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 食事を済ませたら、最近少し怠けてしまっていた理学の勉強をしなければいけない。午前の授業の後、普段ならば一緒に昼食を摂ることの多いヒルダちゃんはアドラークラッセの男の子に呼ばれているのだと申し訳なさそうに教室を出て行った。残念は残念だけど、一人で食べるなら、おしゃべりですっかり時間がなくなってしまった、なんてこともない。無心で咀嚼をしながら、いつもよりも急いで飲み込んでしまう。
 勉強自体、やらなければ、やらなければと頭の隅に常にある状態で生活していると、やはり普段から息苦しくなってしまうものだ。ならばさっさと手をつければいいものを、元々苦手意識があるが故にどうしても後回しになってしまう。今朝とうとうローレンツくんに「、最近どうも君が理学の勉強をしている姿を見かけないのだが」と言われてしまった。



「い、いや、お部屋でやってるんですよね」



 目を逸らしながらそう言った私に、ローレンツくんは深くため息を吐いた。その表情で嘘がバレていることを察するけれど、一体何故彼はいつも私の嘘を見破るのだろう。読心術の心得でもあるのだろうか。



「やる気がないなら僕はもう勉強を見ないぞ」

「いや! それは困る!」

「……嫌ならばきちんとやりたまえ。今日の放課後、時間をあけておくから」

「は、はい……ありがとうございます……」



 そう言う約束をしたからこそ、せめて昼の間には最低限の復習をしておかなければならないのだ。
 ローレンツくんは人に教えるのが上手い。私が馬鹿みたいな間違えをしても苛立ったりせずに、淡々と間違いを指摘してくれる。元々私の性格を知っているからこそなのだろう。「君の場合は頭で理解しようとしない方が良い」と、私の特性から鑑みた指導をしてくれるから、先生に向いているんじゃないかと思う。以前そう言ったら何だか険しい顔になったローレンツくんに「僕は貴族だぞ」と言われてしまったので、以降は心の中で思うに留めているけれど。
 理学の成績でいったら、きっとリシテアちゃんの方が彼よりも上だし、その才能だって桁が違うだろう。だけど彼女の、本を読むときの何か追いつめられたような横顔を見るとどうしても「教えてほしい」の言葉が出てこなくなってしまう。時折リシテアちゃんの漏らす「時間がない」は、たぶん私が言うそれとは重みが違う。
 人の時間を貰うということ自体、本来ならばもっと慎重であらねばならない。だから、ローレンツくんに時間を割いて貰っていることに私は最大限の感謝を表さなければならないのだ。
 今度、また焼菓子でも作ろうか。この前のは何故かもさもさだったから。クロードくんにあげたやつはもう少しマシだった気がするんだけど。あの時と違ったことと言えば茶葉を練り込んだことだろうか。あの過程を除けばそれなりにまともな形にはなるかもしれないけれど、それだと味気ない気もする。



「俺は先に行っているぞ」



 その声に顔をあげた瞬間、食事を終えたらしいディミトリくんがシルヴァンさんにそう声をかけ、食堂を後にする後ろ姿が視界に入った。ディミトリくんと言えばルーヴェンクラッセの級長である前にファーガス神聖王国の次期国王様で、その槍の技術はルーヴェンでも屈指だと言う。
 ルーヴェンクラッセには、槍を好んで扱う人が多い。シルヴァンさんもそうだし、イングリットちゃんもだ。剣だけでなく、ほとんどの武器に造詣のあるベレト先生は、生徒のどんな要望にも応えて柔軟な指導をこなしてくれると評判で、もしも先生がヒルシュクラッセの担任をしてくれていたら、もしかしたら武器の扱いに関してはもう少しまともになっていたかもしれないと考える。だけど、慌てて首を振った。これじゃあハンネマン先生に不満があるみたいじゃないか。ハンネマン先生は良い先生だ。ベレト武器の扱いに長けているわけではないけれど、生徒一人一人に寄り添ってくれる。紋章学の授業にばかり力が入っているのは、ある程度仕方ないとして。
 恐らく苦情が入ったのだろう、釣り大会の余韻で魚尽くしだった前節の料理と打って変わって、最近はお肉の献立が多い。冷めかけたお肉を咀嚼している私の前の椅子が、その時引かれた。自分のお皿を見ていたせいか、その人の気配があまりにも希薄だったせいか、床が擦れるその音がしなければ私は彼の存在には気づかなかっただろう。だから、自分の手元に落ちた影に私は息を飲む。



「座ってもいいか」



 座った後で聞かれてしまった。
 顔をあげた私は、そこにいたベレト先生にほとんど悲鳴を上げる寸前だった。



「どっ、どうぞ」



 慌てて噛み砕いていたものを飲み込んで答える。私と同じ料理の乗った食器を机に置いたベレト先生は、私が頷くのと同時に銀食器を手に取った。
 びっくりした。今さっき、丁度先生のことを考えていたんですよ、とは勿論口にはできないけれど。わざわざこの広い食堂の中で私の向かいと言う席を選んだのだから、何か用事でもあるのだろうかと考えたけれど、待てど暮らせど先生が言葉を紡ぐ様子はない。
 小さくも大きくもない大きさに器用にお肉を切り分けたベレト先生は、その一つを口に運んで無言で咀嚼した。俯いたときその睫毛が彼の頬に影を落とす。
 突然向かいの席に座られて緊張してしまったが、しかし先生は平生通りだ。別に話があるわけでもなさそうだし、私が居ても居なくても恐らく何も関係ないだろう。私も気にしない素振りで残りのお肉を口に運ぶ。ならば予定通り、早めに食べてこの場を去ろう。
 そう思っていたけれど、先生は不意に「そういえば」と切り出した。春よりも感情表現が豊かになったようだとは言え、元々の性格もあるのだろう。普段のベレト先生は相変わらず、喜怒哀楽のどれもが薄いように思う。私よりも数倍に希釈された感情をその表情から読み取ることは難しく、私は緊張から思わず背筋を伸ばしてしまった。いくらその風貌が若いとは言え、ベレト先生はやっぱり教師だし、傭兵として長く生きた分私たちとはなにもかもが違う。その声から滲む細やかな圧は、ヒルシュクラッセの仲間たちからは感じ取ることはできないものだった。



「……最近変わったことはないか」



 ベレト先生の言葉に、私は一瞬だけ目を見開く。
 数秒後、先生が眉根を寄せたのはどうしてか。頭痛にでも苛まれているかのように目頭を押さえるベレト先生に、私は何と答えるべきかを思案し続けている。








「なんじゃなんじゃ今のは! 下手くそか!」



 自分では上手く切り出したつもりだったが、ソティス曰く今の会話の流れはあまりにも不自然だったらしい。
 シルヴァンの口にした「洗脳」と言う言葉の強さが影響していたのだろう。あれ以来どうも自分の中でそれが引っかかっていたようだと気が付いたのは、食堂で珍しく一人食事を摂っているを見つけたときに、その一挙一動を注視していた自分を意識してしまったときだった。



「おぬしの学級の生徒でもあるまいに」



 ソティスの言葉も尤もで、自分の見ている生徒たちですらまともに支え切れていない現状、のことまで気にかけるのは本分であるとは言えないだろう。だが、シルヴァンの言う通り、鷲獅子戦でのクロードのあのやり方は確かに極端だった。
 クロード=フォン=リーガンと言う男は、底が知れない。浮かべる表情、所作、吐き出す言葉、全てが計算し尽くされたあれは、どこまでが被り物なのか。なまじ賢く、行動力も伴っているからこそ、彼の言動には周囲を飲み込むだけの説得力がある。十七、八の少年少女なら、抵抗なく消化されるに足る条件が揃った人物だ。シルヴァンのように斜に構えた人間ならばともかく、木綿のようなは例えそのつま先が侵食され始めたところで疑問にすら思わないだろう。
 だがそもそも自分自身、それを悪だと断定しているわけではないのだ。これはここに来てから学んだことだが、レスター諸侯同盟は三日月戦争を経てファーガス神聖王国から独立した。その時反目していた諸侯を討伐し、ファーガス地方からの干渉を除いたのがリーガン家だと言う。以降、リーガンは常に同盟の盟主としての立場であり続けている。そういう歴史に起因しているのだろう。同盟貴族は自立心を尊びながらも協調性がない。名ばかりの相互扶助であり、本質は利己的で身勝手なのだと揶揄していたのは誰だったか。
 クロードはそんな同盟貴族の結束を強めようとしている。そう考えれば、彼の言動は許されるのではないだろうか。
 ただもしもそこに、他の理由があるとすれば、それは。



「先生」



 呼びかけられて、は、と顔をあげる。思考を遮られた。断ち切られたそれを、自分はそのまま手放してしまう。



「あのね、変わった事とかじゃなくて、ただの質問なんですけど」



 食器を皿に置いたは、きちんと両手を膝の上に乗せ、自分を見つめていた。真摯な双眸だ。まだ幼さの残る、少女から女性への丁度あわいにいる彼女は、意志を持った瞳を見せる。



「もしも私が先生に剣とか、槍とか教わったら、もう少し私も使えるようになりますか」



 どうしてその時、は「使える」などと言う言葉を選んだのか。
 眩暈がした。それがこれまでの体調不良によるものなのか、の発言に要因があったのかは分からない。だが、ぐらりと歪んだ視界の奥で、はどこまでも真剣な目で自分を見ている。使える。口の中で繰り返す。「使える」だなんて。



「――道具でもあるまいに」



 その時初めて、脳内のソティスと自分の声が被さった。
 自分たちの言葉に、しかしは意味が分からないとばかりに首を傾げるだけだ。


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