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あんな言い方意地悪だ、と思ったけど、良く考えたらあれは先生からしてみたら当前の発言なのかもしれない。
士官学校の教師であるとは言っても、ベレト先生の本業はやっぱりどうしたってルーヴェンクラッセの担任だ。だから、ベレト先生がルーヴェンクラッセの生徒たちの成長のために尽力するのは当然のことだし、他学級の生徒のことまで構う余裕はそもそもないだろう。だから、あの時の先生の言葉は理に適っている。
けれど、おかげで昨日は散々だった。ローレンツくんとの勉強会に向けての予習復習もできないまま放課後になってしまって、結局彼に呆れられてしまったのだから。ローレンツくんに出された課題をこなす手は、しかし脳裏を過ぎるあのやり取りのおかげで止まってしまうことになる。
昨日、向かいの席に座っていたベレト先生は、言葉を選ぶことなく端的に告げた。
「が本気なら、ルーヴェンクラッセに来ればいい」
本気なのか冗談なのか分からないような、抑揚のない声音だった。
返事もできずに言葉に詰まる。口と目を中途半端に開いたまま、その発言の裏をかこうとしてしまって敵わず、目線を下げた。先生の食べかけの食事は、もうほとんど冷めてしまっているように見えた。調理された肉の断面図、今まで何ということもなく認識していたそれが、やけに赤黒く見える。顔をあげることもできぬまま、何か口にしなければと何度か言葉を紡ぎかけた喉が小さく鳴った。
「く、来る? え、ルーヴェンクラッセに? わたしが?」
「前例はいくつもあると聞いている。今年に限っては、それはないがな。師事する教師のために学級を移ることは珍しいことではないらしい」
「そ、そうなんですか?」
「実際、剣や槍に限定して言うなら、恐らくルーヴェンクラッセに居た方が伸びる」
そこで言葉を切ると、ベレト先生は再び食器を手に取り、残りの料理を口に運ぶ。気のせいでなければ、その時切り分けられた肉の大きさはさっきよりも一回りか二回り、大きかった。
ごちそうさま、そう呟いて席を立った後、先生は再度口を開く。「もしもその気があれば、声をかけてくれ」私はそこから動くことが出来ない。
学級を移る。ベレト先生の言葉は全く現実味がなく、私の表皮をつるりとなぞって床に落ちた。ベレト先生が食器を下げに行く後ろ姿を、私は視界の端で追っている。怒っているようにも見えたし、普段の彼と何ら変化がないようにも見えた。その真意など、読めるはずもなかった。
ルーヴェンクラッセに移るということは、今いるこの教室から離れるということだ。
勿論、同盟を捨てることになるわけではない。前例のある諸先輩方だって、士官学校での一年が終われば元いた領地に帰っただろう。つまり私が学級を移ることがあったとしても、それは授業や課題に関してのみ、加えて学校に在籍する間だけの話で、その後の身の振り方にかかわるわけではないはずだ。
だけど。
唸りながら机に突っ伏す。秋が終わろうとしているガルグ=マクの夕方は外気が低く、机も適度に冷やされていて火照った頬に気持ちいい。丁度席を立ったリシテアちゃんにぎょっとされてしまったけれど。
「……、あんた何をやってるんですか」
「あ、頭を冷やしている……」
「……理由は聞きませんけど、あまり冷やしすぎないようにしてくださいね。風邪をひかれても迷惑ですし」
「はい……」
リシテアちゃんは「では」と短く告げると、小脇に書物を抱えて教室を出て行く。放課後のヒルシュクラッセの教室からは、おかげですっかり人気がなくなってしまった。勿論、外からは人の会話や笑い声が聞こえてくるから、完全な孤独というわけではないけれど。「よおし! 掃除も終わったし、訓練に行くかぁ!」この声はアドラークラッセのカスパルくんのものだ。他の学級の生徒も、一年の半分以上が過ぎ去ってようやく声だけで判別がつくようになった。だけど、それだけでは学級を移動することの後押しにもならない。
ルーヴェンクラッセはファーガス神聖王国の出身者が集まる学級だ。
今から四年前、王国で後に「ダスカーの悲劇」と呼ばれる国を揺るがす大きな事件があったのは、フォドラに住まう者なら誰しもが知っていることだろう。当時の国王であったディミトリくんの父君、ランベール王が奥方様と共にダスカー人に殺害されたのだ。ランベール王は大規模な政治改革を行おうとしていたため政敵も多かったと聞くが、王国の内情までは詳しくは分からない。同時に多くの騎士の命も奪われたらしい。その中には恐らく、ルーヴェンクラッセに在籍する彼らの知人や、或いは親兄弟など、近しい関係にあった人もいたはずだ。
イングリットちゃんが、どこか余所余所しくダスカー人であるドゥドゥーさんに接していたのを見たことがある。彼も自身の出自を気にしているのだろう。誰に話しかけられてもその表情が緩むことなどないようだったし、実際にダスカー人を差別するような発言をする学生を見かけたこともあった。憎悪や差別、偏見の根は一朝一夕で消えるものではない。
ドゥドゥーさんは、今もどこか、学級自体と距離を置いているようにも見える。事件を起こしたダスカー人とドゥドゥーさんに直接の関係がないことを理解して、彼に何ら悪感情なく接する人間に対してすらも。身近な人間の死を知っている人間は、どこか底知れない闇がある。ヒルシュクラッセとルーヴェンクラッセの生徒たちの間に差異があるとするならば、恐らくそれだ。
「うーん……」
誰もいない教室で唸りながら顔をあげる。勉強も進まず、羊皮紙の隅に描き始めた渦が徐々に大きくなっているのを私は知っているけれど、それでもぐるぐると羽ペンを動かす手は止まらない。
ディミトリくんはひとたび武器を手にすれば猪突猛進気味なところが垣間見えるとはいえ、普段は実に王子様然としているし、学級の皆も彼を慕っているのが分かる。シルヴァンさんやフェリクスくん、イングリットちゃんはその領土が近いせいか、元々ディミトリくんとは幼馴染という間柄であるらしいし、普段の彼らからもその気安い雰囲気は滲み出ていた。
アネットちゃんとメルセデスさんは、二年前に王都にある魔導学院で共に学んで以来からの友人であるらしい。当時ローレンツくんも留学していたと聞くけれど、彼は王国内の揉め事で帰国を余儀なくされ、多くを学ぶことはできなかったと言う。このあたりの話はガルグ=マクに来てから聞かされたことだけど、特にメルセデスさんとは懇意にしていたのだとか。翠雨の節、ローレンツくんは課題協力の際に怪我を負ったときの、彼女の手際のよい治療について賞賛していた。穏やかで、献身的、心優しい女性だと。それは私が見ていても感じることができる。敬虔なセイロス教の信者であるメルセデスさんは、もしも私が中途に学級を移るようなことがあっても、きっと親身になってくれるだろう。アネットちゃんや、イングリットちゃん、アッシュくんだってそうだ。それに、フレンちゃんだって今はあの教室で学んでいるではないか。
だけど、なんだかやっぱり、私が学級を移るというのはありえない現実であるように思うのだ。
大樹の節からずっと仲良くしてくれるヒルダちゃんに、私の怪我をいつまでも気にかけてくれていたマリアンヌちゃん。レオニーちゃんは私のことを認めて度々訓練に誘ってくれるし、リシテアちゃんも私がいつまでも立式で唸っていると手助けしてくれる。面倒見のいいイグナーツくんも、私の食事量を心配してくれるラファエルくんも、私は大好きだ。勿論ローレンツくんも、クロードくんだって。
いくら未来の同盟のため、自己研鑽を目的としたものであっても、学級を移ることは彼らへの裏切りであるようにすら思えてしまうなんて言ったら、重いか。
「やっぱりなしなし、なし」
例え私の発言を受けた社交辞令であったとしても、お誘いは正直に言えば嬉しかったし、武器の扱いは確実に良くなるとの言葉は魅力的だった。だけど私はやっぱりここまで一緒に頑張ってきたヒルシュクラッセの皆と一緒に卒業したい。最後までクロードくんたちと学び、彼らと強くなりたいのだ。
「何してるんだ?」
ひとり頷く私に、しかしその時不意に声をかける人がいた。思わず「ぎゃっ」と肩を震わせる。こんなことが、度々あるのだ。クロードくんはガルグ=マクの至る所に目や耳をくっつけているのかもしれない。ヒルダちゃんの椅子を慣れた手つきで引いたクロードくんは、座りながら私の手元にある羊皮紙を覗き込んで「うわ」という顔をしてみせた。私の描いたぐるぐるは、私すらも気付かないうちに巨大な渦になっていたのだった。
「なんだなんだ? ここまでの渦を拵えるとなると、相当な時間がいるだろ」
「う、ああ、へへ」
愛想笑いで誤魔化そうとしたけれど、今更隠しても遅いだろう。それにそもそも、隠そうにもその渦は私の手の平から溢れる大きさになってしまっている。紙を無駄にしてしまったことが恥ずかしいけれど、無心で渦を描きながらの思案はなかなか捗った。「考え事をね、してたんだけど」机に肘をつきながらも、私の方に身体を向けたクロードくんの瞳はまるで私を見透かすようで、瞬きの回数すら、極端に少ない。
「でももう解決したから大丈夫なの」
「ほーう? なし、なんだよな? 一体何がなしなんだ?」
「えっなんで分かるの」
「いや、今さっきが自分で言ってただろ……なしなし、って」
「えっ」
思わず口元を手で覆ってしまったけれど、覆うなら今の私の口ではなくて数分前のそれでなければならないはずだ。「で、一体何が解決したのか、俺にも教えてくれないか?」細められた眦に、ぐ、と胸を押さえる。
クロードくんは、たぶんどういう言い方をすれば私の心を掴めるかを既に熟知している。「で、でも」と目線を大きく逸らしながら口ごもれば、駄目押しとばかりにクロードくんは笑った。
「級長として知っておきたいんだよ」
その言葉は今回のことと何ら関係がないようにも思えなかった。だって彼はヒルシュクラッセの級長だ。思わず彼の顔を見つめた私に、クロードくんは頬杖をついたまま目を細めている。
学級の移動なんて、なしだ。だけど、そういうことで一度でも悩んだ以上、級長への報告は義務に近いのではないだろうか。思案の後に、口を開く。私の一言一句を、彼はただじっと聞いている。
その双眸が僅かに揺らいだのを知った時、私は初めてそれが恐ろしいことのように思えた。