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「あ、



 アッシュくんに呼び止められたのは、その日の授業を全て終えた放課後のことだった。
 幸か不幸かグロンダーズでは彼と顔を合わせることはなかったから、釣り大会のとき以来だろうか。寮に戻るのかと尋ねられたので書庫に本を返しに向かうところなのだと答えれば、彼ははっと目を見開いて、「ちょっと待っていてもらえませんか」とルーヴェンクラッセの教室に戻る。それからいくらか経って私の元に駆けてきたアッシュくんの腕には、数冊の本が抱えられていた。



「丁度僕も返さなきゃいけない本があるのを思い出しちゃって。良かったら一緒に行きましょう」



 ガルグ=マクの書庫は充実している。大広間の二階、先生の研究室や医務室のある通路の突き当りのさらに先に行かなければならないから、ちょっと遠くて不便ではあるけれど、ここまで書物を集めるだけでも大層な手間と費用がかかるのは間違いない。ここの蔵書を好きなだけ読めるというだけで入学した甲斐があったと以前イグナーツくんも言っていたし、与えられたこの環境を利用しない手はなかった。
 イグナーツくんやリシテアちゃん、時折クロードくんも難しい顔をして書庫を利用しているのを見かけるけれど、アッシュくんも本を読むのか、と彼の腕にある本に目線を向ける。弓の教本か何かの類かと思ったけれど、視界に入った背表紙でそれが子どものときに読んだ騎士物語の一つだと気が付いた。郷愁に似た何かが込みあげてくるのを感じる。あ、それ、どういう話だっけ、そう言いかけた瞬間、アッシュくんは「シルヴァンから聞きました」と口を開くから、思わず言葉を飲み込んだ。



「え? シルヴァンさんから? 何を?」

「鷲獅子戦ですよ。、すごく頑張ってたって」

「へえ?」



 思わず声が上ずってしまった。そりゃあ勿論頑張ったけれど、改めて人から言われるとどうだろう。私はクロードくんの指示に従っただけだし、フェリクスくんとシルヴァンさんと対峙した時も彼らを森へ誘導しただけで、二人を離脱させるに至ったのはリシテアちゃんの魔法だ。その後に至っては何の役にも立たなかった。それをもごもごと口にすれば、アッシュくんは「そんなことないですよ」と首を振る。
 大広間の裏口から室内に入ると、それまで皮膚を刺していた空気が和らいだような感覚になる。赤狼の節に入って、ガルグ=マクはめっきり寒くなってしまった。アレキサンドルより南にあるとは言えど、標高が高い分これからの季節はそれなりに寒くなるらしい。寒いのは得意ではないから、実を言うと今から少し憂鬱だ。なんて言うと、厳しい寒さだと言う王国の北部に住むルーヴェンクラッセの人たちには笑われてしまいそうだけれど。



「でも、アッシュくんもすごかったよ。クロードくんが褒めてたもん」

「えっ僕ですか?」



 私の言葉に目を見開いたアッシュくんに強く頷く。
 そもそも賞賛されるべきは私ではなく、丘の上を最後まで死守して鷲獅子戦を勝利で治めたルーヴェンクラッセであるべきだ。終盤あの弓砲台を利用して丘への侵入を防いだのはアッシュくんだったし、結局突破口を見出すことはできなかった。



「あの弓砲台、あれはアッシュか? いや〜な狙い方をするよなあ。誰を狙えば陣形を崩せるかを熟知してるぜ、あれは」



 半笑いでそう言ったクロードくんの声は、記憶に新しい。そう告げれば、アッシュくんは笑いながら緩く首を振った。こんな優しい声で笑う人が、クロードくんやエーデルガルトさんが攻めあぐねていた丘で弓砲台を操っていたのかと思うとぞっとしないものがあるけれど、言葉にすることはやめておいた。



「あはは。お世辞でも嬉しいです。ありがとうございます。でもこそ、クロードを守るために自分の身を呈して槍を投げたんでしょう?」

「え、いや、なんかあれはもう無我夢中だったし、それに、全然届いてなかったし」

「総大将を守るために咄嗟の判断でそれができるんだから、すごいですよ。森への誘導も見事だったって。ああ、これはベレト先生が言っていたんですけどね」

「いや、いやいや、そんな、わ〜、全然、本当にそんなことないんだけど……なんか照れるね」



 自分の知らないところで褒められているというのは、何とも言えずに面映ゆい気持ちになってしまう。私がアッシュくんを褒めていたはずだったのに。照れ隠しに自分が手にしていた本を無意識に抱きしめたけれど、自然に緩んでしまう頬ばかりはどうにもならない。私は単純なのだ。
 鷲獅子戦の後に借りた用兵術の本は入門編とは言え少し難しかったけれど、読んでみるとなかなか面白かった。指揮の勉強は自分には関係ないものだと思っていたけれど、そうやって切り捨てるのは可能性を自ら潰すのと同義だ。クロードくんが何気なく皆に出していた指示の意味が薄ら分かる、それだけでも十分意味がある。今日もまた似たような本を探してこよう、そう考えたとき、不意にアッシュくんが切り出した。



「フェリクスがあれ以来益々鍛錬にのめり込むようになってしまって」



 視線は前方へと向けられていて、だからこそ私は隣を歩く彼のその横顔に、あれ、と思う。話しているその内容にではなくて、何だか急に、自分の視界に違和感を覚えたのだった。



「それでシルヴァンまでフェリクスの鍛錬に付き合わされちゃって、結構大変なんですよ」

「アッシュくん、背がのびた?」

「はい?」



 話を遮ってしまったけれど、ぱっとこっちを見たアッシュくんの目線の位置は、やっぱり何となく前よりも高くなっているような気がした。前まではほとんど変わらなかったと思うんだけど、と首を傾げれば、アッシュくんは「ああ」と言って、僅かに眉尻を下げる。



「ほんの少しですけどね」

「ええーそっかあ、いいねえ男の子って、まだ伸びるのかあ」

はもうそれくらいで充分じゃないですか?」

「ローレンツくんと話してると首が痛くなるから、もうちょっと欲しいなって思うときはあるよ」

「ああ、いや……それは仕方ないと思いますよ、彼は士官学校の中でも背が高いですし……」

「ね、なんであんなにすくすく成長できるんだろ」



 でも、だからこそこの前は部屋に入る隙をつけたんだけど。腕の下をくぐって彼の制止を振り切ったことを思い出して、浮かんだ笑いを噛み殺そうとしたけれど、それは呆気なく口の端から漏れてしまう。ふふ、と笑う私に、アッシュくんは「イングリットやシルヴァンたちを見ていても思うんですけど、幼馴染って良いですね」とその目を細めるから、私は余計なことまで思い出して言葉に詰まってしまった。
 あの時は咄嗟に誤魔化したけれど、先日ローレンツくんに言われた言葉は、食堂でお皿洗いのお手伝いをしているときだったり、大浴場で身体を洗っているときだったり、眠る前だったり、不意に脳裏を過ぎって私を殴っていくから、本当は少し参っていたのだ。
 アッシュくんの言う通り私たちは幼馴染で、でも、一般的に想像されるそれとは、ちょっと違う。竪琴の節では、互いの利のためにと幼馴染であることすら隠すように提案されたくらいだ。結婚相手を探すときにお互いの存在が枷にならないようにという意味だったけれど、ならばこそ、私たちはそういう関係には成り得ないはずだった。彼もそう考えていると思っていたのに、「もしも本当に貰い手がなければ、僕が君を貰ってもいいか」だなんて、あんまりにもな冗談だ。
 そんなことを考えていたら、神妙な顔をしてしまっていたらしい。アッシュくんに「どうかしたんですか?」と首を傾げられてしまって、私は慌てて首を振った。
 ローレンツくんの言葉の真意は分からないけど、これ以上考えても答えが出るものではなかった。あれから、それまで沈んだ様子だったローレンツくんが少しずつ本来の調子を取り戻している、それだけで充分だ。
 春に出会ったときよりも少しだけ大きくなったアッシュくんの隣を歩きながら、何だかじんわりと胸の奥が痛くなっていることに気が付く。その痛みの正体が何なのか、今の私には分からない。








「えっ、トマシュさん、まだ戻らないんですか?」

「ああ、私も心配しているんだが、連絡がなくてね」



 書庫番のトマシュさんは、前節にガルグ=マクを出てから戻らないらしい。物語を集めた書棚に向かうアッシュくんと別れた直後、書物を確認していたセテス様にそう教えられてがっかりする。この本の次はどれを選ぶべきか相談がしたかったのに、一人で選ばなければいけなくなってしまった。
 だけど、仕方なく一人で本を選ぶ私の背後から不意に、にゅ、と手が伸びた。褐色の手の持ち主はそのまま一冊の本を引き抜いて「それを読んだなら、次はこれが良いんじゃないか?」と私に差し出すから、本当に、彼の行動には心臓がいくつあっても足りない。
 振り向けば案の定、悪戯っぽく笑ったクロードくんが居るから、私は自分が今どんな顔をしているのかも分からなくなってしまう。「あ、ありがとう、ございます」思わず敬語になってしまう私に、クロードくんはその双眸をはっきりと細めて「いやいや、どういたしまして」と笑った。














 ヒルダちゃんと浴場に向かう帰り道、忘れ物をしてしまったと寮の部屋に戻ったヒルダちゃんを見送ったその直後に学生寮の物陰から声をかけてきたその人は、いつも私が一人の時に現れるような気がする。偶然かもしれないけれど。



「よ、偶然だな」

「ひえッ」

「お前も毎回毎回飽きずによく驚くな……」

「や、だって気配ないじゃないですか、驚きますよ」

「はは、こんな美少年、立ってるだけで目立つだろうが」

「夜じゃなければ目立つかもしれないですね……でも私、そんなに夜目も利かないですし」



 話していて気がついたけれど、そういえば彼に声を話しかけられるのはほとんどが夜だった。竪琴の節、教室にいた私の背後から手元を覗き込んできた時以外は。段々と目が慣れ始めたおかげか、暗闇の中でもはっきりと光る猫のような目に、私は何だか不意に戦いてしまいそうになる。



「も、もう次は驚きませんからね、逆に驚かせるくらいしますから」



 感情の揺れが伝わってしまうのが嫌で、咄嗟にそんなことを口にしたら、その人は分かりやすく目を丸くした。「は? お前が? 俺を?」上擦った声に、こくこくと頷く。



「はは、そりゃあ良い。やってみろよ。ま、できねえと思うがなあ」



 咄嗟に口にした言葉だったけれど、そんな風に言われてしまうと面白くない。反論しようとしたその時、私の背後から「おーい! ちゃん、ごめんねー!」とヒルダちゃんの声がして、ぱっと振り向いた。まだ遠くにいるヒルダちゃんに手を振って答えてから、もう一度彼の方に目線をやる。だけど、びっくりした。その人の姿は忽然と消えてしまっていたのだ。



「あれっ?」



 びっくりしてしまって、慌てて周囲を見回したり、傍にあった植木の陰を覗いてみたりするけれど、やっぱりいない。そうこうしているうちにヒルダちゃんが「お待たせー」と戻ってきたので、私は首を傾げながらも、ヒルダちゃんと共に浴場へと向かうのだった。「くく」と小さな含み笑いが聞こえた気がしたけれど、それがどこからかなんて、ちっとも分からなかった。


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