■ ■ ■
「お誘いを受けちゃった……!」
「……なに?」
ねえねえローレンツくん、と、が高揚した様子で僕に声をかけてきたのは白鷺杯の翌日の教室で、一瞬何の話か分からず思考が止まってしまった。授業が始まる前の教室内はそれなりに騒がしいが、は教室の角の、目立たない場所でわざわざ声を潜めている。聞き取りづらくて少し屈めば、彼女はもう一度「お誘い!」と僕にこっそり耳打ちしてみせた。
最近のは舞踊に対する苦手意識が薄れたようだ。相変わらず節奏の感覚に乏しいものの、それでも失敗を恐れずに僕に着いてくるところは評価している。調子が出てくると崩れたり、つんのめったり、寝台や椅子に足をぶつけることはあるのが心配だが、まあ当日の彼女の気が大きくなることなど万に一つもあるまい。は基本的に、舞台が大きければ大きいほど小心の部分が現れるのだ。
しかしそのが今、頬を紅潮させて僕を見上げている。その浮かれた様子と「お誘い」という単語から想像するに、遅れながらも舞踏会のことだと気が付いた。
ガルグ=マク大修道院の落成を祝う式典でもある舞踏会は、二百年前に士官学校が創設されたことの影響も少なからずあるのだろう。今では既に形骸化しているが、国家の枠に囚われず優秀な人材を育てるという思惑を受け、学級の別なく多くの人間と踊ることを良しとしている。そのため、舞踏会では何度も同じ人間とは踊れない、と言うのが一応の原則となっていた。まあ、勿論誰に監視されているわけでも、強制されているわけでもないから、その流儀に則る必要は必ずしもないわけだが。
誘いがあれば受けるのが礼儀である以上、彼女もまたそれを断ることはしなかったのだろう。どこか嬉しそうに見えるのもその証拠だ。
舞踊が全く出来ないのだと暗い顔をしていたを思えば、この変化は喜ばしい。そう思う自分が居る一方で、どこか面白くなく感じてしまうのも事実だ。この調子でいけばは舞踏会までにそれなりに仕上がる。緊張で足がもつれるくらいはあるだろうが、そんな失態もクロードならば笑い飛ばすだろう。彼女を苛ませるものでもない。そう自分の中で整理をつけていたはずなのに、いざ彼女の口から誰かと踊るという言葉を聞いてしまっただけで、原色として吐き出された感情の色がないまぜになってしまうような感覚に陥るのだ。
情けないだけではない。貴族として、男として醜い。顔に出そうになるのを堪えながら、「ほう? 良かったじゃないか」と口にすれば、はぱっと微笑む。花が咲いたような笑みには、まだあどけなさが残っていた。
「うん、へへ、初めてお誘いしてもらえたの。目立っちゃいそうだしどうしようって思ったんだけど、ちゃんと先導してあげるからって言ってもらえて」
「……ほう、先導」
この士官学校に於いて僕より上手く踊れる男などいるはずもないが、なかなか言う相手だ。眉がぴく、と動いてしまったが、赤らめた頬を両手で押さえて俯いた彼女は僕に旋毛を見せていたので、まあ僕の表情が見えるはずもない。
しかし、相手は一体誰だ。この様子から見るにクロードではないだろう。もヒルダさんもそうとは言わないが、彼女の最終目的がクロードと踊ることで間違いない以上、目立ちそうだという理由でその誘いに躊躇するはずがないのだから。
あまり感情的に聞こえないように注意しながら「それで、どこの誰だ? を誘った男というのは」と尋ねる。ぱっと顔をあげた彼女は、ゆっくりと目を瞬かせて僕を見た。
彼女を好いてくれる相手がいるならば、それは喜ばしいことではないか。言い聞かせるようにそう思う。未だその底を見せようとしないクロードより余程健全な相手で、のことをきちんと大切に扱う人間であるならば尚更。彼女の足の傷痕ごと受け入れる器量のある男であれば僕も文句は言うまい。
「アッシュ君か? ……それともまさかとは思うが、シルヴァンではあるまいな」
思いつく名前を羅列しながら自分で苦々しい表情をしてしまっていることを自覚する。アッシュ君ならば僕も止めはしない。彼は見所のある男だし、分別も弁えもある。だがシルヴァンであるならば話は別だ。泣かされる未来は目に見えるどころかすぐそこに浮かんでいるほどなのに、そこに彼女を差し出せるほど僕はに興味がないわけでも、不幸になってほしいわけでもない。
だがは僕の言葉に三拍置き、それから「ああ〜」と間延びした声で頷いた。まるで危機感のない声音に少々苛立つも、は「違う違う」と首を振る。
「違うよローレンツくん。男の子じゃないの」
「は?」
「私のことを誘ってくれたのは、女の子なの。ドロテアさんなんだよ」
目を丸くした僕の表情に、何を勘違いしたのかは「アドラークラッセの」と付け足すから、そんなことは知っていると口にすることすら憚られた。
ドロテアさん。昨日の白鷺杯で優勝を掻っ攫った歌姫だ。
平民ながらに才能のある女性であることは今更口述するまでもないが。彼女と踊る。それでこんなに、感情を露わにして喜んでいるのか。何故だか頭が痛くなって、僕は思わず眉間を抑えた。薄目を開けた視界の先で、彼女は未だに不思議そうに目を瞬かせている。
白鷺杯優勝者のドロテアさんのお相手を務めるには技術不足だと断った私に、ドロテアさんはしかし食い下がった。
「皆の前でじゃなくて、普通に踊ってほしいって言っても駄目かしら」
要するに、白鷺杯の優勝者として披露する舞踊のときではなく、ただ舞踏会で一緒に踊ってほしいということらしい。それくらいなら喜んでと言いかけた瞬間、そういえば同性同士で踊ることに問題はないのかと一瞬頭をもたげた疑問は顔に出ていたらしく、彼女は「そんなこと気にしなくていいじゃない。ね、ちゃんと踊りたいな」と手を包むから、私は結局大した逡巡もなく頷いた。誘いを断るのは失礼になる、という思いがあったわけではなくて、単純に嬉しかったのだ。
初めて誰かに舞踏会の相手として誘われてしまった。ドロテアさんの部屋の前で彼女と別れた後、自室へと向かう足取りがやけに軽かったことには気が付いていた。ふわふわとした高揚感が、私の頭のてっぺんからつま先までをすっぽりと包んでいたのだ。
その感覚は日を跨いでも尚持続されていて、今朝教室にやって来たローレンツくんに、堪えきれず打ち明けてしまったわけだけど、ローレンツくんには眉間を抑えられてしまった。あまりにも険しい顔をしていたから、「や、やっぱり男女じゃないと駄目かなあ」と尋ねるも「別に問題はないはずだが、そうか、彼女が君に」と途切れ途切れに言葉にされる。ローレンツくんは、それからその切れ長の瞳を一度深く瞬かせた。数秒の沈黙の後に思い切ったように顔をあげた彼は、はっきりと私を見据えていた。
「君は」
だけど二の句が続くことはなく、その唇を何度か物言いたげに動かした後、彼は結局大きくため息を吐いたのだった。
星辰の節の頭から書きはじめていたお父様への手紙がようやく書き上がったのは、その日の夜だった。
お父様からのお返事がないのを良いことに、筆不精であった娘をお許しください。そんな一文から始まったそれは、書き始めてしまえば面白いほどに止まらなかったのだ。鷲獅子戦では八面六臂なんて到底言えないけれど、少しは学級の役に立てたこと。仔細は伏せたものの、ルミール村でどうにもならない不条理を味わったこと。やはりガルグ=マクは、フォドラの縮図と呼ばれるに相応しいと。
舞踊の練習をローレンツくんとヒルダちゃんに見てもらったおかげで、随分上達したのだと言うことは、念入りにしたためた。特にローレンツくんには頭が上がらないくらいに面倒を見てもらった。彼がいなければ私は自分の普段の姿勢が怪我のせいで崩れていたことも気が付かず、拇指球の場所も知らず、自分がどうして舞踊を苦手にしていたのかも忘れたままだっただろう。
お父様はきっと、かつて足の出し方も覚束なかった私がつんのめることも相手の足も踏むことなく踊れるようになっていると知ったら驚くでしょう。今すぐお見せできないのが残念です。そう記された文字すら、どこか誇らしげで、読み返しているとどうしようもなく気恥ずかしい気持ちになってしまった。
白鷺杯ではヒルダちゃんが健闘したものの、アドラークラッセのドロテアさんに敵わなかった。そういえばドロテアさんはお母様が先日観劇なさったと言うミッテルフランク歌劇団で、少し前まで歌姫として活躍していたのですよ。お母様ならば、ドロテアさんのことを知っているかもしれませんね。
もうすぐ舞踏会があります。今までの私だったら、お腹が痛いと嘯いて、部屋の扉を閉めて一晩を過ごしたでしょう。お兄様だって、そうしたって良いと言ってくれたはずです。
でも、私、少しは強くなったんですよ、お父様。お友達のおかげで。
春にアレキサンドルに戻ったら、どうか私の舞踊を見てくださいね。お父様が槍を教えてくださったように、今度は私がお父様に、お父様の苦手な舞踊をお教えいたします。
封をして、机の端に手紙を置く。明日この手紙を出してもらうように頼みに行こうと考えながら、椅子に座ったまま伸びをした。ドロテアさんやヒルダちゃんの踊りを思い出して、伸ばした腕から指先に意識を向ける。いつか私もあんな風に踊れたら良いな。高すぎる目標かもしれないけれど、逃げ回っていた時よりは、ずっと楽しい。
椅子から立ち上がる。鼻歌交じりで爪先立ちのまま回ってみたら、足の先を寝台にぶつけた。