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 舞踏会当日になって、は分かりやすく緊張していた。
 厳密に言えば、その日になって突然という話ではない。練習中に限らずその手足の動作における硬さは三日前から始まり、二日前、前夜祭、そして今日、と徐々に悪化の一途を辿っている。先週ドロテアさんに誘いを受けたと言っていたときはあれだけ柔らかな表情をしていたというのに、今の眉は分かりやすく垂れ下がり、目線は忙しなく動き回っていた。
 不安があるならば打ち明けてくれればいいものを、彼女はどうも僕に対してはその内心を隠すところがあるようだ。見合いの話や、前節に至ってはルーヴェンクラッセに引き抜かれる話も出ていたらしいが、これらは全て後にクロードから聞いたことで、要するに、僕はそれらを彼女本人の口から聞いてはいない。前向きに捉えるとすれば、信頼されていない、のではなく、遠慮されていると表現すべきなのかもしれないけれど。しかしそれにしたって、引き抜きの話に関しては寝耳に水だった。
 彼女がそう言うことを僕に打ち明けない理由に心当たりがないわけではない。翠雨の節の折、課題協力の件で相談を持ちかけてきた彼女にアレキサンドルは大勢につくだの優柔不断だのと言ってしまったせいだ。あの件については僕が悪かったと全面的に認めてはいるし、彼女にもきちんと謝罪した。それでもの心にしこりが残っているとしてもおかしな話ではない。あの時の僕の言動を思い出して、僕に相談事をすることを躊躇していると見ていいだろう。
 だが、今回ばかりは口を出しても良いはずだ。何せ舞踊に対して嫌悪の域にすら達しかけていた彼女を人並み程度に踊れるように特訓したのは、ヒルダさんであり、僕でもあるのだから。








 夕方、は僕の呼び出しに大人しく応じた。僕の部屋に神妙な面持ちでやって来た彼女はやはり、分かりやすく顔色が悪い。その緊張は手に取るように伝わって、青ざめた顔でふらふらと椅子に腰掛けた彼女に、僕は用意していた紅茶を勧めた。素直に受け取ったの手が小刻みに震えるため、茶器が微かな音を立てている。



「……背筋が曲がっているぞ」

「お、お腹が痛くて」

「昨晩食べすぎたのではないか」

「違うよお……き、緊張で……」



 だって、もう始まっちゃうんだよ、舞踏会が。そう続けたは苦々しげに目を細める。こちらから尋ねるまでもなく、心情を打ち明けてくれたことにはほっとした。
 あまりに舞踊に自信がないからと、当日は腹痛と嘯いて部屋に閉じこもる計画すら立てていたのだと教えてくれたのはヒルダさんだったが、まさか彼女の懸念材料が消失した後ですらそれが現実に成り得るとは想定してはいなかった。
 は「手があったまる……」と言いながら紅茶の入った茶器に手を添えて小さくため息を吐いた。元々色の白い肌はいっそ不健康にすら見えるから、どうにか気を楽にしてやりたいところではあるが、如何せんこればかりは難しい。下手な発言をすれば余計に縮こまらせそうだし、逆に調子に乗せすぎても困る。人並みに踊れるようになったとはいえ、まだにはムラがあった。勢い余って他の男女に足をぶつけないか、それが心配だ。



「……それで、ドロテアさん以外の誰かには誘われたのか?」

「はい?」

「舞踏会だよ。もう既に声をかけられていてもおかしな話ではあるまい」



 事実、昨晩の前夜祭でヒルダさんは早々にアドラークラッセの生徒に声をかけられていた。一応は断らないのが礼儀であるとは言え、それも本人の強固な意志があれば別の話だ。断る自由も残されている以上、誘う側にも多少の緊張はあるだろう。とは言えヒルダさんは出来た御令嬢だから、断ることをしない。微笑んで快諾する姿を「わー! すごいねえヒルダちゃん、お誘い受けてるよ……!」なんてマリアンヌさんに耳打ちしながら、羨望の眼差しで見つめていた彼女だって、僕の知らないところで誰かに声をかけられていてもおかしくはない話なのだが。
 しかしは僕の問いかけに慌てた様子で首を振った。



「ええ? ないない、ないよ、そんな、私だよ?」

「君だからという理由で誘われないということもないと思うが」

「そ、そうかなあ。幼馴染の欲目では?」



 欲目なものか。君は自分を卑下するが、目を引くような美しさはなくとも、可憐だ。言いかけた言葉を飲み込んだのは、それがそのまま彼女への口説き文句になりかねなかったからだ。小さく咳払いをして誤魔化す僕に気づかず、は紅茶に口をつけている。
 しかし、そうか、誰からも声をかけられていないのか。まあ、今の段階でそうだとしても、舞踏会が始まってしまえば壁の花になってばかりもいられまい。芽生えた安堵がすぐに醜く変形する様に、僕はどこか自分が居心地の悪い思いをしていることを自覚する。
 昨晩の前夜祭は他学級の生徒が入り混じった状況での立食形式で行われたが、僕は着かず離れずの傍にいた。レオニーさんには「女の子を誘いに行かなくていいのか?」と訝しがられたが、「僕にとっては毎日が好機だからね。特別な日だからと言って慌てて誘う必要もないのさ」と、それらしい言葉で誤魔化せたと思う。実際僕は、誰かに踊りの相手を願うことをしなかった。それどころではなかったのだ。僕の視界のどこかにこの幼馴染の姿を入れておくのに必死で。
 何をしているのだろう、とは思った。彼女の幼馴染という立場でしかない人間でありながら、まるで彼女の傍にいるに相応しい男を見定めるかのようにその背に立ち続ける自分は、滑稽ですらあったはずだ。の幸せを願っている。彼女を愛し、彼女を幸せにしてくれる男を、幼馴染として見極める、その義務が僕にはある。そんな言い訳を並べ立て、内省することをしなかった。心に従うならば、その手を取って、「僕と踊ってくれないか」と言うべきだったのに。彼女が誰の誘いを待っているかを知っているから、僕はそんな簡単なこともできやしない。その横顔が誰を追っているのかを知っていたから、なんて、惨めな言い訳だ。
 今からでも遅くはない。分かっているのだ。僕の誘いがあったからと言って、クロードと踊れなくなるわけではないし、むしろ舞踏会と言う場で彼女の手を取り普段通りに踊ってみせれば、きっとの緊張は解れるだろう。実に合理的だ。だが、の白い顔を見ていると、その言葉が出てこない。。何百回と呼んだ彼女の名前が、今、この喉に異物のように引っかかっている。



「あの、ローレンツくん」



 だから、がそう切り出した瞬間、僕は息すらもまともにできなかった。
 は茶器から手を離して、揃えた膝の上に両手を置く。その瞳が切羽詰っていることを何よりも理解しているのは僕だった。だから彼女の願いを無下にするなどという選択肢は端から存在しない。



「舞踏会が始まる前に、もう一回だけ練習に付き合ってもらってもいいですか……」



 君と踊るのはこれが最後になるだろう。
 そんな確信めいた思いがあったからこそ頷いたのだと言えば、君は笑うだろうけれど。 








 ローレンツくんは、結局ドロテアさんから誘いを受けたのだろうか。「皆の前で一曲踊らなければいけないらしいの」と言ったドロテアさんの言葉を思い出して、どうしてかお腹の奥がぎゅうとなったのを感じる。緊張と、それとは関係のない別の感情が爪先から染み込んでしまったみたいに、今は落ち着かない。
 最後に練習に付き合ってほしいと頼み込んだのは私の方なのに、繋がれた手の温度に最後まで慣れなかったからこそ、そんなことを考えてしまうのだろうか。
 音楽のない、踊るには少し狭い部屋、夕陽が窓から差し込んで、足元に光の筋を作っていた。彼の囁く一から三までの数字だけが、私たちのための音楽だった。初めて彼と踊ったあの日から数日が経って、私はローレンツくんの言う通り、きっと人並み程度には踊れているのだろう。それは一節前の自分からしてみたら、信じられないことのように思えた。
 クロードくんと踊りたい。もうすぐ終わってしまう学生生活の思い出を作りたい。そんな思いで始めた特訓だったけど、私は今この一瞬一瞬すらも代えがたいものであるように感じている。
 私が目を閉じて、耳を塞いでいたものから逃げることをやめようと思った時、ローレンツくんとヒルダちゃんは傍に居てくれた。転びそうになっても支えてくれた。踊れていたと褒めてくれた。見守ってくれた。今だって、もうすぐ始まる舞踏会を前にして、彼は私に時間を割いてくれている。
 たどたどしかった舞踏にはもう迷いがない。彼の腕の動きで次に何をすればいいのかが分かる。叩き込まれた基礎のおかげだ。靴の踵が立てる音が重なる。先ほどまで冷たかった指先が、彼の手で温められていく。







 その時、不意にローレンツくんが私の名を呼んだ。
 拍を刻んでいた声が止まっても、彼はその足を止めようとしない。踊りの途中で話しかけられたことは記憶になかった。背の高いローレンツくんの顔を見るために、私は首ごと顔をあげる。その瞬間、く、と何かが引っかかる感覚がした。お腹の温度が下がった。目を見開く。ローレンツくんも私の異変に気が付いたようだった。足が止まる。嫌な痛みが頭皮に伝わった。



「いっ」



 引っ張られるような感覚に息を止める。ぶち、と何かが引き千切れるような音と痛みが同時に走った。あ、どうしよう、そう咄嗟に思ったのは、自分に何が起きたかを察してしまったからだ。
 ローレンツくんの着ていた上着の釦に、私の髪が絡まっていた。


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