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ヒルダちゃんとローレンツくんのおかげで何とか形になり始めた舞踊だったけれど、やっぱり白鷺杯に出るような人たちは根本から違う。
騎士団のシャミアさん、アロイスさん、それからミッテルフランク歌劇団で歌姫として活躍していたマヌエラ先生が審査員となって行われる白鷺杯は、各学級から選出された代表者が舞踊の美しさや技を競うものだ。ここ数年で定着した、歴史の浅い大会であるらしい。ヒルシュクラッセからはヒルダちゃん、ルーヴェンクラッセからは角弓の節での失踪事件以降、ベレト先生の学級に加わることになったフレンちゃん、そしてアドラークラッセからはドロテアさんが選ばれた。
「わたくし、人前で踊るなんて初めてですのよ」
白鷺杯が始まる前、興奮を抑えきれない様子でそう言っていたフレンちゃんは、貴族令嬢であるヒルダちゃんや歌劇団で脚光を浴びていたドロテアさんに劣らず堂々としていた。勿論場数を踏んでいる他の二人に比べれば、技術は劣っていたかもしれない。だけど愛らしく、くるくると舞台上を回って見せたフレンちゃんの表情はあまりにも穏やかで、柔らかかった。内側から滲み出る喜びが、少し拙い舞踊を一層魅力的に見せているように思えた。セテス様も目頭を押さえていらっしゃったけれど、決して短くはない期間、姿を消していた妹君がこうして皆の前で踊っている姿を見るのはさぞ感慨深いことだっただろう。人前でも憚らず彼女を抱きしめ讃えるセテス様に、フレンちゃんは困ったように笑っていた。
勿論、ヒルダちゃんの踊りも素晴らしかった。爪先から指の先まで、ぴたりと型にはまった舞踊は、彼女がこれまで培ってきたものだろう。ローレンツくん曰く、そこには何の過誤もなかったと言う。舞踊の手本になる者を選べと言われれば、間違いなく彼女がこの白鷺杯を制しただろう。それでも彼女やフレンちゃんが優勝という形で終えられなかったのは、彼女の存在があったからだ。
ドロテアさんはアドラークラッセの中で唯一の平民の出だと言うけれど、彼女の場合はまた特別だ。マヌエラ先生と同じくして、ドロテアさんもまたミッテルフランク歌劇団に所属していた歌姫であり、さらにその人気が今もまだ根強いことはガルグ=マクにおけるその立ち振る舞いによって明らかである。端的に言えば、彼女の周りには男性の影が絶えないのだ。勿論ドロテアさんはそれも頷けるくらいの美貌を持っているし、それを鼻にかけることもせず、ちっとも嫌みがない。
そんな彼女が他学級の私を気にかけてくれているというのは不思議な話だけど、花冠の節で共に大聖堂の掃除をして以来、私を見かければ声をかけてくれる。先日は街の外での食事にも誘ってもらえた。残念ながら、まだそれは実現してはいないけれど。
彼女の舞踊には、見る者を惹きつけてやまない華があった。それは人生のほとんどを舞台の上で過ごした彼女だからこそ持ち得た才能であり、努力の果てでもあったのだろう。しなやかな指先、瞼の伏せ方、呼吸、それらの一つ一つが既に完成されたそれであった。士官学校の制服を着ていようと、舞台用の化粧をしていなくとも、現役を退いていたとしても、彼女はどうしたってミッテルフランクと言う名門歌劇団の頂点に居た女性だったのだ。
アロイスさんから優勝者が告げられたとき、ドロテアさんは舞台用の笑みを浮かべて恭しく礼をした。最初から最後まで、彼女は圧倒的に美しかった。
「惜しかったな〜ヒルダ」
「僕はヒルダさんの舞踊の方が評価されるべきだとは思うがね」
「まあでも採点をするのはローレンツではありませんからね。実際、彼女も素晴らしかったです」
「わたしなんかは正直何が違うか分からなかったけどなあ」
教室で口々に意見を言い合う皆を前に、ヒルダちゃんは眉根を寄せて笑った。「うーん、負けちゃってごめんねー」と口にする彼女はほとんどいつもと変わったところはなく、それだけで最初から白鷺杯に対して気負ったところがなかったらしいと察することができる。だけど、確かに実際ドロテアさんがいたんじゃ今年は他の学級が勝利を収めることは難しかったのかもしれない。
「でも、ヒルダちゃんもすっごい綺麗だったよ! お友達として誇らしいよ」
「ふふ、ありがとねー」
私の言葉にもヒルダちゃんはやんわりと笑った。
「負けちゃったけど、楽しかったよー」
ヒルダちゃんはそれからハンネマン先生に呼ばれているのだと言って教室を出て行った。その後ろ姿が完全に消えた後、クロードくんが小さくため息を吐く。それを聞いていたのは、誰ともなく散りはじめ閑散としつつあった教室、その壁際に立っていたクロードくんの隣でヒルダちゃんを見送っていた、私だけだ。
「悔しいって感情が湧かない時点で、あいつはまだ本気を出してないんだよなあ」
独り言のように吐き出されたそれに何と答えたらいいのか分からず、私は視線を彷徨わせる。
視界の端に一瞬だけ見えたクロードくんの瞳は、何かを考えるように僅かに細められていた。私に何か意見を求めているわけではなさそうなその表情に、どこかで安堵してしまう。
クロードくんは何を見ているんだろう。
尋ねることもできないまま、私はけれど、彼の隣から動くことができない。
その日、寮に戻る道中でドロテアさんと出会ったのは偶然だった。彼女は他に男性を携えておらず、珍しく一人で、私を見止めると「あ、ちゃん」と親しげな声音で名前を呼んでくれたので、私も笑って会釈をする。
「ドロテアさん、今日はおめでとうございます」
「ふふ、ありがとう。見ていてくれたのね」
勿論、と頷くと、ドロテアさんは柔らかくその眦を細めてくれる。男性と二人でいる時の彼女とはどこか違った雰囲気だったけれど、穏やかな双眸はぬるく私を包んでくれるようで、居心地が良い。「寮までなら一緒に行かない?」彼女の言葉に断る理由もなく、二人で並んで食堂脇の庭園を歩く。すれ違う学生たちが、ちらりとドロテアさんに視線を向けていくのが隣を歩いているだけでも分かった。
「やっぱりドロテアさん、注目されてますね」
「そう? でも、どうせだったら見るだけじゃなくて声もかけてくれればいいのにって思わない?」
「こ、声? え〜、でもそんな経験ないから、私だったら急に声をかけられたらびっくりしちゃうかも……」
「嘘、ないの? ちゃん、こんなに可愛いのに?」
「かわいいっ?」
ドロテアさんの言葉に思わず声を裏返してしまったけれど、彼女は気にも留めずに「皆見る目ないのねえ」と眉を寄せて私の顔をじっと見つめている。ぱっちりした二重の瞳に、薄く色づいた頬、冬だろうと一切乾燥していない艶のある唇、髪は丁寧に整えられていて、制服の着こなしだって群を抜いてお洒落な彼女に言われた言葉を脳内で反芻させてしまう。お世辞であるはずなのに照れてしまうのは、ドロテアさんがあまりにも真っ直ぐ私を見つめているからだ。
「あ、嘘だって思ったでしょ。嘘じゃないわよ」
「えっ」
「舞台役者だからって何でもかんでもお芝居みたいにするわけじゃないのよ。ちゃんのこと、私はずっと前から可愛いって思ってたんだから」
「えええ」
「ふふ、ほら、そうやって素直に感情が顔に出ちゃうところとか、私、好きよ」
「わあああ」
可愛いだの好きだの、平気で言われてしまうとどうしようもなく照れてしまう。顔を両手で押さえながら俯くと、ドロテアさんはその瞳を楽しげに細めて笑うから、嘘なのか本当なのか分からなくなる。嘘じゃないって彼女が言ったんだから、そうなんだろうけど。
庭園を抜けて寮のある道に出ると、ドロテアさんは「そういえば」と思い出したように口にした。
「ヒルシュクラッセで舞踊が得意な男の子っているかしら」
「え?」
唐突に思える質問に首を傾げながらも、私は「舞踊だったらローレンツくんですかね」と考える間もなく答えた。ドロテアさんは名前を出されただけですぐさま「ああ、彼ね」と頷く。どうしてそんなことを聞くんだろう、という疑問が顔に出ていたのだろう。ドロテアさんは私の顔を見て小さく笑うと、「相手を探しているのよ」と答えた。
「もうすぐ舞踏会があるでしょう?」
「え、はい、ありますね」
「白鷺杯の優勝者って、そこで皆の前で一曲踊らなければいけないらしいの」
「へえ〜! 楽しみです! ……あ、それで相手を探しているんですか?」
「そうなの。学級の垣根を越えても問題ないって言われているから、折角だからちょっと相手を探してみようかなって思ってて」
ドロテアさんとローレンツくんの舞踊。
二人が手を取り合って踊る姿を想像することは何だか難しかったけれど、でも、きっと素敵だ。だってドロテアさんの舞踊も、ローレンツくんの舞踊も、比類ないくらいにきれいなんだから。
「わ〜! 絶対きれいですよ、すごい、楽しみ!」
「あら、まだ彼に頼むって決めてないのよ」
「あ、そっか、他にも上手な人とかいますもんね……」
アドラークラッセだったら、フェルディナントくんとか上手そうだ。でも、ドロテアさんはすらっとしているから背の高いヒューベルトさんとも絵になるだろう。歩きながら勝手なイメージで頷いていると、ドロテアさんの細く美しい指が私の頬に触れた。「ちゃん」確かめるように私の名を呼ぶ。その指先は驚くほど冷たくて、びっくりしてしまう。立ち止まって目を見開いた私を、ドロテアさんは目を細めて見つめていた。舞台の上にいるような、蠱惑的な瞳で。ねえ、と、うっとりするほどの熱量を帯びた声が、私の耳元で吐き出される。
「私はちゃんでも良いんだけど」
ひゅ、と喉の奥で変な音が鳴った。
言われたことが脳に浸透するよりも先に、何故か身体の端っこから熱が帯びていくような感覚に陥る。頬が痛いくらいに熱くなって、どうしたらいいか分からないのに、ドロテアさんの甘い香りが身体の芯を痺れさせる。汗がじとりと胸の谷間を伝ったのがわかった。わけもわからずくらくらした。「わ」喉から漏れた声が掠れる。ドロテアさんの長い睫毛に縁取られた瞳が、私の目をじっと見つめている。
「私、実はほとんど踊れないので、むりです」
そんな告白を受けたドロテアさんは、面食らったように双眸を見開くと、やがて耐えきれないというように、小さく吹き出した。何だか気恥ずかしかったけれど、馬鹿にされたとか、そういう感じではなかったことだけが救いだった。