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「あれ? ちゃん、歩き方変わったー?」

「か、え、てる!」



 寮から教室までの道中、ローレンツくんに教わった歩き方を実践していた私に、ヒルダちゃんは目敏く声をかけてくれた。
 どうやら私は立ち方だけでなく、普段の歩き方から少々よろしくないらしい。まあ、確かに幼い時に作法の先生に困った顔をされたのは薄ら覚えている。でもそれに関してはきちんと逃げずに履修したはずなんだけど、と眉を寄せれば、ローレンツくんは大樹の節での怪我が影響しているのかもしれない、と呟いた。庇うような歩き方をしていた時期が長かったせいで、というよりも、恐らく未だに、無意識のうちに怪我をした右足に体重をかけるのを避けているのだろうと。
 自分ではよくわからないけれど、舞踊をする上でそれは言葉通りの枷だろう。ならば矯正するしかない。
 天井から真っ直ぐ垂れた糸に身体が吊られる様子を想像して。背筋を伸ばしながら顎を引き、足首を引き締めて踵を置く。体重を受け取るのは必ず前に出した足の踵で、その時のお尻の位置はその足の上。踵とお尻が股関節で繋がっているのを意識して。特に右足を前に出すときは注意。その理論は分かっている。曲がりなりにも十数年、きちんと歩けていたはずなのだから。でも意識しようとすればするほど、なんだかぎこちなくなってしまうのだ。



「ど、どうかなヒルダちゃん、これ、変じゃない?」

「うーん、そうねー……」



 ヒルダちゃんのぱっちりとした二重の瞳に見つめられると、無性に緊張してしまう。益々手足の動きを硬くする私に、ヒルダちゃんは小さく首を傾げた。



「……今みたいに、気にしすぎるとどうしてもぎくしゃくしちゃうわよねー。ちゃんの場合、全部同じだけ頑張ろうとするから余計混乱するんだと思うんだー。体重の移動の仕方だけでも変わってくるはずだから、まずはそこを意識したらいいんじゃないかなー?」

「な、なるほど、体重の移動だけ」



 ヒルダちゃんの助言を脳に刻み付けるように繰り返す。だけど、そうした瞬間に普段は躓きようのない石畳の隙間に爪先が引っかかって、ヒルダちゃんに支えてもらわなければあわや転倒するところだった。
 舞踊の特訓って、武器の訓練よりも苦しいかもしれない。








 休み時間は意識的に立っているようにした。座りっぱなしなのも、舞踊の観点から言えばよくないそうなのだ。私に付き合って教室の隅で立ち話をしてくれたヒルダちゃんには頭が上がらない。
 歩き方もそうだけど、まずは立ち方を矯めなければ進めないらしい、と思えば、立つ努力というものを意識的にしてしまう。書庫でも、普段ならば目当ての本を見つければすぐに椅子に座っていたけれど、今日は敢えて人気の少ない角の方で立ったまま本を読み込んだ。
 レオニーちゃんが良く、普段の生活と訓練とを結びつけると良いと言っているけれど、つまりこういうことだろう。爪先と、親指の付け根の肉が厚い部分である拇指球に体重をかけて、制止。しかしそれを意識した途端、私の脳裏に過った光景があって、思わず「わーっ」と声をあげそうになってしまった。耐えるために、角度的に誰も見ることはできないだろう自分の顔を本で隠す。今私の左手は本を持っているはずなのに、どうしたって昨日のことを思い出してしまうのだ。
 ぼしきゅう? と眉根を寄せた私に、ローレンツくんは半ば呆れたような顔で私の手を取った。何もかも、私の知識が浅いのと、理解が遅いのが原因だ。彼は教えようとしてくれただけで、そこにそれ以上の意図なんかないのに、一方的に叫んで手を振り払ってしまうなんてあんまりにもローレンツくんに失礼だ。突然叫んで手を引いた私をぽかんとした顔で見ていたローレンツくんに、手に触れられただけで訳も分からず無性に恥ずかしくなったことなんて告げられなかった。だって触れられただけでびっくりしてしまうなんて、そんなの変だ。相手はローレンツくんなのに。
 舞踏会では他の男の子とも踊ることだってあるかもしれない。そう、クロードくんとだって。そこに意識が行き過ぎてまともに舞踊ができなくなる可能性はむしろ高すぎるくらいだけど、兎にも角にも練習をしなければその段階にすら到達できないわけだから、今は練習を頑張ろうと思った矢先、まさかあんな風に躊躇なく手に触れられて、そのことについて自分があんなにまで動揺するとは思ってもみなかった。
 前途多難だ。
 いつまでもそうして本で顔を覆っていたら、いつの間にか隣に立っていた人にこほんと咳払いをされた。顔をあげればそこにいたのは、トマシュさんの後任として、臨時ではあるものの書庫番を務めることになったらしい信者の男性だったから、慌てて本を戻して書庫を後にした。








 授業が終わった後、ローレンツくんと二人で寮まで向かう。ヒルダちゃんの助言通り、重心を意識して歩けば、ローレンツくんにえらく感心されてしまった。



「ほう。まだぎこちないが、昨日までより余程いいな。やはり僕の教え方が良かったか」



 得意気に頷くローレンツくんには、ヒルダちゃんに教えてもらったとは言わない方が良いかもしれない。曖昧に笑えば、星辰の冷たい空気が喉に張り付く。
 ガルグ=マクも随分寒くなった。士官学校での生活も、あとたった四節ほどしか残されていない。ヒルシュクラッセの皆は、卒業後はそれぞれの領地に戻るだろう。レオニーちゃんなんかは傭兵として働くことを目指しているから、ジェラルトさんやシャミアさんによく話を聞きに行っている。幾つか良い働き口の候補があったよ、なんて笑う彼女を見ていると、この学校生活に終わりが近いことを意識せざるを得なくなる。騎士を志すラファエルくんやイグナーツくんだって、卒業後について何か考えてはいるだろう。
 私ももうすぐアレキサンドル戻らなくちゃいけなくなるし、身の振り方を考えなくては。いつまでもこのままではいられないな。なんて考えていたとき、まるで見計らったかのようにローレンツくんが尋ねた。



「そういえば、アレキサンドル伯はお元気か?」

「えっ? お父様?」



 最近、家から私に届く手紙は全てお兄様からのものになっていた。父は、もう兄に家督を譲るつもりなのだろうか。父からの手紙が最後に届いたのがいつだったかを思案して、お見合いがどうこうと言っていた時期だったと思い出す。



「うん、変わりないよ。お兄様からのお手紙でも、早く結婚してほしいって急かされてるって」

「……結婚か」

「そうそう、お兄様も適齢よりは少しお早いけれど、いいお相手がいれば、ね」



 言いかけて我に返った。そうだ、結婚の話は、どうなんだろう、触れないでおくべきだったろうか、冗談であったとしてもそういう話を彼にされたんだから。だけど、ローレンツくんは何か別のことを考えている様子で、顔色の一つも変えずに目線を足元に落としている。だから私も、見られてなんかいないのに、曖昧な笑みを貼りつけて爪先に視線を落とした。下ろす時は踵から。体重の移動を意識する。お尻はいつも、踏み出した足の踵に乗せるように。
 寮の二階に続く階段が視界に入ったあたりで、食堂の壁が遮っていた風をまともに受けて、「うわ」と短い悲鳴が漏れる。同盟領内も、そろそろ冬支度を終わらせた頃だろうか。
 お見合いを断った手前、お父様からのお手紙を待たずしてこちらから連絡を取るのが何だか申し訳なく、気まずいような思いであったのは事実だ。鷲獅子戦の結果如何などについては兄から聞かされているだろうし、それ以外にも兄とは手紙のやり取りをしているから今更必要ないかもしれない。自分にそう言い聞かせていたけれど、また改めて父宛てに手紙を送ろう、と冷たい風に身を縮ませながら考える。
 ローレンツくんに教わって、あれだけ逃げていた舞踊に挑戦しています。そんなことを知ったら、私に舞踊嫌いを遺伝させてしまったと嘆いていた父は、驚いてしまうかもしれないけれど。








「腹部に力を入れて、そう」

「う、こう?」

「……こら、息を止めているだろう」

「えっだめなの」



 でも、そんなことを言われてもお腹に力を入れると勝手に止まってしまうのだ。もしくは、呼吸が極端に深くなる。姿見に映った私の奥で、難しそうな顔をしているローレンツくんが見える。彼は自分の身体の下腹部あたりに手を置くと、「ここに力を入れて、鼻で吸う、吐く」と言うけれど、そうしている間も体重は勿論爪先にかかっているわけで、ふくらはぎがプルプルしてきてしまった。



「これ、こ、ころびそう」

「それくらいで転ばないさ」

「でも、ローレンツくんが思ってるのの五倍は転ぶのが得意でね、鷲獅子戦でも転んだし、舞踊ってなると転ばないことがないの」

「……まあ本番では最悪転びかけても男側がどうにかしてくれるだろう。みっともなく女性に転ばれては先導する側の素質が疑われるからな」

「そ、そっかー、じゃあ大丈夫かな?」

「少なくとも相手は間違いなく士官学校に在籍している人間であるわけだから、咄嗟の判断くらいはできるだろうよ」

「あ、そっか! だったら歯も折らないし、鼻血も出なそうだね!」

「いや、普通折らないし出ないが……経験があるのか?」

「……」



 あるともないとも言えずに目を逸らせば、ローレンツくんがふ、と息を漏らしたように思えた。ちらりと目線を戻すと、眉尻を下げて笑っていたから、笑いごとじゃないのだと訴えたくなったけれど、そうしたらそれが真実だとばれてしまいそうだったから飲み込んだ。
 舞踏会まであと二十日間近く。障害はたくさんあるけれど、相手に恥をかかせたり、変に目立ったりすることがなければ、もうそれだけで万々歳だ。


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