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色々思う所や、冷静に整理したいことはあったけれど、それに気をもんでいたら当初の目的を達成できなくなってしまう。ともすれば頭をもたげる数日前のクロードくんの言葉に首を振って、私は今日も時間を割いてくれたローレンツくんの話に耳を傾けた。
上体や頭の角度、膝の曲げ方、重心の位置。相手がいる以上、それらは常に微妙な調整が必要になってくるけれど「基本の形にさえなっていれば構わない」と彼は言う。要するに今回全てを追及しようとするには時間が足りないから、最低限のことだけでも押さえてしまおうという話だ。
立ち姿勢や歩き方、伴う呼吸法など基礎の部分について、普段から意識していたおかげで何とか及第点を貰えた私はとうとう舞踊の本格的な特訓に入ることになった。舞踏会まであと十日余り。授業の予習や復習、訓練も疎かにするわけにいかないことを思えばあまり時間がないように思えてしまうけど、それでも何とかなるだろうと言ってくれるローレンツくんの言葉に安心する。
私の部屋の隅で腕を組んで経っているローレンツくんと対照的に、座った寝台の奥に両手をついて「確かにそうよねー」と答えたのはヒルダちゃんだ。今日は実際に組む練習をすると聞いて、顔を出してくれたのだった。
「大体女の子がちょっとかたくなっちゃってても、男の子の方が何とかしてくれるんじゃないかなー?」
「お、男の子の方もかたくなっちゃってたら……?」
「似たような会話を以前もした気がするが、そう心配することもあるまい。例え相手に舞踊の心得がなかったとしても、は舞踏会当日には最低限踊れるようになっているのだからな」
「そうだよー。実際、最近のちゃん、すごく姿勢が綺麗になったもんー。歩き方とかもバッチリ!」
「う、うん、そっか……ありがとう、がんばる……!」
ぐ、と握り拳を作る私に、ヒルダちゃんは「うんうんその調子ー」と朗らかに笑う。ローレンツくんにしろ、ヒルダちゃんにしろ、金鹿学級でも抜きんでた舞踊の腕を持つ二人が先生をしてくれるって、すごいことだ。幼少の頃の私の舞踊の先生だってすばらしい経歴の持ち主であったと聞いていたけれど、二人ほど親身ではなかったし、厳しくて、怖かった。それは勿論生徒である私が舞踊を嫌がっていたことが問題だったわけで、今となっては思い返すたび、非常に申し訳なく、心苦しい思いになる。と言っても、もう数年も前の話である以上、彼女の顔もぼやけて曖昧だけど。
しかし実際、姿勢や歩き方、呼吸の方法など、ローレンツくんから教えてもらっているとき、脳裏を過ぎる過去の記憶というものがあった。できません、わかりません、痛いです、そしてつんのめり顔を強打、流血、悲鳴。なぜ舞踊のときに限り、私は受け身を取ることを知らないのか。ため息だけが耳につく。まともに踊れぬまま迎えた同盟貴族の集まる舞踏会の日、華美な衣装を着せられた私は倒れた。腰回りの締め付けが原因かと思ったけれど、次の舞踏会も、そのまた次も、どんなに緩めてもらっても駄目だった。
そして冬のある日、兄に告げられたのだ。
「舞踏会など無理をしてまで行くものではないよ」
精神的に摩耗していた当時の私のあれは、いっそ病的だったのかもしれない。先生は、そして屋敷を訪れなくなった。
もしもきちんと踊ることができていたら、ローレンツくんとの再会も早まっていただろう。レスター諸侯同盟における領地の東と西で分かれていたヒルダちゃんとも、もっと早く出会えていたかもしれない。そう思うと、何とも言えない後悔のような思いが芽生える。
そうして私が過去を振り返っていた時、不意にローレンツくんがヒルダちゃんの名前を呼んだ。
「ヒルダさん、に手本を見せたいんだが、良いだろうか」
「勿論」
ヒルダちゃんは立ち上がると、「ちゃんはちょっと見ててねー」と微笑むので、私は頷いて寝台の方へ寄る。二人はどちらともなく部屋の中央の空間に歩み寄ると、自然な所作で身体を寄せた。
染みついた動きって、こういうことを言うのだろう。その手首も、背に添えられた指も、その全てが教本のようだった。鳩尾の辺りが触れ合う程の距離に立つ二人の背筋はぴんと伸びて、あまりにも美しい。表情にも、指先にも、無駄な緊張はどこにもなく、見ているだけで吐息が漏れてしまう。
幼少より舞踊を叩きこまれたローレンツくんと、令嬢としての素質を兼ね備えたヒルダちゃんは、こんな寮の一室であっても、例え士官学校の制服姿であっても、信じられないくらい絵になったのだ。
「わぁ〜きれい〜……」
思わず両手で口元を抑えてそう漏らせば、ローレンツくんが目線だけをこちらに向けるから、あっという間に現実に引き戻されてしまった。
「美しいのは当たり前だ。良いか、。ヒルダさんの姿勢を良く見ておきたまえ」
「え、ま、ちょっと待って……」
ローレンツくんの言葉に、ヒルダちゃんを観察させてもらう。お腹は引き締めて、身体の上部と頭はわずかに後方で少し左側に傾ける。膝はまげて、その体重は爪先と、付け根部分にかかっているようだ。「……ちょっとやってみてもいい?」と思わず口にしてしまった後で、はっとした。
私の言葉にヒルダちゃんが「うんうん、やってみないと分からないわよねー」と姿勢を戻した時、当然のことなのだけど、私に手を差し出したのはローレンツくんだった。今の動きを真似すると言うことはそういうことだ。拇指球を触られたときのことを思い出す。どうしよう、そう思いかけたけれど、私の躊躇なんか破いて捨てるみたいに、ローレンツくんは私の手を取った。
結論から言うと、意識も緊張もする暇なんかなかった。
舞踊が上手な人って、当然のように先導も上手なのだろう。初心者同然の私が姿勢を整えるのを待ったローレンツくんは、恐ろしいことにそのまま簡単な舞踏へと移行した。まず姿勢を見てほしかった。それに関してはお手本だって、まだ見ていないのに。
「ひっ、ちょ、ねえ、ロッ」
喉の奥で悲鳴が漏れたのに、ローレンツくんは止まってくれない。
背中に添えられた指先で三拍子を取られながら、ローレンツくんの動きに合わせて踊らされる。いや、そもそもこれは舞踊になっているのだろうか、ただローレンツくんに着いていくのに必死で、目が回った。
広くはない私の部屋。物があまり多くないからこそ、どこかに足をぶつけることもなく踊れるのだ。背の高いローレンツくんの顔が見えない。士官学校の制服、胸に刺さった赤い薔薇、それらの外側で、見慣れた私の部屋がくるくる回っている。朝方勉強した理学の本。お兄様から届いた手紙の束。お父様への書きかけの手紙は、今はあの机の引き出しの中。空っぽの花瓶。邪魔だからと外した護身用の短剣。とん、とん、と、そんなに速くはない速度で叩かれる背中の感触が遠い。こんなにも目まぐるしいはずなのに、視界からの情報だけが、やけにはっきりとしていて、寝台に座ったヒルダちゃんのその目が、ただ、柔らかいことだけが救いだった。
不意にローレンツくんが口を開く。
「。踵を置くときは?」
「ひ、膝と、足首を引き締めて、お尻を、乗せる!」
頭でも、身体でも、嫌と言うほど繰り返したそれを咄嗟に答えたけれど、正解だ、と小さく呟かれる頃に拍子を崩した。言葉を紡ぐのに気を取られたせいだった。瞬間脳裏を過ぎったのは、これまで幾度も犯してきた失態の数々だ。
転んで、擦りむいた。できません。足が痛いと泣いた私を包んだ黒い影、見上げた先に居たその人の唇が動いた。数々の子息令嬢に舞踊を教えあげた立派な先生。記憶の中で彼女の顔を覆っていた靄が晴れる。その手が戦慄いていた。床に落ちた染みは、私の鼻から落ちたものだ。私みたいな底の抜けた椀のような子供はきっとあの人も初めてだったのだろうと今なら分かる。
ああ、そうだ、あれがあったから私は舞踊が嫌いだった。
膝が崩れ落ちた私の身体を、瞬間、ローレンツくんは難なく支えた。思わず顔を見上げたら、彼は目を細めていた。いつもの彼の、どこか高慢な笑みとは違うそれは、まるで悪戯の成功した子供のようにも見えたのだ。
「ほら」
もしも私があの時も、こうして頑張れていたら。無理です、痛いです、できません、なんて口にせずに、我武者羅に頑張っていたら、それが少しでも形になっていたら、あの先生に、あんな顔をさせずに済んだのだろうか。
「君が転んでも支えられただろう」
それを知っていたら、私はあんなに怖がらずにいられたのかな。衣装に吐かずに済んだかな。
吐き出した息が震えていた。ローレンツくんの手によって抱えられた私の身体が一瞬浮く。爪先から床に着いて、靴の踵がこつりと音を立てた瞬間、ヒルダちゃんが「すごーい!」と手を叩いた。
「すごいよちゃんー! ちゃんと踊れてたよー?」
「え、う、うそ、踊れてた?」
「当然だろう。このローレンツ=ヘルマン=グロスタールが相手を務めていたのだからな」
「ええ〜ほん、ほんと? なんかもうよくわからなかった、ええ〜」
「大丈夫大丈夫、良かったよー! この調子だよー!」
「あ、ありがとう、ありがとう〜。二人のおかげだよ〜」
「言っておくがまだ完成したわけではないからな。感謝は完璧に身に着いてからしたまえ」
「だって、それでもこんな、転ばなかったのなんて、初めてで」
何に対してなのか分からないけれど、胸の奥でなにかが解けていくような感覚があった。ともすれば目頭が熱くなってしまいそうで、唇を噛んで耐える。身体中の血がどくどくと音を立てて巡っていくのがわかる。ローレンツくんに触れられていた手は、まだ熱を帯びていた。じっとその手の平を見下ろしたら、それは分かりやすく震えていたのだった。それは少なくとも、恐怖からくる震えではなかった。
舞踏会まであと十日余り、あれだけ凝り固まっていた舞踊への苦手意識の芯がここに来てようやく取れた、そう思ってもいいのだろうか。
泣き出しそうになるのを我慢するために俯いていた私は、頭を撫でてくれているヒルダちゃんの身体の奥で、ローレンツくんがどんな顔をしていたのかを知らなかった。