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俄かにガルグ=マクが騒がしくなったのは、赤狼の節もあと一週間足らずで終わろうとしていたある日のことだった。
節の初めから騎士団が調査に当たっていたルミール村の状況が、ここにきて一変したと言う。ルミール村はオグマ山脈の麓にある、帝国に属する小さな村だ。大樹の節の折、野外活動としてその付近に天幕を張っていた私たちを盗賊が襲った。その時級長たち三人が助けを求めたのが、偶然その村に滞在していたベレト先生と、ジェラルトさんだった。縁のある土地を見舞った異常に、クロードくんは何かを考えるようにその双眸を細め、口元に手を当てた。偶然か、それとも。彼の薄い唇の動きは、それ以上読み取ることができない。
報せを受け、すぐさまベレト先生のお父様であるジェラルト騎士団長が指揮を執り、ルミール村へ急行するための隊が編成されることになった。ジェラルト団長がベレト先生以下ルーヴェンクラッセをその指揮下に置いたのは、これまでの傭兵として父子が過ごした日々があるが故だろう。伝説と名高い騎士団長と、灰色の悪魔と恐れられたその息子。信頼を越えた絆がそこにある。
だがあれはいっそ地獄に等しい。
漏れ聞こえた騎士団の方の言葉に、ルミール村が決して予断を許さない状況に追い込まれていることを知る。早馬で伝令に戻った彼の横顔は蒼白だった。
ルミール村に、得体の知れない疫病が流行っているらしいという噂は聞いていた。だけど実際のところ、先遣隊の調査によりその可能性は早々に否定されていたらしい。呪術か、或いは。決定打に欠けていたそれは、今日明らかになるのだろう。
騎士団と共にガルグ=マクを発つルーヴェンクラッセの生徒達は、まるで同じ春にこのガルグ=マクの門をくぐったと学生であるようには思えなかった。伸びた背筋、その瞳は揺らぐこともない。先生がヒルシュクラッセを選んでいたら、あそこにいたのは私たちの方だったのだろうか。ありえない仮定の話を脳に描いて、小さく首を振る。
ヒルシュクラッセとアドラークラッセがガルグ=マクを発ったのはそれからいくらか時間が経った頃だ。狭い村の中では、兵の過剰投入は進軍の妨げになる。恐らく全てが終わってから後片付けに駆り出されることになるだろうというのはクロードくんの予想だったけれど、実際その通りの指示が下された。村人の救助、残党の処理、火が回っているらしいからその鎮火作業や、行方不明者がいるようならばその捜索。私たちがやらねばならないことはたくさんあった。
けれど、ルミール村で一体何が起きているのだろう。山道を下る私たちの空気は重苦しく、誰もが口を開けようとしない。しかし、ルーヴェンクラッセの皆は、今頃何もかもを目の当たりにしているはずだ。騎士の方ですら口にするのを躊躇うほどの惨状らしい。せめて少しでも生存者がいれば。何か、私たちでもできることがあれば。何が起きているのかを知ることができない今だからこそ、希望に縋ってしまう。
手綱を握る手は震えていた。罪のない誰かの命が失われることは、想像するだけでも恐ろしかった。
思えば初めて会ったときから、ディミトリがその目の奥に隠した仄暗い泥に、どうしようもなく後ろ髪を引かれるような気持ちになっていたような気がする。
三人の級長と出会ったルミール村。彼の真摯な振る舞いの裏に眠る獰猛な獣の臭いに勘付けないほど、ぬるま湯に浸って生きてきたわけではない。ファーガス神聖王国の次期王になる男だ。普通の人間と違うのは当たり前だろうとその背にのしかかった何かの存在に知らぬふりができていれば、自分は彼ではなく、エーデルガルトやクロードの手を取ったのだろうか。
「ファーガスっていやあ、四年前の事件のせいで王が亡くなったんだったか」
大樹の節、ルーヴェンクラッセを選んだことを父に伝えたとき、父はほとんど世間話でもするかのような気軽さでそれを口にした。ま、色々あるだろうが、頑張れよ。そう叩かれた肩が、普段の倍は重い。
ダスカーの悲劇。王国の西北端、山脈を越えた先にあるダスカー地方に住まう民がランベール王の殺害に与した。以降王国は混乱を極めていると言う。まだ年若い王位継承者であるディミトリに代わり、現在国の政を担っているのがランベール王の実兄、リュファスだ。彼は長兄でありながらも紋章を持たないが故、継承権を持たなかったらしい。
ダスカー地方は報復として王国軍の手によって焼き払われ、そこに住まう民は虐殺された。空白地となったダスカー地方は今や王国貴族のクレイマン子爵が治めているが、ドゥドゥーのように生き延びて、外の世界で暮らすダスカー人もいる。
恐ろしいことだと今になって自覚しているが、自分はそういったことを知らずにこれまでのうのうと生きてきた。フォドラで起きた事件や戦争だけでなく、この地に根付くセイロス教の存在すらも。父が意図的に自分から排除していたのは最早疑念の予知がないが、だからと言って、よくもまああそこまで無知であることに疑問を抱かなかったものだ。
父はそれまで自身が頑なに口を閉ざし続けていたものに対して言及する際も、もうほとんど逡巡することをしない。もう意味がないのだとでも言わんばかりに、父は自分が学び、知ることを止めなかった。ガルグ=マクは書庫が充実していたおかげもあって、春が終わる頃には一端の教師と呼ぶに相応しいくらいの知識を身に着けることができたように思う。
「うん、先生、もうフォドラの歴史は完璧だね!」
アネットお手製の試験問題を満点で終えた。満面の笑みを浮かべた彼女が太鼓判を押してくれたのは初夏の頃だったが、それでも記憶に新しい。トマシュさんが比較的文章の平易な本を教えてくれたからだと首を振った自分に、アネットは「それでも充分すごいですよ! 自信持ってください」と目を細めてくれた。
今の自分は、一年前までの自分が知る由もなかったような物事や、感情すらも吸収しようとしている。身になっているかはわからない。だけど、表情が柔らかくなっているのは確からしいし、知識を得たことで会話の中で疑問符を浮かべる回数が減ったのも自覚している。自分は彼らの教師として、それなりに、及第点をもらえるほどには成長できているのだろうか。
ルーヴェンクラッセの外の生徒が抱える問題にすら、目を向けられるくらいには。
だが自分はもう少しその変化に柔軟に対応できるように、彼にこそ目を向けておくべきだったのだ。
ディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッド。
フェリクスに猪と揶揄されるだけあって、彼は元々視野がそこまで広い方ではない。敵と見れば伏兵を意識する間もなく切りかかってしまうし、実際それで大抵のことは切りぬけられるだけの強さも備えているから性質が悪かった。
とは言え、鷲獅子戦では一度引くことも覚えたはずだ。状況判断は冷静に。周囲を良く見て。そういうことを淡々と告げた自分に、ディミトリは神妙な面持ちで頷いた。
「初歩の初歩だぞ猪め」
そう毒づくのはやはりフェリクスだったが、彼もクロードの策に嵌められたことを忌々しく思っているのだろう。ディミトリもそれを知っているから、「手厳しいな」と苦い笑みを浮かべるだけで何も反論はしない。
実直な青年だった。真摯に国を思う彼は、恐らくダスカーの悲劇に関して伏せられた事実を知っているのだろう。ダスカー人のドゥドゥーを傍に置いているのがその証左だ。
先日、ダスカーを治めているクレイマン子爵から教団へ救援要請が入った。どうやらダスカー人の生き残りが故郷を取り戻すべく叛乱を起こしたらしい。国家転覆を企てたとされるダスカー人への憎悪がファーガスの人間から未だ消えぬ以上、反乱軍は壊滅させられることとなるだろう。それを止めるためにも、鎮圧軍に同行したいのだとディミトリは言った。
同胞の恨みを晴らさんとするダスカーの民を王国軍に悟られずに戦場から逃がす。骨が折れる戦いだったが、果たしてそれが叶ったとき、ディミトリは逃がしたダスカー人の罵倒を受けながらも、決して表情を変えはしなかった。意志の強い、精悍な横顔だった。
「王国軍に見つからないようにしろよ」
ディミトリにそう声をかけられ背を向けたダスカー人は、何を思ったのだろう。彼は何を恨むべきかを知っている。あの皮膚の下に隠した憎悪を向けるべき相手が何であるかを。
生徒を連れて父と共に急行したルミール村の状況は、惨劇と呼ぶに相応しかった。
燃えさかる家々、気が狂ったように殺し合う住人達、泣き叫び、逃げ惑う子ども。火の手は留まることを知らず、離れた場所に居ても皮膚がちりちりと痛む。
混乱の中どのように村人たちの救助をすべきか。動揺の色を隠せないながらも、生徒たちは打開案を出していく。このさなかでも、正気を失っている住人も助ける方法はないか。兎に角動き出さねば被害は広まる一方だ。しかしそれでこちらが火に巻かれてしまう可能性もある。父の指揮下の騎士団と連携を取りながら、素早く救助する必要があるだろう。
そんな中一人ディミトリだけが、青を通り越して、血の気の失せた白い顔をしていた。
そこにあるのが他の皆が浮かべているような困惑や動揺と言った類の感情でないことは確かだ。見開かれた眼球は逃げ惑う村人たちを凝視している。
あいつは獣を飼っている。そう自分に忠告したフェリクスの言葉を、こんな時に思い出す。
理知的で真面目な青年だった。だが、不意にそのたがが外れかける瞬間があることを、自分はこれまで過ごしてきた日々で既に知っていた。
「ディミトリ」
その横顔に声をかけた瞬間、ドゥドゥーが何かに気が付いたように呟いた。「殿下。村内に不審な人影が」数人の人物が、村人の様子を窺っているらしい。異変の元凶は彼らであると見て間違いないだろう。
ならばあの長い外套を身にまとった連中を捕縛すればいい。そう指示を出しかけた瞬間だった。ディミトリが吐き出したのは、普段の彼からは想像もつかないほどに低い、静かな音の連なりと間違うような声だった。
「殺せ」
彼の足の下は、底の見えぬ泥の沼なのかもしれない。その瞳の奥が濁る。フェリクスが眉根を寄せる。大きく瞬く。獣の臭いは、山を歩く赤狼のものではない。
「一匹たりとも逃すな。四肢をもぎ、首をへし折ってやれ」
彼が隠し続けていた泥は、自分にその一部を見せていただけだった。次期国王として、すべてを背負う立場の者として、王家唯一の生き残りとして、その若い背に負わされるには重すぎる業がそこにあった。
ルミール村の事件は、私たち生徒の心に影を落とすのに充分だった。
ヒルシュクラッセ、アドラークラッセの両学級がルミール村に到着したとき、村に影響を及ぼしたとされる賊の一派は退却した後で、だけど、そこで争いがあった形跡はどうしたって残っていた。そこかしこの草を濡らした夥しい量の、血痕というには多すぎる血溜まり、焦げた何かの残骸、呼吸をすればそれらの臭いは容赦なく感じられてしまうから、思わず息を止めた。重なった死体を、すぐには直視することができなかった。
後詰の騎士の方々と一緒に、生存者の捜索を行うさなかだった。死者の数が多すぎることを受けて、埋葬をするために村の外れに穴を掘ることが急遽決まったのは。
「、君はそちらへ行きたまえ」
ローレンツくんが気を遣ってか、私に振り向いてそう言う。「それで構わないな? クロード」続けざまにそう尋ねた彼に、クロードくんも「そうだな。何人かがそっちに行った方が合理的だな」と頷いた。
「ではイグナーツ君も、と一緒に行ってもらって構わないだろうか」
「あ、はい。わかりました」
では、行きましょうか。そう遠慮がちに声をかけてくれたイグナーツくんに誘導されるように村の外れへと向かう。それだけで争いの色は薄くなったような気がして、深く呼吸ができた。けれど、やっぱりいつまで経ってもこういう状況に慣れない自分に嫌気が差してしまう。項垂れてため息を吐いた私に、イグナーツくんは気遣うように「村の人たちがゆっくり眠れるように、頑張りましょうか」と優しく声をかけてくれた。それだけでなぜか、情けなく鼻の奥がじんと痛んでしまう私は、彼に頷くことしかできない。
全焼し黒く焦げた柱の数本がそこに建物があったことを教えてくれる。大きく穴の開いた壁、焼け落ちた屋根を持ち上げ、人が残されていないかを確認してまわる騎士の方々の、どこか途方に暮れた背。遺体に縋りつき泣く男性の悲痛な声が、崩れた瓦礫が出した音に潰される。
それはまさに凄惨な状況だった。敵が去った後ですら村を覆う絶望に、数刻前の惨状を想像しただけでもぞっとする。だけどこれは、実際にこの村を襲った現実なのだ。これからのフォドラを担う貴族の一員として、目を背けてばかりもいられないのに、私はそれでも震えてしまう。自分にできることなんて、細やか過ぎて何の意味もなさないのではないかと。
イグナーツくんに続いて村の門を出ようとしたところだった。「あ、」と、救護用に設置された天幕から出てきたアッシュくんに声をかけられたのは。
「アッシュくん、た、大変だったね。怪我したの……?」
「いえ、僕は、全然。今は怪我をした村人の方をお連れしただけで」
ルーヴェンクラッセに属するアッシュくんは戦いの後で疲労しているだろうに、休む気などないらしい。私達に任せてくれればいいのに、ちらりと覗き見えた天幕の中には、メルセデスさんが怪我人の治療にあたっているのが見えた。
よく観察せずとも、アッシュくんの着ていた衣類は黒く汚れ、頬に煤が付いている。怪我はないと言っておきながらも、その手の甲に傷があった。メルセデスさんに治療をお願いしなかったのだろうか。「わ、私、傷薬あるよ。使う?」と口にした私に、しかしアッシュくんは緩く首を振る。
「他に困っている人がいると思うので、その人たちに使ってあげてください」
僕なんて、軽傷なんですから。力のない笑みに、言葉を失う。
「アッシュ」
少し離れた位置からベレト先生に呼ばれたアッシュくんは、「じゃあまた学校で」とその顔に笑みを貼りつけると、私の隣に居たイグナーツくんに小さく会釈をしてからベレト先生の元へと向かう。
断られても、たくさんあるからと押し付けてしまえば良かった。傷の深さまでは分からなかったけれど、血が固まっていたとはいえ、あまりにも痛々しかったから。そう思ったけれど、そうしたところで、彼はきっとそれすらも断っただろう。
「も、イグナーツも、気を付けて」
振り向けば、もう一度こちらを見ていたアッシュくんが手を振っていた。気を付けて、なんて、そんなの数刻前のあなたたちにこそ伝えるべき言葉だったのに。
アッシュくんと初めて話をした竪琴の節よりも、幾らか逞しくなった背を見送りながら、私は知らず知らずのうちに唇を噛みしめていた。
この村で死んだ彼らが安らかに眠るための穴を掘る。そうして汗を流していれば、不甲斐ない自分を一時でも許すことができるのではないかと思った。
ルミール村は放棄されることになるだろうと想定はしていた。家を失った村人をガルグ=マクで受け入れることを明言したのはレア様で、亡くなった村人たちの弔いを全て終えた星辰の節、そして彼らはガルグ=マクに移り住むことになる。
ルミール村を襲った組織を指揮していたのは、書庫番のトマシュさんだったらしい。直に見たわけではないから半信半疑であったけれど、実際にトマシュさんの姿が前節からガルグ=マクになかったことは事実だ。
一体ルミール村で何が起きたのか。トマシュさんの正体は。彼は何を目的としていたのか。それらが繋がった先に何があるのか。教団によって情報統制がされてしまったのか、私たちがそれを知ることは、ついぞなかった。