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 ガルグ=マクの敷地内には野良犬や猫の類が多い。動物好きの生徒や信者の方が餌付けをしているから、というのが何よりも大きな理由であることは間違いなく、それが故に一度でも餌を与えたことのある人間は漏れなく動物たちに記憶され、卒業までの間を纏わりつかれて過ごすことになる。というのは入学前にお兄様から実体験として聞かされていた話だ。勿論、猫好きのお兄様はそれを感慨深く、宛ら良き思い出として語っていたわけだけど。
 とは言え、今年はそこまで小動物を可愛がるような生徒はいなかったらしい。敷地内を歩けば必ず見かける猫も犬も、特定の学生に執着する様子もなく思い思いに過ごしていた。
 だけど、前節からどうも鳴き声が響く様になっているような気がする。あまり気に留めないようにしていたけれど、私はその日とうとう目にしてしまった。門から釣り池に向かって歩いてきたベレト先生のその背後。甘えた鳴き声をあげながらべったりとついて歩く猫の姿を。



「ふむ。彼を見ていると、どうもヴァイルくんを思い出すな。ベレト先生は未だ彼ほどの域には至ってないようだが……」



 食堂の出入口を出た、丁度高台になる部分からベレト先生を見下ろしていた私の背後に立ったのは、兄の担任でもあったハンネマン先生だ。三年前を思い出しているのだろう。その瞳が懐かしむように細められる。恐らくその件で迷惑もかけただろう。「兄がすみません」と謝罪する私に、ハンネマン先生は緩く首を振った。



「いや。あれはあれで賑やかで良かったよ」



 だけど、実際に常に何らかの餌を持って歩いていたお兄様が三年前の在学中、ガルグ=マクの猫の数を増やしたということは事実だ。どうにも申し訳なく思えてしまう。
 しかしハンネマン先生はそんな私に構わず、ベレト先生の様子を思案するようにじっと眺めた後、やがて何か思いついたようにその語調を変えた。ハンネマン先生は、紋章学が絡むとその声の調子を変えるのだ。



「そういえば動物に好かれる、などと言った要素も紋章の有無によって変わるのだろうか。ベレト先生が連れている猫は二匹……。あの五倍は引き連れていたヴァイルくんとベレト先生を例とすれば、紋章がない方がより動物が寄ってくるのでは?あそうだ、ちなみにくんはどうだね」

「……私はまず猫に餌付けをしたことがないので……」



 ハンネマン先生の突然の仮定にも、わざわざ驚きはしない。ここまで彼の生徒として過ごしたのだから、これくらいは慣れっこだ。猫も犬も可愛いとは思う。けれど、だからと言って気軽に餌付けをしたところで、その後纏わりつく猫たちを邪険に扱うこともできずに兄のようになるのもごめんだった。だからこそ最初から相手をしないのが吉、と、風景の一部として捉えていた。一度でも触れてしまえば、たがが外れてしまいかねないことを、どこかで分かっていたのだ。



「何! それは意外だな……。ううむ、これでは仮定の域を出ない。ちょっとベレト先生に着いて回っているあの猫に餌付けしてきてくれないか」

「すみません。今は何も持ってないです」

「……そうか……。ならば仕方あるまい、今日のところは諦めざるを得ないか……」



 がくりと肩を落として去って行ったハンネマン先生の背中を見送ってから、目線をベレト先生に戻した。今日は先生の後ろにくっつく猫は二匹。後をついてまわる猫の存在に気が付いているのかいないのか、先生は顔色一つ変えはしない。
 少し前にイングリットちゃんに聞いた話なのだけれど、あれはどうやら前節、先生が釣り大会で余らせてしまった魚をガルグ=マク中の猫にあげて回ったのが原因らしい。



「余らせていたのならば私が食べたんですが……」



 落胆した様子を隠しきれないイングリットちゃんは、言い切った後ではっと顔をあげて「ですが空腹の小動物から食事を奪うなどと言った所業はしません」と拳を作って見せた。イングリットちゃんのご実家であるガラテア家は土地が痩せていて徴税もままならず、貴族であっても貧しさを感じることが多かったらしい。それと彼女の旺盛な食欲が関係あるかは分からないけれど。



「すまない。今日は何も持っていないんだ」



 視界の真ん中、不意に足を止めたベレト先生は、わざわざ猫の目線に合わせるようにしゃがみこんでそう口にした。ベレト先生の瞳は、こんな時でも感情に薄い。だけど、それでもずっと柔らかくなったのだ。食堂の外の階段にしゃがみこんでいた私に声をかけてくれたあの春と比べれば。
 私が学級の移動を断った数日前も、先生は言葉少なであったけれど、私を気遣ってくれた。「もしも気が変わったのなら、いつでも」最後まで言葉にしなかったのは、先生なりの気遣いだったのかもしれない。最後に猫の頭を撫でてから立ち上がったベレト先生を、猫はもう追いかけたりしなかった。温室へと向かう先生の後ろ姿を見送る。
 取り残された二匹の猫のうち、真っ白な猫は寮の方へと歩いていき、白と黒のはちわれはごろりと腹を出して寝転ぶ。今日は赤狼の節にしては雲がなく気温が高いから、日向ぼっこにでも切り替えたのかもしれない。遠目から、明らかに気を抜いている猫を見ていると、何だか落ち着かないような気持ちになってしまう。
 餌付けをしなければ大丈夫じゃないだろうか。何が、とは言わないけれど、何もかもが。
 猫は、兄ほどには好きではない。だけど、あの陽だまりに触れるような多幸感溢るる手触りも、感情豊かな尾も、丸い瞳も、本当は愛おしく思っている。今まで我慢していた小動物に触りたいと言う欲は、ベレト先生によってすっかり刺激されてしまった。
 階段をそっと降りて、釣り池の傍で寝転ぶ一匹の猫に近づく。ふわふわのお腹は薄い桃色で、背中を地面に擦りつけるから、美しい毛並に細かな砂や石がついていた。それが太陽の光を受けて、きらきらと輝いている。はちわれの猫はしかし私が近づくと、ぱっと体勢を戻して座った。こちらを見つめる瞳には、恐らく警戒が滲んでいるのだろう。だけど、しゃがみ込んで手を伸ばせば、その子は数秒の思案の後再び地面に転がり、そのお腹を見せてくれたのだった。
 可愛さの天井知らず。
 口にしたかったけれど、声に出したら驚かせてしまうかもしれない。吐き出した息に全ての感情を込めて、しゃがみこんだまま爪先だけをちびちびと動かしながら徐々に距離を詰める。だけどその子は最早私を警戒対象と認識していないようだ。そもそもガルグ=マクに居ついている時点で、この子たちは人馴れしているのだろう。そろそろと手を伸ばして、その顎に指先を触れさせる。ふわふわだ。ごろりとその喉が鳴ったのを、そのとき私は確かに聞く。顎をめいっぱい撫でると、気持ちよさそうにその目を細めてくれるからたまらない。



「かわ、かわいいねえ、かわいいねえ」



 感極まって漏れ出た声に答えるように、猫はぐるぐると喉を鳴らす。「あったかいねえ、今日はきもちいいねえ、日向ぼっこだねえ」ほとんど無意識に口から出る言葉に、今のは兄のようだったと我に返るけれど、周囲を見回しても誰もいないのだから問題ないだろう。
 成猫というよりかはまだ少し幼いだろうか。短毛で、理知的と言うよりは無邪気な瞳。夢中になって撫でていると時間を忘れてしまう。「なんてお名前なのかなあ。素敵なはちわれだねえ。かわいいねえ」尋ねたところで勿論猫はにゃんとも言わなかったけれど、背後から「そいつはベルグリージスだな」と声をかけられて息が止まった。さっきまで確かに人がいなかったはずだったのに。余程彼が気配を殺していたのか、或いは私が夢中になりすぎていたのか。その両方であるような気がするのは、相手がシルヴァンさんだったからだ。
 私は独り言を聞かれていたらしいという動揺を、彼の言葉を反芻させることで隠してしまう。



「べ、ベルグリージス?」

「そう、誰がつけたんだか知らないが、ガルグ=マクの犬猫には名前がついているんだぜ。あっちで毛づくろいしてんのは……フラルダリオリアスだったか?」

「知らなかった……ふ、ふらる、だり……」

「フラルダリオリアス。まあ、ほとんどのやつらは知らないさ」



 ベルグリージスもフラルダリオリアスも何だか聞いたような響きだけど、それこそ生徒の誰かが面白半分につけたのだろう。私の隣にしゃがみこんだシルヴァンさんは、「よーしよし」と私よりかは力強くベルグリージスのお腹を撫でる。ぐるぐる。それでも喉を鳴らすんだから、きっとこの子は特別なつっこいんだろう。



「シルヴァンさんはどうして詳しいんですか?」

「ん? 何が?」

「猫の名前。ほとんどの人は知らないんでしょう? 私もですけど」

「ああ〜……。……ほら、何をするにもさ、色んなことを知っておいて損はないだろ?」

「…………話題作りとか……?」



 私の言葉に乾いた笑いを浮かべながら目を逸らすシルヴァンさんの横顔は、鼻筋が通っていて分かりやすく端正だ。話題作りなんてしなくても、女の人は放っておかないだろうに。「そう言えば今日は女の人はいないんですね」思いついたことをそのまま口にすると、シルヴァンさんは肩を竦める。



がいるだろ」

「えっ。ええ〜?」

「なんだよその『ええ〜』ってのは」

「いやあ、その、噂は本当だったんだなあって」

「噂?」

「誰彼かまわず口説くって……」

「誰彼かまわないわけじゃないぜ。女性がそこにいるのに、声をかけない方が失礼ってもんだろ」

「ほら、誰彼かまってないじゃないですか」

「……ああ、なるほど」



 確かに、と言いながら神妙な面持ちで黙ってしまうから、思わず声をあげて笑ってしまった。
 ベルグリージスは、私たちの会話なんかどうでもいいとでも言うかのようにその丸い瞳をうっとりと細めている。シルヴァンさんの手は大きくて骨張っているからお腹を撫でられてもそんなに気持ちよくはないように思えるけれど、猫にしてみたらそうでもないのかもしれない。「懐かれてますねえ」と言えば、「まあ、動物に嫌われたことはないな」とシルヴァンさんは答えた。ハンネマン先生との会話を思い出したのは、偶然だ。



「うーん、じゃあやっぱり関係ないんですかね?」

「ん? 何が?」

「さっきハンネマン先生がね、紋章がない方が猫に好かれるんじゃないかって仮説をたてていたんですけど」



 シルヴァンさんは何に反応したのか、猫に向けていた目線を私に向ける。



「あ、確か前もお話しましたよね。うちの兄がね、尋常じゃない程猫に愛されてるんですけど、でも兄は私と同じで紋章なんてないので。やっぱり動物に好かれるのに関係ないんですかねえ、紋章の有無なんて」



 あとでハンネマン先生に教えてこよう。ほとんど独り言のように呟いた瞬間、それまで無警戒にお腹を出していたベルグリージスが飛び起きて、脱兎のごとく走り去ってしまった。「あっ」思わず手を伸ばしたけれど、その姿は正門の方へと消えている。もう少し一緒にいたかったのに残念だ。
 立ち上がれば、ずっとしゃがみこんでしまっていたせいで足が痺れていたことに気が付く。身体を伸ばしながら、「じゃあ私、そろそろ教室に戻りますね」とシルヴァンさんに声をかければ、彼は地面に落としていた目線をぱっとあげた。



「ああ、じゃあ、また」



 その細められた瞳の奥にあるものは、きっと彼にしか分からない。








 平和なもんだな。食堂へと続く階段を上っていくの背中を見ながら、ぼんやりと思う。
 紋章の話題を振られてしまったからつい尖った反応をしてしまいそうになったけれど、犬猫か、そんなこと、考えたこともなかった。世の中が全部、そう言うもんなら良いのになあ。紋章の有無がそんなささやかな日常を変えるだけのものでしかなければ、きっと誰も苦しまずに済んだ。英雄の遺産だの、家督がどうの、貴族としての特権がどうの、全く嫌になる。
 どうにもならないことを考えながら、を倣って伸びをする。クロードの手の平に乗ったままのあの女の子は、やっぱり、そんなことをいつまでも言っていられるくらいに、平和な場所で笑っていてほしい。なんて、俺にはどうしてやることもできないけれど。
 伸ばした指先には、未だ、あの猫の毛の感触が残っていた。


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