■ ■ ■



 ガルグ=マクから西にあるオグマ山脈、その麓のルミール村で異変が起きているらしい。
 村人が異常な行動に出ているとの報が入ったのは鷲獅子戦も終わった前節末だった。騎士団の先遣隊からの報告では、落ち着きなく動き回る者、攻撃的になる者がいる一方、眠ったまま起きなくなってしまう者と実にさまざまで、当初予想されていた疫病の可能性は低いと言う。マヌエラ曰く、ここまで症状がばらけている以上は複数の毒物か呪術の類であると考えるのが妥当であるそうだ。となると、何者かの思惑が動いているのは間違いない。
 その件について父と話をしている最中だった。ルミール村の一件が何らかの前触れであるように思えて、思案のために目線を落としたその瞬間、目の前にいた父の姿が揺らいだ。



「おい、ベレト。どうした」



 父は滅多に表情を動かさないが、この時ばかりは動揺していた。立っていられなくなっただけで心配をかけるほど自分は子供でもないのだが。ぐらぐらと揺れる視界にこめかみを抑えながら、首を振る。自分だけでなくソティスにまで影響があるほどの目眩は、今まで経験がなかった。








 あれ以来、時折強い眩暈に苛まれる。疲れがたまっていたわけではないとは思う。体調不良の予兆などもそれまではなかった。原因は不明だが、父に心配をかけてしまったことが心苦しいように感じられた。
 自分が体調を崩すこと自体、そうそうない。だからこそ父は、無理はするなと言葉をかけてくれたが、担任としての仕事がある以上そう言うわけにもいかないだろう。そう考えてしまった自分に、思わず笑ってしまいそうになった。つくづく、あの春から変わってしまったものだと思う。
 その日も軽い眩暈に襲われた。深く息を吐きながら、人気の少ない、手近な縁台に腰を下ろす。士官学校の校舎側は生徒の往来が激しいが、墓地の傍は時折セイロス教の信者や騎士が通りかかるだけだった。そういったことを熟知してしまっている自分に僅かばかりの動揺が芽生える。視界に映る荘厳な大聖堂は、もうすっかり身近な存在になってしまった。



「はあ、それにしても、最近はなかなかどうして芳しくないの……一体どうしたものか……」



 ソティスの細い声に緩く首を振りながら、背もたれ部分に体重を預ける。色づいた木の葉が足元に落ちていることに気が付いて、もう秋が終わるのだと気が付いた。
 季節の変化など、これまでの自分にとっては些事だった。涼しい時期の依頼はやりやすいが、雪があれば移動は困難だし、この時期であれば冬籠り前の動物を狙った狼に気を付けなければならない。一年が過ぎ去ることに感傷的な気分になったことなど一度もなかった。
 だが、今は何となくそれが惜しいような気になっている。
 士官学校の担任と言う立場を与えられてから、既にどれだけの月日が流れたか。アドラークラッセ、ルーヴェンクラッセ、ヒルシュクラッセ、それぞれ出身地が違う生徒たちが集まる以上、その学級の毛色は明らかに異なる。あの時自分がルーヴェンクラッセを選んだのはどうしてか、今誰かに尋ねられても、自分は明確な答えを提示できないだろう。
 傭兵としてフォドラを転々としていた自分は、それぞれの国に特別な思い入れがあるわけではない。最低限、国の成り立ちや風土を理解している程度だ。そこに明確な好悪や順位はない。それは、傭兵として生きる上で無駄なものだ。
 大樹の節、日が昇りきらない早朝にルミール村を出立しようとしていた父と自分の元に助けを求めに現れた三人の級長たちの姿は、今でも鮮明に覚えている。アドラステア皇帝となることが約束されたエーデルガルト=フォン=フレスベルグ。ファーガス神聖王国の次期国王とされるディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッド。去年まで存在が公にされてはいなかったらしいレスター諸侯同盟の時期盟主、クロード=フォン=リーガン。それぞれ未来のフォドラを担う若者が顔を並べる年なんて、生きている間にはもうないだろう、ハンネマンがそう口にしていた。
 背負っているものが計り知れないからこそ、彼らは年相応ではいられない。値踏みするような目を見せたエーデルガルトに、人好きのする笑みの下に何かを隠したクロード、その中でディミトリの目の昏さが気になった。彼のいる学級を選んだのは、それが引っかかっていたからなのかもしれない。自分でもよくわからないが。
 ちかちかと緩い点滅を繰り返していた目の裏がようやく平生を取り戻し始める。細く長い息を吐ききった瞬間だった。



「あれ? こんなところで何してんですか? 先生」



 と、聞き慣れた声が背後から届いたのは。
 首だけで振り向いて存在を確認すれば、そこには予想通りにシルヴァンが居た。



「珍しいな」

「え? 何がですか?」

「一人だ」

「ああ、いやー、最近は俺、そんなに女の子と一緒にはいないですよ」

「? どうして」

「……フェリクスのやつにしつこく付きまとわれているからです。今も」

「……ああ」



 前節の鷲獅子戦の際、二人はまんまとクロードの策に嵌った。自己内省の結果、行き場のない切歯扼腕を過剰な鍛錬で昇華させることを選んだのは言わずもがなフェリクスの方で、シルヴァンはそれに付き合わされているのだろう。



「一日二日程度だったら俺だって付き合いますよ。でも、もうあれから何日経ってます? そろそろ俺は解放してくれ、って言っても全く聞かないんだから、先生からも言ってやってくださいよ」

「……構わないが、自分が言っても聞くかどうか」

「あ、分かった、先生が鍛錬に付き合ってやればいいんですよ、……と思ったけど、あれ? 先生、顔色悪いですね?」



 良く気が付いたな。言葉にはせずに捻っていた身体を戻せば、何故かシルヴァンは自分の隣に腰を下ろした。珍しいこともあるものだ、と視線を送らずに考える。



「あんたでも疲れることってあるんですねえ」

「まあ、たまには。体力が無尽蔵にあるわけでもないしな」

「へえ〜。なんだ。色々人間離れしてるから、本気で人間じゃないのかと思ってましたよ」



 冗談めかして笑うシルヴァンに眉根を寄せる。脳内に住みついた少女のことを思えば、少し普通の人間と言い切るには異質であるかもしれないが、まあこれに関してはどうしようもない。「おぬし、そのようなことを言っても良いのか? わしがいなければ既に死んでおることをゆめゆめ忘れるなよ」不意に釘を刺されて、目を細める。
 それにしても、シルヴァンがこうして自ら自分に近づくことは滅多になかったから、何だか新鮮なことのように感じられる。彼は自分の背負ったもの、生い立ちや、廃嫡された兄、纏わりつく紋章の問題について悩んでいるところがあったが、恐らく本当に彼が助けを必要としていたとき、自分は何の助言もしてやれなかった。自分のように紋章を持ちながらも面倒事に巻き込まれずに生きてきた人間が妬ましいと、はっきり口にされたことすらもある。その根は深く、自分がどうこうしてやることはできないだろうと踏んでいたからこそ、ある程度の距離を保って彼に接していたのは事実だ。一方でシルヴァンも互いに手さぐりで築き上げた透明な膜の存在に、無理に触れるようなことはしなかった。
 だが、共に過ごした日々はその膜の存在ごと互いを飲み込む。人間関係とは、総じてそういうところがあるものらしい。彼は今、かつて確かに自分を突き刺した刃を上手く隠しているし、自分もあの時の傷をなかったことにしている。



「しかし鷲獅子戦、まさかあれで勝てちまうとはねえ、先生」

「まあ、運が良かったとは思うが。ローレンツが指示通り動いていれば、負けていただろうな」

「運! なるほどねえ。ちなみに先生はあの時どうしてローレンツがあんな愚策を取ったのか想像つきますか?」



 目を細めてこちらを覗き込むシルヴァンに、思わず顔を離す。「いや」と言えば、彼は意地の悪い笑みを浮かべた。



「先生、や〜っぱそういうことには疎いですよねえ」



 でも、考えてみてくださいよと言われて、思案のために口を噤む。
 クロードの戦術は悪くなかった。ローレンツの暴走がなければ、恐らくヒルシュクラッセの勝利は固かっただろう。顎に手を押し当て目線を落とす。クロードとローレンツ。あの二人は傍から見てもその仲が良好であるとは思えない。顔を合わせればローレンツの方がクロードに噛みつくというのが自分の目から見た印象で、しかし、だからと言って全く認めていないというわけではない。それぞれ家が抱える事情が背景にあるのは間違いないが、ローレンツのあの暴走がクロードを嫌っての行動である、と決めつけるのは如何なものか。ローレンツ寄りに考える時点で、自分はコナン塔での課題に協力してくれた彼のことを無自覚のうちにではあるが、それなりに買っているらしい。
 シルヴァンは黙る自分に一層目を細めて見せる。彼がこういう表情をする場合、と考えれば、彼の言う「愚策」の理由は自ずと判断できそうではあるが。だが、彼は自分が答えを出すよりも早く「ところで」と突然話を変えてみせた。



のやつはすごかったですねえ」

?」

=フォン=アレキサンドル。ご存知でしょう?」

「ああ」

「いやあ、すごかったんですよ、彼女。先生は見てませんでしたか?彼女が俺に槍を投げた瞬間。あの時はちょっとひやっとしちゃいましたね」

「ああ、……まあ、あれは、そうだったな」



 ころころと話を変える彼を怪訝に思いながらも、シルヴァンの言葉に誘導されるように、あの日の彼女を思い出す。確かにあの時のはなかなかいい動きをして見せた。とは言え、厳密に言えば評価することが出来るのはあれが「鷲獅子戦」だったからだ。もしも本当の戦場であのような行動を取っていたとすれば、褒められたものではない。フェリクスたちに気づかれない形での森への誘導は見事だった。だが、いくら指揮官を守るためとはいえ敵に背を見せることは自分の命を投げ出すことと同義だ。
 クロードは、敢えて隙を見せて怪我を負った。彼と対峙したシルヴァンだからこそそれが分かるのだろう。「に本気を出させるためにわざと自分が怪我をするなんて」シルヴァンのその口元には、苦々しい笑みが貼りつけられている。



「本当の戦場じゃないからこそできたんでしょうけど、なかなか大胆なことをしますよね。クロードも」



 隣を見やれば、シルヴァンは大聖堂の上空警備に当たった天馬を見上げながらほとんど独り言のように吐き出した。その瞳が、どこか乾いて見えたのだ。



「影響を受けやすいあの子がクロードに洗脳されちまうんじゃないかって心配なんですよ」



 そう吐き出したシルヴァンは、最後に大きなため息を吐いて立ち上がる。「さて、ここまで言ったらさっきの問題の答えが先生にも分かりますかね?」思いもよらない言葉に目を丸くした自分に、シルヴァンはとうとう、ふは、と声を出して笑ったが、ローレンツの行動との問題がどうして絡むのか、全く見当がつかない。
 眉を寄せた自分に、シルヴァンは肩を震わせながら「あのねえ、さっきのは俺の話じゃないですよ。心配だどうだっていうのは、俺じゃなくって、ローレンツの話ですって」と口にした。
 つまり、ローレンツの暴走はの身を案じてのことだと言いたかったのだ、シルヴァンは。
 それが脳に染み渡るまで時間がかかったのは、ソティスが馬鹿笑いしていたせいで間違いない。


prev list next