■ ■ ■



「よう

「ヒッ!」



 休日の大聖堂、女神さまに祈りを捧げていた私の背後で足を止めたその人は、一切の躊躇もなく耳元で私の名を呼んだ。今回私は申しこまなかったけれど、今日はシャミアさんによる休日の特別講習があったから、ちょうどそれが終わったところだったのだろう。だけど、声をかけるならもう少しこう、驚かさないようにと言うか、私の寿命を縮ませないようなやり方にしてほしかった。
 目を閉じていても分かるくらいに人の気配を多分に孕んだ大聖堂は私の声を反響させるから、慌てて口を手の平で覆う。隣に立っていた信者の方に横目で見られたので、目線だけで謝意を示した。大聖堂は会話厳禁、というわけではないけれど、やっぱり静寂に包まれているそこは足音すらも響くから、振り返った私は意識的に声を潜める。



「び、っくりした、め、珍しいね? クロードくんが大聖堂にいるなんて……」

「ん? そうだったか?」

「うん、授業とかじゃなかったら寄らない印象があるから……」

「そんなことないぞー? 俺もたまには天上におわします女神さまに祈りを捧げることくらいする……かもしれないだろ?」



 そう言いながらも、私や他の信者の方に倣って彼がその手を合わせる姿は授業以外では記憶になく、現に今だってクロードくんが女神さまのためにその目を閉じることはない。



「もう済んだなら、一緒に出ようぜ」



 今しがた来たばかりだろうに、クロードくんはそう言って大聖堂の外に出る様私を促した。気兼ねなく喋るんだったら外の方が都合が良いし、どの道そろそろ寮に戻ろうと思っていた頃だ。彼に頷きながら、その半歩後ろを追いかける。



「で、何を祈ってたんだ?」



 しかし大聖堂の扉から出た瞬間、脇に抱えていた防寒用の外套に袖を通す私の顔を覗き込んで、クロードくんは見透かすようにその目を細めるから、私は思わず言葉に詰まってしまった。その視線から逃れたくて、目を泳がせる。
 舞踏会で失敗しないようにと祈っていた、なんてことはみっともなくて言えない。さっきは上手く誤魔化されてしまったけれど、クロードくんがどこかセイロス教に対して距離を置いているのが薄々感じられる以上、なおさらだ。
 だけど不思議だ。フォドラに生まれた以上、私たちはセイロス教とは切り離せない関係になる。祝福を受け、五戒を唱え、主に祈る。セイロスの教えは幼少から叩き込まれているはずなのに、リーガンの後継者である彼はどうしてどこか線を引いたような目で私たちを見ているのだろう。



「ア、アレキサンドルの五穀豊穣を祈ってた……」



 疑問を抱きつつも、舞踏会のことを隠さなければと何とかそう口にすれば、「この時期にか?」と彼は面白いことを聞いたとばかりに笑った。その笑顔が、やっぱり酷く美しいものに見えた。緊張で強張って、上手く笑顔を浮かべることができなくて、は、と半端な息を吐きながら足元を見る。
 足を出す瞬間のお尻の位置に注意しながら。慎重に体重を移動させて。この練習を始めて数日経ったけれど、この挙動は随分とマシになった気がする。普段使っていなかった筋肉がきちんと痛むくらいには、矯正されているのだろう。そうやって他のことに意識のいくらかを割いていれば、彼に近い右半身に感じる熱のような何かに心を乱されずに済むような気がした。
 その時、不意に北から吹く冷たい風に身震いする。大聖堂の周囲にはなかなか風を遮るものがないから、こうして風を受けることが多々あるのだ。外套の袖に指先を潜り込ませる私とは対照的に、クロードくんはけろりとしていた。元々気候の変化には耐性があるのかもしれない。ほとんど欠伸交じりに腕を伸ばすと、彼は伸びをしながら呟く。



「いやー、もうすぐ舞踏会だなあ」

「でも舞踏会の前に白鷺杯だね」

「そうそう。ヒルダのやつ、上手くいくといいけどなあ」

「きっと大丈夫だよ。ヒルダちゃん、すっごく舞踊が上手らしいし」



 舞踏会のことを突っ込まれるのを避けるために白鷺杯に話題を移したけれど、不自然ではなかっただろうか。「そうだなあ」とどこか間延びした声で頷いたクロードくんが空を見ているのが気になってその視線の先を追えば、大聖堂の上空を飛竜に跨り警備する騎士の姿があった。私の口から今度は、はあ、と長い息が漏れる。悠然と空を飛ぶ飛竜の翼の動きを、言葉もなく彼の隣で見上げている。
 騎士団の警備なんてガルグ=マク大修道院では日常的な光景だ。気さくな門番さんも、明るい行商人さんも、厩舎に並ぶ馬たちも、私たちがこなした課題も先生方も、聖騎士の方々の精悍な鎧姿も、大聖堂の玻璃硝子も、レア様のお姿をこんなにも間近で拝見できる日々も、けれど、全て過去になる日がやってくる。クロードくんの隣にいられるのだって、あとたったの四節だ。
 クロードくんと大聖堂の外、空を見ていた。こんな細やかな日常がやがて思い出になる。そう考えたら、それは何だか途轍もなく恐ろしいことのように思えた。
 まだ、一年の三分の一も残っている。だけどそれでも、これまで過ごした日々があまりにもあっという間で、私は途方に暮れてしまうのだ。心残りのあるまま卒業を迎えたくないという意識だけはあるからこそ。
 飛竜は私たちの頭上を飛ぶ。その姿が大聖堂の傍にある、女神の塔の方へと向かったのを見送った後、私はその目線をクロードくんに向けた。その瞬間、彼の方も私を見る。「なあ、」その掠れた声を、私は一生、この記憶に留めておきたかった。



「そういやお前は、女神の塔の伝説って知ってるか?」



 翡翠色の眼球の中に、目を見開いた私が居た。








 女神の塔は大聖堂の出入口の西の扉を出た先にある建築物で、立ち入りが禁止されている古い塔だ。
 舞踏会の行われる星辰の節の夜に男女二人で女神の塔に行き願い事をすると、その願いは必ず叶うという伝説があるという話は学生の間でも有名だった。女神の名を冠するだけあって、そのお願いというのは女神さまが叶えてくれる、と言うのが一般的な解釈であるらしい。
 つい先日もヒルダちゃんとその話題で盛り上がったばかりだった。相手がいなければどうにもならないはずなのに、それには触れずに自分だったら何を願うかを二人で話し合ったけれど、なかなかこれと言う願いは浮かばなかった。二人で同じ願い事をしなければならないという縛りが、難しいのだ。万が一奇跡が起きて片思いの相手と女神の塔へ行けたと仮定したところで「この人と両思いになれますように」なんて願いを自分一人がしても意味がない。
 結局あれは既に恋人同士の二人が永遠の愛を誓うもの、或いはどちらか片方の願いを叶えるために祈るもの、と結論づけたけれど、ヒルダちゃんなんかは頭が良いから「全然そういう関係じゃない男の子にお願いしてさー、二人で『素敵な恋人ができますように』って祈るしかないわよねー」と言ってのけた。それなら現実的ではあるような気もするけれど、ただ、情緒も何もあったものじゃない。
 だけど、セイロス教と距離を置くクロードくんがそんな噂話について言及するなんて、ちょっと珍しかったな。そう思いながら、一人寮までの道を行く。
 クロードくんはハンネマン先生に用事があるらしく、先生の研究室へと続く階段のある大広間で別れた。「じゃあまた明日な」と微笑んだ彼にぎこちなく手を振り返しながら、級長の証である外套が揺れるのを見つめていた。



「あっ」



 丁度ドロテアさんの部屋の前あたりで、見覚えのある猫を見つけて足を止める。「ベルグリージス!」白と黒のはちわれ猫は、誰かにつけられたその名前を覚えているのかいないのか、首だけを私に振りむかせた。ベルグリージスは鳴きもせずにその場でごろりとお腹を出してみせるから、私はその魔力に抗えずについつい近づいてしまう。
 今日もベルグリージスは愛嬌たっぷりだ。まん丸の瞳を私に向けて、撫でてと言わんばかりに身を捩るから、そのふわふわのお腹に手を伸ばす。大聖堂付近よりは吹きさらしでない分寒くはないけれど、頬を突き刺す冷気に自然と身体が震える。だけど、ベルグリージスのお腹はぽかぽかとして温かかった。



「今日もふかふかだ〜」



 抱き上げて顔を埋めたいような気持ちになってしまうけれど、一瞬見えた鋭い爪にひやっとする。猫の爪って痛いのだ。腕や足なんかは衣類で隠れているから問題ないけど、改めて外套の袖を引っ張って指だけをそろりとベルグリージスに触れさせた。ごろごろと喉を鳴らしてくれる部分を探る。やっぱり顎が良いみたいだ。一心不乱に撫でていると、緊張していた身体がじわじわと解れていくような気持ちになる。今日も気持ちよさそうに目を閉じてくれる人懐こいベルグリージスに癒されながら、ふう、ともはあ、ともつかないため息が口の端から漏れた。
 クロードくんは、どうしてお祈りをするわけでもないのに大聖堂にやって来たんだろう。ハンネマン先生との約束までの時間潰しだったのかもしれないけれど、でも、そういうことを考え出すと落ちつかないような心地になってしまう。期待をしてしまう自分が身体の中に一欠けらくらい存在していて、何だか、我ながら馬鹿馬鹿しく思えてしまうのだ。
 女神の塔の伝説を知っているかと、彼は私に尋ねた。それに頷いた私に、クロードくんは何か話を続けるでもなく、「そっか」と一言だけ呟いたのだ。でも、狡いな。



「……そっか、って、なに〜……」



 無意識のうちに呟いた言葉が、掠れて、空回って、私とベルグリーズの周囲を埋めていく。
 しゃがみこんだ両膝に眼球を押し当てる。貧血の時のように、ちかりと視界が瞬いた。青い指定の靴下は厚く、私の傷痕を透けさせることなんて決してないのに、私にはそれが確かに見える。
 にゃ、と、私の指の奥でベルグリージスが短く鳴いた。それが、些細なことで変な意識をしてしまっている私を窘めているようにも聞こえてしまったのだった。


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