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その人はそうしても誰も文句の言えない立場であるはずなのに、決して不遜な態度を取りはしなかった。美しい金糸のような髪に、淡く澄んだ碧眼。端正な面立ちに、誠実そうな薄い笑みが浮かぶ。
「ベレト先生から話は聞いている。ルーヴェンクラッセへようこそ、。慣れないこともあると思うが、何か困ったことがあれば俺でも、他の皆にでも気軽に声をかけてくれ」
「はい。ありがとうございます。これからよろしくお願いします」
「……」
「……どうかしましたか?」
「……敬語なんてやめにしないか。お前が元はヒルシュクラッセの生徒であっても、これからは同じ教室で学ぶ仲間なのだから」
「……ディミトリくん……」
「ディミトリで構わない」
「え、ディ、ディミトリ……?」
「ああ。よろしく。」
ごつごつとした骨張った手だ。緊張で縮こまっていた心臓を、柔らかく撫でてくれるにはそれは少し力が有り余りすぎていたように思うが。ぎゅう、とその手に力が込められる。そういえば、ルーヴェンクラッセの級長は、紋章が影響しているせいか、その馬鹿力から何本も槍を駄目にしていると聞いたけれど、私の手まで破壊されはしないだろうか。握手を交わす手に目線を落とせば、徐々に力が込められていくように思う。「あ、あの」困惑に声が震えた。みしみしと骨が軋む音がする。だいぶ痛くなってきた。慌てて顔をあげれば、そこにいたその人は。
「駄目だろ。お前はそっちに行っちゃ」
浅黒い肌、美しい翡翠の瞳が細められる。それは間違いなく、我らがヒルシュクラッセの級長その人だったのだ。
「わーっ!」
知らないうちに握手をしていたはずの相手がディミトリくんからクロードくんに入れ替わっていたことに気が付いた瞬間、私は声をあげて飛び起きた。
はあはあと乱れた呼吸を整えながらあたりを見回す。悪夢だ。背中にかいた汗が、冷気に晒されて寒気に変わる。陽が昇って間もない室内は薄暗く、掛け布団から出た足はひんやりと冷たかった。士官学校の生徒が寝泊りする寮の二階にある私の部屋は、ヒルシュクラッセを示す黄色の絨毯が敷かれている。今は、薄闇の中の見慣れた色にただただ安堵してしまう。
温度の低い室内にぶるりと身震いして、はだけかけていた布団を丁寧に直してからもう一度枕に頭を埋める。まだ起きるには早すぎるし、勉強するにも寒すぎて布団から出られる気もしない。
しかし、なんて夢を見たんだろう。
ディミトリくんは夢の中でも爪の先まで王子様だった。勿論握手を交わす直前まではの話だけど。個人的に話をしたことなんか一度もないからこその理想の押し付けを感じる。大体呼び捨てで構わないと言われたとして、ファーガスの次期国王に対して関係性の浅い私が本当に呼び捨てにするなんて不敬も良い所だ。夢で良かった。薄らとした恐怖は喉に張り付いたままだけど。
私はルーヴェンクラッセに移ることを、勿論多少は考えたとは言え、やっぱりあり得ないと切り捨てたはずだ。クロードくんにだって一連の出来事を報告したし、私の考えも伝えた。ほう、そうか。へえ。と何か他の考え事でもしているかのように抑揚の薄い声で相槌を打つクロードくんに、私は落ち着かないような気持ちになったのだ。
まだきちんと断ってはいないけれど、と付け足した私に「じゃあ俺が言ってきてやるよ」と告げたのはクロードくんだ。あの時の彼の瞳が、いつもより温度が低かったように思うのは気のせいか。表情や目線に何か彼らしくない不純物が混ざりこんでいるような。
翠雨の節で、課題協力を断ることにしたと伝えた時と、似ているようで明らかに違う反応だ。あの時の彼は「俺が代わりに断っておいてやろうか」と言ってくれた。私に選択をさせてくれるのだなと思ったから、良く覚えている。結局あの時は私がきちんと断りに行ったのだ。だけど、今回のクロードくんは違った。
自分のことだから自分で断れるよ、そう伝えたのに、クロードくんは緩やかに首を振ったのだ。
「俺も丁度ベレト先生に話したいことがあったんだ。ついでだから、気にするなよ」
身体を丸めながら目を閉じる。そうしていても、なかなか眠気は訪れない。頭上から降り注ぐ不安の種が知らぬ間に身体の中に積もって、それが入眠を遮っているような感覚だ。
ベレト先生は私のことを考えて、先生にできる最大限の範囲での助力を申し出てくれた。それが学級の移動という、私からしてみたら予想だにしなかったものだっただけで、だからこそ私はそれを断ろうとしている。先生の厚意を拒絶することになる以上、私からきちんと断るというのが筋ではないだろうか。クロードくんに頼むのではなく。
そう答えを出した途端、自分の中で芽吹き始めたもやもやが根っこから溶けて消えて行ったように思えた。そうだ、やっぱりそこが気になっていたんだ。私からベレト先生に不義理を働いてしまうようで。断るならば、私がきちんと話すべきだ。
クロードくんは今日先生に話してみるって言っていたし、日中探し出して、クロードくんの後でも、先でも、どっちでもいいや、よく考えたんですけど、お断りしますと言わなければ。お気持ちは大変ありがたかったですと、でもやっぱり私はヒルシュクラッセのみんなと一緒に頑張りたいですと、伝えよう。そうすれば、きっとベレト先生だって頷いてくれるだろうから。
だけど、クロードくんはどうしてあのとき、あんなにおっかない顔をしてみせたんだろう。
勘違いか、いっそ白昼夢だったのだろうか。学級の移動を提言されたと伝えた時、クロードくんは確かにその瞳から感情を失くしたように見えたのだった。
あの時初めて、私は彼をちょっと怖いなと思った。ほんの少しだけ。
へえ、そういうことをするのか。俺はの話を聞いたとき、そう思ったのだ。
まあ、別に「ない」話ではない。ハンネマン先生の授業を受けたかったとぼやく生徒はヒルシュクラッセの外にも数えきれないほどいたしな。ただ、そいつらはぼやくだけで実際に行動に移しはしなかった。なんだかんだ、フォドラは保守的な人間が多い。勿論、今回のベレト先生からの申し出を断るころを決めたもその部類に入るのだろう。
話を聞く限りでは、も多少は揺らいだのかもしれない。ただをこっちに繋ぎ止めたのは、恐らく俺たちと一緒に過ごした時間ってやつだ。もし勧誘自体が入学からさして時間の経ってない春あたりのことであったら、どうだったかは分からない。まあ、その段階で声をかけられていたとしても、自身にそこまでの向上心があったかというと別の話だから、結局は机上の空論だ。考えるのは、結果として残った現在の事象のみで良い。
しかしまあ、やってくれるよなあ先生も。
に限った話ではないが、ヒルシュクラッセの仲間たちってのは俺の野望の実現のために欠かせない存在だ。ベレト先生の持つ圧倒的な力があれば、また話は別だったのかもしれないけどな。残念ながら先生は俺の隣を選んじゃくれなかったから、俺は益々ここにいる皆の力を必要としなくてはいけなくなってしまった。
同盟の未来を誰よりも強く案じているローレンツ。ヒルダは面倒くさがりだが戦闘における天賦の才は並みじゃない。リシテアの優れた判断能力も、国力を貯えたエドマンドの後ろ盾を持つマリアンヌも、騎士や傭兵を目指して日々研鑽に励むイグナーツやラファエル、レオニーだって、俺にとっては大事な力の一つに変わりないのだ。
そしてレスター諸侯同盟随一の穀倉地帯を持つアレキサンドル。あれが将来の俺にとって必要じゃないはずがない。俺についてくると決めたを、どうして手放してやれるか、ってね。だってあいつはもうあの日、俺の手を取ったんだ。「世界を変える」と言った俺を、あいつは信じたんだよ。
だからさ、困るんだ、先生。俺が大事に関係性を育んできた仲間を横から掻っ攫われるような真似をされたらさ。計算が狂うだろ。
ルーヴェンクラッセにいれば武器が上手く扱えるようになるって? いやいや、に必要なのはそういうんじゃない。勿論、最低限の覚悟ってのは必要だ。それを植え付けるための鷲獅子戦だった。戦場で守るべきは己の命と仲間であって、敵兵に向ける同情なんてのは必要ない。それはもうだって理解しただろう。俺はに武勲を取ってほしいわけじゃない。最低限、いざって時のために戦えなくちゃ困るわけだが、まあもうそこは問題ないはずだ。
なあ、先生。俺に必要なのはあいつら一人一人、そのものなんだよ。だから、奪わないでくれないか。
吐き出した息が存外苛立ったような音をしていたから、すぐに飲み込んだ。
ベレト先生を探してガルグ=マクをうろついた。イングリットに「先生ならば厩舎の方で見かけましたが」と助けられ、礼を言って庭園を通り抜けたその先で、俺はの声を聞く。
「先生、あの、一昨日の話なんですけど、やっぱり私……」
人の命を奪うための武器を振るうには頼りない後ろ姿。あの靴下の下に、の傷は眠っている。名誉の勲章と呼んで然るべきあの傷は、に根付いて久しい。
だから、責任を取るよ。。があれを負ってしまったのは、春にも言った通り、俺の責任なのだから。
俺から伝えると言ったのに、やっぱりは真面目だから、こうしてベレト先生に自ら告げに来たのだろう。それは予想していたことだったから驚きはしない。ベレト先生の反応も想像の枠からは出ず、ほとんど表情を変えぬまま、の話を聞いている。いや、だが、僅かに眉根が動いたか? あの先生の考えていることはなかなか掴めなくて、正直持て余してしまう。もしも先生が俺らの担任でいてくれたらまた話は違ったのかもしれないが。なんて、もう何度目になるか分からないこの妄想は何の意味も成さないな。
話が終わったのか、ぺこぺこと頭を下げて騎士の間の方へ立ち去るの後ろ姿を見送る。そういえば、青海の節、円卓会議から戻ってきたあの日も、彼女はここでローレンツと話をしていた。が去るのを待ってから、俺はいつも自分の存在を相手に知らせるのだ。
「先生」
だがローレンツと違って、先生は俺の存在に気付いていたらしい。俺が声をかけるよりも早く、の背へ向けていた視線をこちらに寄越した。その瞳は、春先よりは確かに人間らしくなったか。人間として生きるに足りなかった感情を、先生はガルグ=マクで身に着けている。
ルーヴェンクラッセはなかなか、表面からは分からないぬめりを持った生徒の集まりだっただろう。俺たちにしておけばよかったのに。そしたら先生は、きっともっと悩まずに済んだ。
それにさあ、先生。あんたが初めからこの手の上に乗っていてくれれば、その中で何をしようと、俺は別に構わなかったんだぜ。
「ヒルシュクラッセの生徒を誑かすのはやめてくれよ」
皆は俺にとって、大切な「仲間」なんだ。
そう続ければ、ベレト先生は分かりやすくその双眸を細めた。俺は、だからこの時、もしかしたらいつか先生とは、本当に武器を交えなければならなくなるかもしれないなと、頭の隅で思ったのだ。