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 鷲獅子戦が終わってから、ローレンツくんは何だか元気がない。
 考え込んでいるように目線を落としていることが増えたし、グロスタールに相応しい女の子に声をかけているところも最近は見かけない。鷲獅子戦での独断行動を反省しているのかもしれないけれど、それでも終わった事にばかり囚われているのは彼らしくない気がした。鷲獅子戦の直後に彼をなじったレオニーちゃんが「ちょっと言い過ぎたかな」と彼に声をかけていたけれど、ローレンツくんは薄く笑って首を振っただけだった。他にも彼を悩ませる何かがあるのだろうか。
 クロードくんから分かりやすく距離を置き、ほとんど一人でいるローレンツくんのその声を、最近はあまり聞いていないようにすら思えた。最後に彼と話をしたのは、グロンダーズ平原から戻った翌日だっただろうか。借りていた上着を返した私に、ローレンツくんは「ああ」とだけ言って、それから何だか困ったような顔をしてみせた。その表情の意味が私には分からなかった。どうしたら良いか分からなくて目線を落としたその瞬間、彼の双眸が私の足に向けられていたことに、私は気が付かなかったのだ。








 私がその日に彼の部屋を訪れようと思ったのは、上着を貸してくれたお礼をするためでもあったけれど、それ以上にゆっくり話す時間を得るためだった。
 赤狼の節に入って初めての休日の昼下がり、私は小さな包みを手提げに入れて、ローレンツくんの部屋に向かった。基本的には、士官学校の生徒は休日だろうと自室に居ない人の方が多い。訓練場に入り浸ったり、釣りをしたり、食堂で誰かとおしゃべりしたり、庭園でお茶を楽しんだり、或いは当番の仕事をこなしたり。自学のために部屋に籠る人もいるけれど、それはほんの一握りだ。だからローレンツくんが部屋に居る可能性はそんなに高いようには思えなかったけれど、最近の彼の様子を思えば、ひょっとしたらと考えたのだ。



「ローレンツくん、私です。いるー?」



 扉を叩いた瞬間、中からがた、と物音がしたのを私は確かに聞いた。闇雲にガルグ=マク中を捜しまわることにならずに済んでほっとする。彼が出てくるのを待ちながら、そもそも「私です」で通じるだろうか、と思い直した。「です」と名乗りかけたその瞬間、しかし扉は内側から開かれた。ローレンツくんは私を見ると、その切れ長の瞳を一瞬だけ丸くした。久しぶりに目が合ったことにすらじわじわと嬉しさが込みあげてきて、私は思わず笑みを浮かべる。ローレンツくんの双眸には、腑抜けた顔をした私が映っていた。



「……。何か」



 僕に用事でも、僅かに困惑した様子のローレンツくんがそう続けるのを待たずに扉を支える腕の下を潜り抜けて、私は勝手に部屋に入り込んだ。ローレンツくんは背が高いから、こういう時、どうしたって隙が出来てしまうのだ。「あっ、こら」咎めるような言い方にも知らないふりをして、私は部屋の真ん中でローレンツくんに振り向く。



「へへ、おじゃまします」



 勿論、普段だったらこんなことはしない。きちんとご挨拶をして、用件を伝えて、部屋にお邪魔させてもらうとしたら本人から誘われたときだけだ。幼馴染と言う気楽な関係性を利用した私に、ローレンツくんは何か言いたげに眉根を寄せたけれど、最後にはとうとう長いため息を吐いてそのまま部屋の扉を閉めた。
 ローレンツくんの部屋は本人の几帳面な性格をそのまま表しているかのように整っていた。窓際に置いてある花瓶には、恐らく温室で育てられたのだろう花が生けられている。紅茶が好きな彼は茶器の類にも拘るらしく、美しい絵の付けられた茶器が置かれていた。間違ってもいつかのリンハルトくんの部屋のように書物が散らかっていることはない。「お部屋、きれいだねえ」と思ったことをそのまま口にする私に、ローレンツくんは「誰と比べているかは知らないが、これくらい当然さ。部屋の乱れは心の乱れ、重々覚えておきたまえよ、」と普段とほとんど変わらない口調で答える。そうしながら机に近づき、置いてあった紙を裏返したから、それを気にかけるなと言う方が無理な話だ。どうやら彼は、何か書き物をしていたらしい。



「何を書いてたの?」

「…………詮索は貴族的ではないぞ」

「お手紙? 私も昨日お兄様から届いたの。この前グロンダーズでお会いしたばかりだったのに。急に心配性になっちゃったみたい。でもローレンツくんにお手紙が届くとしたら……おじさま?」

「……。……まあ、そんなところだ」



 目を逸らしながら今度こそその紙を机の上にあった箱の中に片付けてしまうローレンツくんの横顔は、何だか焦っているようにも思えた。触れられたくないことでもあるのだろうか。でも、きっとグロスタール伯からの手紙だったら、お兄様のように当たり障りのないことやどうだっていいことが羅列しているわけではないだろうし、きっとお返事にも気を遣うのだろう。もしかしたら鷲獅子戦のことを綴っていたのかもしれない。忙しいときに来てしまったことに、申し訳ないような気持ちになる。
 早く用事を済ませた方が良いかな、と、慌てて話を切りだした。



「あのね、この前、鷲獅子戦のあと、上着を貸してくれたでしょう?」

「……ああ、そうだったな」

「とても助かったの。ああいうとき、靴下の替えはきちんと持っていないと駄目だね」

「君が怪我をしない、というのが一番いいんだがな」

「あは、そうなんだけど。でもそう言うわけにもいかないし」



 非現実的な言葉を向けられて、冗談だと思って笑ったのに、しかしローレンツくんはその双眸を僅かに緩めることすらしてくれなかった。切れ長の瞳が、す、と細められるから、心臓が音を立てる。ローレンツくんはこうして見ると酷く整った顔立ちをしているから、訳もなく緊張してしまうのだ。私はだから、慌てて持っていた手提げから包みを取り出す。



「あの、それでね、今更なんだけど、これお礼なの。お茶うけにどうかな〜って思ったんだけど」



 馬鹿の一つ覚えと言われればそれまでなのだけど、私に出来る贈り物と言えば焼菓子くらいしかない。昨日の夜に食堂を借りて焼き上げた焼菓子には、紅茶の葉を練り込んだ。ローレンツくんと言えば昔から紅茶が好きだって言うことを知っていたから、特に深く考えずに以前イグナーツくんから分けてもらった茶葉を使ってみたけれど、そもそも考えてみればローレンツくんは舌が肥えている。手作りの焼菓子なんて、喜ばないかもしれない。この前リシテアちゃんが「ローレンツの持っているお茶菓子が信じられないくらいに美味しいんですよね」と唸っていたことをよりによって今思い出してしまったせいで、差し出した包みを既にひっこめたくなってしまった。



「……これは、君が作ったのか?」

「あ、うん、そうなんだけど。でもローレンツくんはあれかな、もっと良いの、食べなれてるもんね」



 言いながら自分の元に引き寄せた瞬間、手首ごと掴まれてぎょっとした。ローレンツくんの細い指先は、骨張っていて硬い。だけど、意識してしまったのはきっと私だけだ。ローレンツくんは顔色も変えずに私の瞳を見下ろしている。



「いや。紅茶を用意するから、待っていてもらえないか」



 ローレンツくんを元気づけたくて、せめて話をするきっかけになればとお礼も兼ねて焼菓子を作った。強引に部屋に入り込んで、そうして私の目論見は叶ったはずなのに、私は何故か身を硬くしてしまっている。ローレンツくんがそのまま離した手首にまだ熱が残っているような気がして、無意識にそれを胸に寄せた。
 訳も分からずどくどくと脈打つ心臓になるべく意識を向けないようにしながら、お茶の準備を始めるローレンツくんの後ろ姿を見る。








 が作ったと聞いて思わず反応してしまったが、少しみっともなかっただろうか。
 十年の間疎遠であったとは言え、僕の知る彼女はそう言う女性らしさからは少し離れたところにいたように思えていたから、手作りと聞いて少し驚いたのだ。



「イグナーツくんがおすすめしてくれた茶葉があってね、それを生地に混ぜてみたの」

「ほう。イグナーツ君の選んだものなら間違いはないな」

「うん、普通に飲んでもとっても美味しかったんだけど、聞いてみたらお菓子に混ぜても大丈夫って言ってくれたから」



 思ったよりも平素通りに話ができていることに安堵する。恐らく心配してくれているのだろう彼女には、出来る限り普段通りの自分を見せておくべきだと思った。抓んだ焼菓子を口に入れると、心配そうにこちらを見つめると目が合うから、思わず笑ってしまった。「美味しいよ」そう呟けば、彼女は分かりやすく口元を緩める。
 の作った焼菓子は、正直に言えばそこまで出来が良いわけではなかった。砂糖を入れ過ぎたのか、元々僅かに酸味のある茶葉の風味と喧嘩しているようだったし、口の中でもたつく。とは言えそれは彼女の言う通り、普段からもっと質の良いものを口にしているからこそ感じるもので、目の前で紅茶の入った茶器に口をつけて相好を崩す幼馴染を見れば、わざわざそれを指摘するような野暮なことなどする気も起きなかった。
 しかし、突然あんな形で部屋に滑り込んでくるとは思わなかった。気を抜いていたつもりはなかったが、身長差があるからこそだろう。彼女のような小柄な女性が部屋を訪ねてくることなど一度もなかったから、脇の下を潜り抜けられること自体想定外だった。
 僕であるから問題はないが、他の人間に対してもこういった行いをするのではないかと思うと気が気ではない。世間知らずなところのある子だから、幼馴染としては不安にもなる。
 少し注意した方が良いだろうかと悩んでいると、視線を感じた。目線をそちらに向ければ、は気の抜けた顔で僕を見つめているから、どんな顔をしたらいいのか分からなくなる。
 鷲獅子戦以降、彼女が僕を気にかけてくれているのは分かっていた。だが、僕が今抱いている蟠りは、彼女にぶつけていい類の感情ではない。机の下に隠れた彼女の足、は今日も傷痕の隠れる長い靴下を履いている。あの布の下の肉を、僕は今でも覚えている。マリアンヌさんの治療の後、その腿に伝った血をハンカチで拭ったことも、すぐにそれが赤く染まったことも。あの時の傷が永遠に彼女に残ることなど、少し考えれば分かることだったし、その深さだって僕は知っていたはずだ。あれはずっと残るだろう。彼女の身体に、刻印のように。
 だけど、あれが名誉の勲章と呼ばれていいものであるはずがない。あれから一週間が経った今でも僕はそう思うし、彼女にそんな言葉を告げたであろう男の存在を憎んでしまうのだ。
 僕を見つめた彼女は、僕の表情が険しいものになっていることに気が付いたのだろう。小さく首を傾げながらも、彼女は初めてその焼菓子に手を伸ばして口に入れた。「あれ? もさもさだ」目を見開いて首を傾げるから、思わず絆されて、笑ってしまいそうになる。そうだな、もさもさだ、だけど、そんなに悪くないよ。練習をすればそれなりに上手くなるだろうし、僕ならそれを待っていてやれる。戦わないと言う選択肢を選ぶつもりのない君からしてみれば、それは逃げでしかないのだろうけれど、だけど、僕はに、痛みなど知らずにいてほしいと思うのだ。
 なんて、甘いか。







 彼女曰くもさもさの焼菓子を紅茶で流し込んでいるところに声をかければ、は目線だけをこちらに向ける。僕は以前、酷いことを言ってしまった。これ以上傷が増えれば嫁の貰い手がなくなるなどと。傷の具合がどうであれ、あれは軽率に言っていい言葉ではなかった。「んん?」咀嚼したものを飲み込んでから首を傾げる彼女に、僕は続けた。
 君はあれを本気で受け取ってはくれなかったようだったけれど、僕は、最初から冗談で済ませる気などなかったよ。



「もしも本当に貰い手がなければ、僕が君を貰ってもいいか」



 彼女にとっては突拍子もない発言だったのだろう。目を丸くしてから実に数秒の空白の後、はしかし、僕の言葉に笑った。



「アレキサンドルは、グロスタールにはつりあわないよ」



 今更そんなのどうだっていいのだと僕が言ったところで、説得力など欠片もないか。








 紅茶を飲み終えた頃、は「じゃあ、そろそろお暇するね」と席を立った。部屋の外まで見送ろうと立ちあがれば、しかし彼女は「あれ?」と床にしゃがみ込む。何か落ちていたか、と視線を落とした瞬間、息が止まった。その手にあったものに、嫌と言うほど見覚えがあったのだ。つい今しがたの自分が向き合っていた、一枚の羊皮紙に。
 慌てて彼女の手からそれを取り上げる。「見たのか?」尋ねながら、自分の声が上ずっていることを知った。さっき全て片付けたはずだったのに、一枚だけ床に落ちてしまっていたらしい。
 昔から僕は、処理しきれない感情の波を詩という形で書きとめる癖がある。僕の書きなぐった詩は、の網膜にこびりついてしまっていたのか、彼女は何とも言えない顔で僕を見つめていた。手紙と言うことにしておいたのに、これではもう言い訳もできない。羞恥で息が詰まる。「見てない、見てない何も、見てないです」君は昔から、嘘を吐くときは目を逸らすのだ。
 には、二度と詩を見せることはないだろう。叫びだしたいのを堪えたのだから、いっそ褒められて然るべきだ。


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