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ガルグ=マク大修道院に士官学校が建設されたのは今から約二百年前の話だ。
パルミラの侵攻をきっかけに外敵の脅威を取り除くため国家の枠組みを超えて優秀な人材を育てることを目的として、当時の大司教が創設したと伝えられている。鷲獅子戦とはそんなガルグ=マク士官学校の伝統行事で、毎年飛竜の節の末にガルグ=マク南東のベルグリーズ伯領、グロンダーズ平原で行われる三学級による三つ巴の戦いだ。その規模は、大樹の節の学級対抗戦とは比べ物にならない。
最近のクロードくんは特に機嫌が良い。戦いの舞台となるグロンダーズ平原がなかなか面白い地形をしているらしく、戦略の幅が無限大なのだと地形図を眺める。
「分かってはいるだろうがクロード、正々堂々勝負するのだぞ。くれぐれも相手に一服盛ろうなどとは思うなよ」
「あっはっは。俺がそんな卑怯な手段を取るように思うか? 男たるもの、武器を持ち正面から戦うべし! だろ?」
「クロードくんもよく言うわよねー、この前言ったこと忘れちゃってるのかなー?」
ローレンツくんとクロードくんの会話を耳にしたヒルダちゃんが、こそりと私に耳打ちする。ハンネマン先生やマヌエラ先生が今年は級長に指揮を取らせると宣言する中、ベレト先生は変わらずルーヴェンクラッセを指揮するというのだから、その不公平さにいっそ腹痛を引き起こす薬でも仕込むかと冗談めかして彼が言ったのは記憶に新しく、私は曖昧に苦笑した。
「おーい聞こえてるぞーヒルダ」
「えー? 気のせいじゃない? ねえちゃん」
ヒルダちゃんにぐい、と腕を引き寄せられて私はちょっとだけ困ってしまう。
しかし本当にクロードくんは掴みどころがない。彼の本音がどこに隠されているのかを見極めることは容易ではないからこそ、ローレンツくんも苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべるのだろう。
ガルグ=マク士官学校の最大の行事と言ってもいい鷲獅子戦を一週間前に控えた今、浮足立つ生徒もいれば、勇み立つ者も、程好い緊張感を維持し続けている者もいる。ヒルシュクラッセは、その点で言えば穏やかなものだったのではないだろうか。マリアンヌちゃんなんかは足手まといにならないように後方に控えていたいと呟いていたけれど、続けられたクロードくんの言葉にその表情が和らいだのを私は見た。
「まあ、勝つに越したことはないが、勝っても負けても構わないさ。折角の鷲獅子戦なんだ、楽しもうぜ」
掴めない人だ。だけど、彼には私たちを惹きつけてやまない力がある。それはきっと、ヒルシュクラッセにいるからこそ分かる感覚なのだろう。クロードくんがそう言って笑ってくれるから、私たちはともすれば強張りかける肩の力を抜けるのだ。
彼の言葉や表情には、そういう力がある。
その日の放課後、私は教室に残って手紙を書いていた。
自分の部屋でも良かったけれど、寮に戻ってしまうと何となく空気が籠ったような感じがして息苦しい。教室は好きだ。例えそこにいるのが自分一人でも、教室の外や窓の向こうにある人の気配を密に感じることができるから。以前レオニーちゃんと街へ出かけたときに買った便箋に兄の名前を記した後、私は先日届いた手紙を手に取る。
ガルグ=マクに来て以来、父とは時節ごとの手紙のやりとりを欠かしたことはなかったけれど、兄の名が記された手紙を受け取ったのは初めてだった。
三つ年上の兄は、妹の私から見ても欲のない人だ。貴族としての意識はそこまで高いわけではなく、領民との距離は精神的にも物理的にも近い。昔から訓練よりも農作業の類が好きだと言って憚らなかったせいもあるのだろう。母から仕込まれた剣技はガルグ=マク士官学校で磨かれはしたものの、最近はめっきり剣を握ることをしない。鍬の方が手に馴染む。と手紙にあった通り、兄は穀倉地帯としてのアレキサンドル領を愛しているのだった。
兄弟仲は良い。兄は私が社交界に出ることを拒んだときも、「俺がいれば問題ないでしょう」と父や母を取り成してくれた。私が舞踊の類を酷く苦手としていることを知っているから、無理をすることはないと言ってくれる。貴族であろうが平民であろうがその前に俺たちは人間だから、どうしても耐えきれないことは避けていい。支え合っていけばいいのだ。いつか勇気が出たときに、一緒に舞踏会に出ると良い。その時は俺が手を引こう。その言葉を支えにして逃げ続けた結果が今の私であり、兄だ。けれど恐らくそういう考えを、ローレンツくんは強く否定するだろう。私たち兄妹は恐らく貴族としては出来損ないだ。
見合いの話を断ったと聞いた。そう言った文章から始まった兄の手紙は、叱責かと思えばとりとめのない雑談で埋め尽くされていた。
初めて植えた作物が順調に育ったこと。母が遠縁の親戚の結婚式のために帝国の首都アンヴァルへ出かけたこと、帰ってきた母は式よりも観光ついでに観劇したミッテルフランク歌劇団の舞台が印象に残ったらしく、繰り返し話して聞かせること、最近犬に追われたこと、見慣れた筆跡は私を責めることをしないから、私は無意識に噛みしめていた唇を解いた。もうすぐ鷲獅子戦だな。三年前の俺は早々に負傷して一切活躍できなかったから、妹のお前が一矢報いてくれることを願う。三年前のヒルシュクラッセが鷲獅子戦で負けたことは知っていたけれど、兄の口から初めて語られた真相に思わず笑ってしまった。時期は違えど、兄妹揃って真っ先に戦線離脱することになるなんて、情けないやら面白いやら。
手紙を読み返すことに気を取られてしまっていたせいだろう。私は声をかけられるまで、人の気配に気が付かなかった。
「お、何やってんだ?」
真上から降ってきた声に、私は手にしていた手紙を思わず握りしめてしまう。首をあげて相手を確認するまでもなかったけれど、ほとんど反射で見上げてしまった。思いの外至近距離で私を見下ろしていた彼と目線が絡むから、思わず息を飲んだ。そんな私の反応が面白かったのか、クロードくんは悪戯が成功したような子供のように目を細めて小さく首を傾げる。いつもだったらそこで隣の椅子を引いて座るクロードくんは、今日は立ったまま机の横に手をつくだけだ。
「ああ。手紙の返事か。ご苦労さん。ヒルダほどじゃないけど、もよく手紙が来るよなあ」
やっぱりの家族も心配性なのか? と続けられて、緩く首を振った。彼が私をヒルダちゃんのところと比べているのは明白だった。ばくばくと音をたてていた心臓は、もう一度手紙に目線を落としたときには正常な拍動に戻っていた。
ヒルダちゃんは私の数倍の頻度でお兄さんのホルスト将軍から手紙を受け取っている。大した用事もないのに、毎回返事を書くこっちの身にもなってよーと文句を言いながらも、それでも欠かさずに返事を送るヒルダちゃんもよほどお兄さん思いだ。
「うちはヒルダちゃんほどじゃないよ。お兄様から手紙が届いたのも人生で初めてだし」
「ああ、そうか、にも兄貴がいるんだったな。そういえばあまり聞かないが……どんな人なんだ?」
「ん、どんなって言われると難しいな……昔から優しいは優しかったけど」
だけど、子犬に追いかけられて私を盾にするところもあるから、頼りがいがある兄です、とは胸を張って言えない。「すごく言葉を良くして言うなら、自分に足りないところは他人に任せるような人かなあ」だから兄は、話に聞くホルスト将軍とは、きっと対極の位置に居る。
「ほー、人の力を頼るのか。悪いことじゃないだろ」
「うん。だから、自分にも他人にも優しいんだ。甘いって言ったらそうだし、頼りがいがあるかって言われたらないけれど、領民に愛されてるなあって思う」
あの手の平に、剣ではなく鍬のせいでマメができていることを一番よく知っているのは私だ。そして私はそれを、誇りに思ってしまうのだ。貴族としては失格なのかもしれないけれど。
クロードくんは身体を半回転させて、そのまま机の縁に腰掛け「何よりじゃないか」と口にする。私はそれが、彼の心からの賞賛であるように思えた。
「足りないところを努力で補えればそりゃ一番良い。だけど、それが間に合わないとか、どうしようもなく難しかったとき、その欠けた部分を隠さずに曝け出すことができるっていうのは、ある意味で強い人間だ、って俺は思うぜ」
穏やかな声音で告げられて、私は一瞬飲み込まれてしまいそうになった。兄のことを褒められているのに、なぜか自分が褒められているような気になってしまったのだ。かあ、と頬に熱がこもるのを自覚しながら、それでも私は自分が今この瞬間まで、クロードくんと二人きりでいることに特別な緊張感を抱いていなかったことを知る。お兄様のおかげだろうか、家族の話というのは、思いの外饒舌になれるらしい。
「そんな人が次期当主だったら、アレキサンドルも安泰だな」
「そ、それは大袈裟だよ、や、勿論安泰だと良いんだけど……」
「いやいや、足りないところは助け合い、補い合う。弱い部分も見せてもらう。良いことだと思うぜ? 真理ですらある。級長としても参考にさせてもらわなくちゃなあ」
「え?」
級長として、という言葉が出てきた瞬間、私は小さく首を傾げてしまった。
「さて、じゃあ早速本題なんだが、」
「本題?」
ああ、本題だとも。演説ぶった物言いに思わず身構える。
クロードくんはその時確かに微笑んでいた。細められた瞳は、私を静かに見下ろしていた。右足の腿が、その時、あの夜を思い出させるように引き攣ったのだ。
「確認だ」
その唇が小さく動く。
「俺は鷲獅子戦や、これから先、お前を戦力として数えても良いのか?」
翠雨の節に課題として与えられた際の、賊の討伐での失態のことを踏まえて、彼はそう尋ねたのだろう。
あれが初めての実戦だった。これまで使っていた訓練用の模擬刀は、ほとんど本物に近い重さや手触りをしていたけれど、実際に本物の剣で生きた人間を切りつけてその返り血を浴びることなど一度だってなかった。だから、あの夜、私は打ちのめされていたのだ。
統率が取れていない、武器の扱いにもほとんど長けていないような相手に遅れを取ることはなかったけれど、それでも切りつけた感触は消えないし、あの時聞いた悲鳴はこびりついて離れない。私が奪った誰かの命は私の肩にそのままのしかかったようだった。紋章の件や、突然のお見合いの話、重石となっていたそれらが一つ一つ解消されて小さくなったことで改めて顕在化した戦うことへの恐怖を、クロードくんは改めて私に思い出させた。
彼が心配するのも分かる。私は翠雨の節での討伐も、怪我をしなかったとはいえ、酷く判断に鈍かった。賊を切り倒すのに躊躇った。むせ返る血の臭いに気を取られて潜んでいた賊に気づかなかったし、命乞いをされて戸惑って、その瞬間に反撃されかけたところをイグナーツくんに助けてもらった。そのどれもが一歩間違えれば惨事につながりかねなかったことを、私だって自覚している。私の判断の遅さは戦場では命取りなのだ。
「鷲獅子戦は兎も角、だ。これから先の課題で命の奪い合いがあった時、瞬時に判断を下せないならば、それはお前だけじゃなくて俺たちを危険に晒すことになる」
「うん、そう……だよね。自覚はあります。ごめん……」
「あーいや、言い方が悪かったな。責めているわけじゃないんだ。お前は特に大樹の節であんな怪我を負っちまったんだから、それで身が竦んじまうのも仕方ないと思う。俺も前回、そういうところをきちんと意識しとくべきだったよな。だから今回はその反省も踏まえて、こうして今話をしているわけだが……」
だから前線から外す、ということを、しかしクロードくんは選ばない。「鷲獅子戦は頑張りたい」と、大樹の節から口にしていた私の意志を尊重したいからこそ、改めて確認したいのだと彼は私の目を見つめて口にした。足りない所は補い合う、弱い部分は曝け出す、そうやって支え合っていきたいからこそと、兄と同じ言葉を、しかし彼は明らかに兄とは違う、強い口調で続ける。
「俺としてはもきちっと戦力として換算するために工夫をする、っていう方向で考えたいとは思ってる。模擬戦の成績は良いんだからな。とは言っても、勿論無理強いをしてお前や俺たちまで危ない目に遭うようなことは避けたいから、もし不都合があるなら言ってほしい」
「あ、あの、私も勿論、戦わなきゃいけないとは思う……」
だってそれが貴族の責務なのだから。思いながら、手元に目線を落とす。私は大樹の節の夜のことを思い出していた。自分に振り下ろされた斧を、割れた肉を、噴き出た血を、息ができなかったのに、痛みを感じなかった。ローレンツくんが抱きかかえてくれるまで私は地面に転がったまま、私を切りつけた男がその腹を貫かれる様を間近で見ていた。
これが世界の縮図だ。私がこうして兄に手紙の返事を考えている今も、どこかで誰かは死んでいる。傷つけられ、奪われ、燃やされ、殺される。貴族として生まれた私たちにはその原因の根本を断つ義務があるというのに、それが叶わないからと、まるで無駄な枝を剪定するかのように鋏でその首を断つ。その鋏を持つために鍛えることは恐ろしくないのに、目の前の罪人を殺せと言われたとき、私はどうしたって躊躇ってしまうのだ。
「……でもやっぱり、同じ人間なのにって、思っちゃって」
やっとの思いで吐き出した掠れた言葉に、「それはもう、性格だから仕方ないさ」と、まるで内心を見透かすようにクロードくんは薄く笑う。だから、だったら尚のこと、私はこの心情を吐露するほかないと思ってしまうのだ。
「……正直に、言うと」
クロードくんの返事を待たずに、私は吐き出す。この身体に溜めこんだ毒素を排出し続ける。
皆と一緒に戦いたいこと。強くなりたいこと。私にも未来の同盟を思う心があること。必要最低限の武も、時には冷酷になることも必要だと分かっているのに、いざ訓練用でない本物の武器を持つと膝が震えること。血が苦手で、翠雨の節では賊とは言え重なった死体にほとんど倒れる寸前だったこと。「例え罪人でも、自分の手で人を殺すのが怖い」弱さを曝け出してくれるならば支えたい、そう言ってくれたから、私は何もかもを打ち明けることができた。
「私は多分、戦うときも、誰かに背中を押してもらえないと決断できないんだと思う」
そう呟いたときだった。初めてクロードくんが「それは違うだろ」と、低い声で言葉にしたのだった。
「俺が思うに、に欠けてるのはそこじゃない。は自分にとって何が一番大事なのか、それが分かってないんだ」
だから咄嗟の判断に迷うし、身体が竦む。命乞いをされたときに逡巡する。
何が一番大事なのか。彼の言葉を口の中で反芻させるけれど、それでもやっぱりよくわからない。私を見つめるクロードくんの双眸は、普段の彼が見せるそれよりも、ただ、真っ直ぐだった。痛いほどに。
「の性格は簡単には矯正できない。でも、内省して優先順位を測った時、きっとお前の世界は変わるぜ」
窓から差し込んだ夕陽を受けて、宝石のようにその瞳が輝いていた。
触れられていないのに、頬が酷く熱を持った気がした。私はクロードくんの言葉を皮膚に刻み込まれたようにすら思う。彼の周囲の輪郭が滲んでいく。
「さーてと」
机に寄りかかっていたクロードくんは、立ち上がって伸びをした。天を仰いだ瞳が、自然に私に向けられる。「ん」短い声と共に差し出された。しなやかで浅黒い、弓を引くせいでマメだらけになったその手の平。躊躇ったというよりも、理解できなかった。有無を言わさずに掴まれた手の温度すらもわからない。
お兄様の名前を記しただけの便箋の上、墨壺にささった筆をそのままに、私は立ち上がらされる。厚い手だった。身体の横に投げられていたもう片方の手も、優雅な所作で彼は取る。まるで悪戯の算段でもするかのようにその双眸が緩く細められた。その眼球の中心に、その時私は確かにいた。
「お前の世界を変えようか」
彼はそう呟いた。