がすっと冷えたような心地になったのだ。彼が切ったのは私の髪じゃない。
「え? 髪、なんで切らなかったの?」
「君はおかしなことを言うな。僕がそんなことをするとでも?」
「な、なんで? ぼ、釦の糸、切っちゃったらだめだよ」
「簡単に解けなかった以上、釦の糸を切るのが道理だ。の髪を切る方がおかしいだろう」
それに、僕が舞踊に集中していた君に声をかけたのがそもそもの原因なのだから。釦の存在を確かめるように手の平を緩く握りしめながら、ローレンツくんは続ける。
「でも、そんな恰好じゃローレンツくんの方が、舞踏会に」
「ああ、まあ構わないさ」
「構わなくないでしょ? わ、わたし、縫うよ、上着脱いで」
「だがもう時間だぞ。寮にはもう僕らしかいまい」
「それでもだよ!」
「……その髪を整える方に時間を費やすべきだ」
「私の髪なんかいいから、早く」
「よくは」
「いいの!」
私の気迫に圧されたのか、ローレンツくんは眉根を寄せる。彼の言う通り、時間は確かにない。寮の他の部屋にも、外にも、学生の気配は既になく、陽だって傾いている。
「一緒にきて!」
でも、それでも私は、今日の舞踏会にローレンツくんがいないなんて嫌だ。折角踊れるようになった。転んで、罵られて、衣装を汚して、ずっと逃げ続けてきたあの私が、ローレンツくんとヒルダちゃんのおかげで今では人並みに踊ることができるのだ。
自分勝手な願いだけど、どうか、最後まで見ていてほしいと思う。この星辰の節の集大成は、あなたにこそ見せたいのだ。ローレンツくんはすごいんだよって、私は自分の踊りでもって伝えたい。
ローレンツくんの手首を掴んだまま、彼の部屋を飛び出した。廊下には予想通り人っ子一人いやしなくて、焦りは加速する。廊下の途中にある数段の階段を飛び降りて、奥から三番目の自分の部屋に飛び込む。裁縫道具は机の引き出しの中に入っていたけど、自分で繕い物をすることなんて滅多になかったから、それを取り出しながらも実を言うと上手く出来るか不安だった。ローレンツくんに上着を脱いでもらって、釦を預かる。針に糸を通すのにいつもだったら数倍は時間がかかるところが、奇跡が起きて一発で通った。この感動を伝えたいけれど、そんな時間もありはしない。
「……裁縫などできたのか」
「でき…………るかと言われると、まあ、できないけど……」
「……」
でも、とりあえず留まれば良いんでしょう、と口にするも返答がない。兎にも角にも応急処置だ。釦の無いまま舞踏会に出るよりもよっぽどいい、とは思うんだけど、ローレンツくんの顔を窺う暇もないからもしかしたらこれは完全な、厚意の押し付けなのかもしれない。つまり、有難迷惑ってやつだ。
流石ガルグ=マク士官学校の制服は地厚で、針が通りにくい。そもそもこの裏地ごと釦を縫いつけるというやり方は恐らく正しくはないのだろう。後でため息を吐かれてしまうかもしれない。余計なことをしてしまっているのだろうか。徐々に冷静になり始めたとき、左手の親指を針が掠めて薄皮が剥げた。びくりと手を引けば、ローレンツくんが「刺したのか」と身を乗り出すから、私は慌てて首を振る。舌でなぞった指の腹は、僅かに皮膚が裂けただけだ。
既に生徒が出払っているせいか、寮はあまりにも静かで、そうして口を噤んでいるとまるで私たちだけが世界中から切り取られてしまったかのように思えてくる。恐ろしいと言うよりも、それはどこか不思議な感覚だった。舞踏会の行われる大広間はここからでは距離がある。だけど耳を澄ませば生徒たちの歓声やざわめきが、遠く、微かに聞こえた。
「……もう舞踏会が始まるな」
「うん」
「、出来ないならばもう無理はしなくてもいい。確かに上着がその状態では舞踏会に参加することはできないが……。昨日レオニーさんにも言ったがね、僕は別に、舞踏会には特に拘っていないんだよ」
「……うん」
「……誰かを誘っているわけでもないし、踊りたい相手だって……」
「…………うーん?」
「……君、聞いていないだろう」
何となく釦が固定されたような気配があったから、こんなものだろうかとローレンツくんの上着を持ち上げてみる。厳密に言えばそりゃあ左右対称には成り得ないだろうから許してもらうとして、それでもまあ、パッと見ではおかしくなさそうだし、許容範囲じゃないだろうか。
「……こんなんでいいと思う?」
自分の胸に上着を当てて、立っているローレンツくんを見上げれば、彼は何か言いたげに眉根を寄せた後、長いため息を吐きだした。やっぱり下手くそだっただろうか。不安になるも、私が何か口にするよりも早く発せられた「上出来だよ」の言葉に、私はつい破顔してしまう。同じ台詞を、鷲獅子戦のときにもクロードくんに言われたな。だけど、あの時とは随分その温度が違って聞こえた。その理由が分からない。
最後に糸を切って、結んで、固定する。立ち上がってローレンツくんに上着を手渡せば、彼はそれに腕を通すよりも先に私の顔をじっと見つめた。
何を言われるのかと首を傾げるけれど、ローレンツくんは何も言葉を発しようとしない。どれくらいそうしていたか、彼はその瞳を細めて、気のせいかと思うほどに微かに微笑んだ。それが泣き出す寸前のように見えたのは、きっと私の気のせいだ。