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リシテアちゃんに回復魔法をかけてもらったことで、切れたらしい腱は元に戻り、血も止まった。比較的浅い怪我で済んだのは、やっぱり武器が真剣ではなかったからということに尽きるだろう。
気を失ったフェリクスくんを担いで場外へ離脱するシルヴァンさんには「も無理はするなよ」と声をかけられたけれど、私はそれに小さく頷くことしかできなかった。当たらなかったとは言え、直前に槍を投げた相手と平気な顔で話せるはずがなかったのだ。目を合わせることもまともにできない私に、シルヴァンさんは「ヤバくなったら、とっとと降参するのも手だぜ」と当たり障りのない言葉を選ぶと、軽く肩を叩いた。その手の平はほんの一瞬で離れて行ったのに、触れられたその部分だけがずっと熱を放っているみたいだった。
治療を受けて痛みはなくなったけれど、しかし背後から切られた上に地面に転んでしまったことで、はいていた靴下が完全に駄目になってしまった。立ち上がって確認してみると、破けたそれは私の膝から脛にかけての皮膚をところどころ露出させていて、脱ぐ以外の選択肢がない。おかげで隠していた大樹の節の傷痕が露わになってしまった。広範囲に渡り皮膚の薄くなった太腿はお世辞にも見栄えが良いとは言えない。とは言え替えの靴下なんか持っているわけもないし、我慢するしかない。
自分より先に私の治療を優先させてくれたクロードくんは、木の根元に座り込みながらリシテアちゃんが魔法をかけてくれるその手元を見ている。肩と、お腹の二か所に怪我を負った彼の出血は私よりも多く、顔色が優れないのはここから見ても分かった。
「それ、今の怪我じゃないよな」
不意にクロードくんに切りだされて、私は面食らってしまう。一瞬何のことかと返答に迷ったけれど、彼の目線は私の足へと向けられていたから、言わんとしていることはすぐに察した。見た目の良くない物を見せてしまったことへの申し訳なさに消えてしまいたくなったけれど、クロードくんはほとんど表情を変えはしなかった。きっと彼も、これくらいの傷痕は見慣れているのだろう。右足のそれは深く、一見して裂傷であることが明らかだ。リシテアちゃんなんかは浴場で良く会っているから見慣れているのだろうけれど、それでもどこか同情するような目を向けられてしまう。
「これは違うよ。今は後ろからだったから、こっちのふくらはぎの方」
慌てて脛を彼らに向けると、「今回のは浅い傷だったので、痕にはならないですよ。今は薄ら残ってますけど、数日で消えると思います。まあ心配だったらマリアンヌにも見てもらったら良いんじゃないですか。彼女の方が専門ですし」とリシテアちゃんに言われた。もうこの足の傷痕とは一生付き合っていく覚悟はできていたけれど、増えるとなるとまた話は別だったから有り難い。これ以上傷が増えたら嫁の貰い手がなくなると、いつだったかローレンツくんに言われていたし。
クロードくんに向き直ったとき、けれど、彼はその双眸を細めて笑った。「そっか」と、短く頷いたその人は、私の足を痛ましく思うような目をしてはいなかった。
「のそれは、名誉の勲章だな」
それは濁りの無い笑顔だった。陽の光そのもののようだった。私は、この足の傷から目を逸らさずにそう言ってくれる人がいるだなんて、思ってもみなかったのだ。限界まで見開いた眼球が、ひりひりと痛む。なんと答えるべきか分からないけれど、それでも今はただ、胸が苦しい。
彼は私にとって、ただひたすらの正だ。私は最早無条件で彼を信頼しているし、彼の力になりたいと心の底から思っている。間違いじゃない。この気持ちは、誰にも否定させたりはしない。
治療の終わったクロードくんが立ち上がる。丘の東は既にヒルダちゃんたちが制しているようだ。クロードくんのこれからの策を私は知らないけれど、それでもきっと、彼には勝ち筋が見えているのだろう。ルーヴェンクラッセの主力をここで削げたのは大きい。
「そろそろディミトリが後退してくる頃か。そこを見計らって俺たちも……」
「クロードさんっ」
背後から聞こえたその声に、私たちは咄嗟に振り向く。
「ど、どうしたんですかマリアンヌ」
森の奥から駆けてきたマリアンヌちゃんは、その顔面を蒼白にして、乱れた呼吸を整えるよりも早く「ローレンツさんが、ローレンツさんが……ッ」と、その人の名前を口にしたのだった。続けられたマリアンヌちゃんの言葉に、クロードくんは長くため息を吐く。
「……おいおい、マジかよローレンツ」
予想だにしなかったのだろう、クロードくんは、苦虫を噛み潰したような顔で、けれど小さく笑った。私にはその笑みの意味が分からなかった。
丘の上もそろそろ再び戦場になるか。悠長に眺めていないで、動き出さねばなるまい。
西からのアドラークラッセの攻撃は何とか凌いだようだが、東は上手くいかなかった。やはりクロードは二手、三手先を良く見ている。
フェリクスもシルヴァンも、徐々に森の中に入り込んでいたことに気が付かなかったらしい。手負いのクロードをどうにかここで仕留めようと気負ったか。シルヴァンは彼の思惑に途中で気が付いた可能性はあるが、退くには遅かったのだろう。フェリクスは森に潜んでいたリシテアの魔法を受け、シルヴァンもそれを見て降伏。ここで二名の離脱者は痛い。
丘の南に向かったディミトリも、援護がなければ持ちこたえることはできないはずだ。そろそろドゥドゥーと共に退く頃だろうが、エーデルガルトはそれを見逃すほど甘くない。そして、東には余力を残したヒルシュクラッセがいる。未だ姿を見せないローレンツとマリアンヌは、森の南で様子を見計らっていると見ていいか。恐らくアドラークラッセが退却するディミトリを追って進軍した、その背を挟むつもりだろう。クロードもそちらに合流する気でいるのかもしれない。既にここまでで兵を消耗したルーヴェンクラッセと、アドラークラッセ。その両軍を挟撃する余力が、ヒルシュクラッセには残されている。
指揮能力の差が出たな。
この状況では、足掻いたところでうちは勝てないだろう。帰ったら反省会をすべきか、いや、まずは健闘を讃えるべきか。知らず知らずに息を吐いたその瞬間、しかし、南東の森から一騎の兵が現れたのを、視界の端で認めた。
ローレンツ=ヘルマン=グロスタール。
指揮系統の乱れか、或いは独断か。後退し始めたディミトリを追うアドラークラッセの隊列に、彼は単騎突っ込んでいく。あれがクロードの作戦でないことは確かだ。利点が一切ないのだから。
「あらあら〜。ローレンツったら、どうしたのかしら〜」
首を傾げるメルセデスに、けれど自分は何も答えない。いや、答えられなかったのだ。自分には、あの行動の理由が読めない。「ほう? どうしたんじゃ? あれは」ソティスの声に首を傾げながら、その動きを見つめる。ディミトリを追っていたアドラークラッセの隊列が乱れた。ローレンツにいち早く気が付いたのは、カスパルか。カスパルはすぐさまローレンツに応戦する。意図は読めないが、多少なりとも時間稼ぎに貢献してくれるならば、こちらにも勝機はあるか。
「メルセデス。ディミトリ達が戻ってきたら、急いで手当てをしてやれ」
それだけ告げ、丘の東を見る。ヒルダやレオニー達は、クロードの指示を待っているのだろうか。ほとんど平地を制圧しかけていたが、まだこちらに向かってくる様子はない。
部隊を整える時間を与えられた以上、このまま挟撃にされて食われるだけ、という線はどうにか回避できたか。あとはディミトリがいかに冷静になれるかにかかっているだろう。ドゥドゥーに肩を担がれながら戻ってきたディミトリに、メルセデスが駆け寄る。西からは間もなくアッシュ達も合流を果たすだろう。その時までに、クロードは新しい策を打ち出すことができるか。
丘の下を見下ろせば、思案を重ねているらしいクロードの姿が目に入った。人心掌握を得意とする男にも、一筋縄ではいかない相手がいるらしい。彼が読むべきは、敵の心情だけではない。クロードにとっての課題もこの鷲獅子戦では見えただろう。そしてその失態を逃がすほど、自分の生徒たちは腑抜けてはいないのだ。
「すまなかった」
鷲獅子戦の閉式の後、全員の前で彼は深々とその頭を下げた。
ローレンツくんは、与えられた任を放棄して単騎でアドラークラッセの軍勢に突撃した。おかげでアドラークラッセの隊列は乱れたけれど、同時に退いていたルーヴェンクラッセに時間を与えてしまった。
シルヴァンさんとフェリクスくんを欠いていたとは言え、一度整えられた陣形を崩すのは容易ではない。アッシュくんに弓砲台を使用する隙を与えてしまったのも致命的で、結局今年の鷲獅子戦を治めたのはルーヴェンクラッセだった。
「命令を無視してまで目立ちたかったのかよ」
歯に衣着せぬ物言いで、レオニーちゃんが彼を批難するけれど、ローレンツくんはただ申し訳なかったと謝るばかりでその理由を述べようとはしない。彼の背中に腕を回したクロードくんが、真意を確認するように彼に何かを尋ねているようだったけれど、その声は私たちまでは届かなかった。
「クロードが怪我を負ったと聞いて、時間を稼ぐために攪乱を狙ったんでしょうね」
ほとんど独り言のように、リシテアちゃんが呟く。
「彼からしてみれば、クロードの怪我というのが想定外だったんでしょう。シルヴァンとフェリクスの二人がクロードに対して攻勢に出ている、その結果クロードが怪我を負った。それだけを聞かされれば、動揺するのも仕方ないかもしれません」
「……うん」
「マリアンヌをクロードの支援に回して、体勢を立て直している間に自分が陽動の役を担うつもりだったんでしょう。いずれにせよ、クロードを信用して待つことができなかった、と言う点でローレンツに非があるのは覆せない事実ですけど」
「うん。……うん、そっか、うん」
リシテアちゃんの推論に頷きながら、私は腰に巻いた上着の袖を、知らず知らずのうちにぎゅうと握りしめていた。
ヒルシュクラッセの敗北が決まって、数刻ぶりに顔を合わせた彼は、酷い顔で私を見た。いくら治療を受けたとは言え、単騎で戦い続け撤退を余儀なくされた彼の方が、怪我は深刻だったはずだ。だけどローレンツくんは駄目になってしまった私の靴下を、そうして露わになった私の傷痕を凝視して、「それは」と、掠れる声で言ったのだった。
これは大樹の節の時に負った怪我の傷痕で、今回怪我をしたのはふくらはぎ側にある傷だけであることを説明しながらその部分を指差す。実際、私はフェリクスくんから受けた以上の怪我を負うことはなかった。圧倒的不利な状況に追い込まれた時点で、クロードくんが白旗をあげてくれたからだ。
「腱が切れただけで血もすぐ塞がったし、傷も消えるって。大丈夫だよ、もう痛くないし、こっちもね、名誉の勲章なんだよ」
暗い顔をしていたローレンツくんを元気づけようと思って、クロードくんに言われた言葉をそのまま口にしたのに、ローレンツくんはその瞬間、大きくその目を見開いた。
彼はやがて、言葉もなくその上着を脱いだ。「これを腰に巻いておきたまえ、少しは隠れるだろう」ローレンツくんの上着は大きくて、言われた通りに腰で結ぶと、その腕の部分がだらんとお腹の前に垂れ下がった。そうすると、上手い具合に袖が私の腿の傷を隠してくれるのだった。ありがとうと、そう言おうとしたのに、ローレンツくんはとうに私に背を向けてしまっていた。
リシテアちゃんとガルグ=マクへ帰還する準備を進めながら、二人に目線を向ける。ローレンツくんはクロードくんにほとんど表情らしいものを浮かべないまま、ぽつりぽつりと何かを話しているようだった。
あの時は、少しでも時間を稼いでおきたかった。予想よりもルーヴェンクラッセの退却が早かったためだ。クロードが負傷したと言う情報が入った以上、まだアドラークラッセの追撃を許すわけにはいかない。マリアンヌさんをクロードたちの元へ向かわせたのは、彼女を巻きこむわけにはいかないと思ったのと、怪我人の治療を優先してもらうためだった。
直情的な行動であったことは認めよう。だが、クロードの傍に居るをこれ以上危険な目に遭わせたくはなかったのだ。自分が直接助けに行くことが叶わないならば、間接的にでも負担を減らしてやらねばと。結果論として、僕の判断は暴走と呼ばれるに値するものであったけれど。
アドラークラッセの戦力は、多少は削ぐことが出来た。とは言えあの時間稼ぎは結局ルーヴェンクラッセへの援護にも繋がってしまったのだから、レオニーさんが怒るのも分かる。僕は冷静ではなかった。結局戦線離脱を余儀なくされた僕を迎えたのはの兄君で、彼は治療を受ける僕の傍らで、しかし僕を責めることをしなかった。あの時点で雌雄は決していたと言うのに、彼は僕の傍に足をつくと、「は無事だ、今のところはだが」と、宥めるような柔らかな声音で口にした。
と同じ髪の色をした青年は、やはりと同じくして、優しすぎる。責めてくれても構わなかったのだ。判断力に欠けた男だと。「ローレンツ君が達のために動いたのは分かるから」そんな言葉をかけてもらわなくても良かった。
どうしても帰らねばならなくなったと、従者に耳打ちされたヴァイル殿は閉式を待たずにグロンダーズを発った。
「急ぎの用ができてしまった。にも、良く頑張ったと伝えておいてもらえないだろうか」
彼の言葉に頷いた。もしも彼がのあの脚を見ていたら、僕のこの行き場のない感情を、怒りを、彼は理解してくれただろうか。
大樹の節でが負ったあの傷痕を、僕はあの夜以降この目で見たことがなかった。彼女があれ以来、足を隠すようになっていたためだ。訓練時も、夏の盛りも、は決してその足を晒そうとはしなかった。深い傷であることは知っていた。僕が負傷した彼女を抱えたのだから。
しかし、あんなに残ったのか。
その傷痕は、遠目からでもはっきりと視認できるほどだった。皮膚は広範囲に渡って薄く変色し、その継ぎ目は明らかだ。息が止まりかけた。凝視しては失礼だ、そう思ったのに、彼女はまるでそこに何の痛みもなかったかのように目を細めるから、僕は、その肩を掴みたくなったのだ。
「名誉の勲章なんだよ」
誰が君の傷を、そんな聞き心地のいい代名詞で形容したのだろう。
あれが名誉であるものか。僕はそんな言葉、君の口から聞きたくなかった。
グロンダーズの空は、十年前に君の隣で見たそれと良く似た色をしていた。あの頃の君は、何も疑うことなく僕だけを信頼してくれていたのにな。
ガルグ=マクへ戻るその道中、僕の前を行くの背中は、けれど、あの頃よりもずっと大きくなっている。