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 休日の朝から、その日はやけに寮の外が騒がしかった。
 ここ数日精神的に落ち込んでいたせいもあったのだろう。普段ならば目を覚ましてとっくに身支度を済ませている時間だったのに、休日と言うことも相まって私は寝所から抜け出せずにいた。毛布を丸めて抱き枕がわりにして、うとうとと微睡んでは窓の隙間から差し込む光を避ける様に寝返りを打つ。時折廊下を歩く誰かの足音や、会話が漏れ聞こえてきたけれど、そのどれもが私を覚醒させるには至らない。
 精神的な疲労もさることながら、肉体的にも疲れていたのだ。特に二節前の終わりの賊の討伐から、前節のフレンちゃん失踪事件、縁談騒動、資格試験と、なかなか休まる暇がなかった。今節末にはガルグ=マク士官学校の一大行事である鷲獅子戦が控えていることを思うと、この緊張感は持続させておくべきなのかもしれないけれど、それでも限界を迎えていたのだろう。その日、昏々と眠り続けた私が目を覚ましたのは、ほとんどお昼前だった。
 眠りが浅くなる度に、窓の外で普段ならば滅多にないほどの人の声と気配があるのは感じ取っていた。だけど、やっぱり寝惚けた頭ではそれについて深く考えることなどできないのだ。それが夢か現実なのかも判別できなかった私を目覚めさせたのは、「うぉおお! 釣れたぜーッ!」と叫ぶ男の子の声だった。
 良く通るその声に、脳がはっきりと覚醒する。つれた。連れた。釣れた? 魚? 連想させてから、ぱ、と目を開けた私は、普段とは明らかに違う外の様子に、とうとう身体を起こす。








「わたくしがいけませんの。お兄様に美味しいお魚が食べたいだなんて言ってしまったばかりに」



 前節、死神騎士により拐かされたフレンちゃんは多少の衰弱が見られたものの、怪我らしい怪我もせずに戻ってきた。憔悴しきっていたセテス様の安堵は計り知れないものがあっただろう。一時はどこに行くにも何をするにも彼女の隣に寄り添っていたくらいだ。飛竜の節に入った今、見渡す限りではセテス様の存在が見られないことを思えば、あの事件の直後よりはその心も落ち着かれたのかもしれない。それでも「魚が食べたい」と言う発言だけでここまで大々的な釣り大会を催してしまうのだから、セテス様の過保護ぶりは健在だ。
 顔の前で指を組み、眉を八の字にして表情を曇らせたフレンちゃんの横で、カスパルくんが「よっしゃー! また釣れた!」と釣り上げたばかりの魚を掲げている。「カスパル、それ、小さい。違いますか? 大きいもの、フレン、望む。望みます」たどたどしい話し言葉でカスパルくんの釣り上げた魚の入った桶を覗き込むのはブリギットの王女、ぺトラちゃんだ。
 他にも池の周囲を囲むように、何人かの生徒や騎士の方が釣竿を抱えている。イングリットちゃん曰く、「釣った魚は食べても良いそうなんです!」だそうで、張り切って釣竿を池に垂らしていたラファエルくんなんかもそれが目的なのかもしれない。いつもだったら率先して輪に入りそうなレオニーちゃんが眉を顰めながら「ったく、鷲獅子戦が控えてるってのに良くやるよ」と食堂に続く階段を上って行ったところを見ると、誰もかれもが楽しんでいるというわけではないようだったけれど。



さんは、釣りの経験はあるんですか?」

「ん、小さいときにちょっとだけ。でも、お父様と一緒だったから」



 私の話に「なるほど」と相槌を打ちながら生餌に針を刺すイグナーツくんの、その躊躇の無さが恐ろしい。遠目からイングリットちゃんの方に視線をやれば、彼女も眉を寄せて準備をするアッシュくんの様子を窺っている。だけど、最終的には食欲が勝ったのだろう。手招きされて、アッシュくんの隣にしゃがみこんだイングリットちゃんは、神妙な面持ちでとうとう指先でカワムシを抓んで針に刺した。



「あはは、そう、上手じゃないですか。イングリット」



 アッシュくんの笑い声が、耳をそばだてずとも風に乗って私の耳に届く。私も覚悟をしなければならないのか、と顰めていた顔をイグナーツくんに向けた瞬間、彼は「よし」と呟き立ち上がった。



「はい。どうぞ」

「えっ?」

さんの分もやっておきました。虫は触りたくないでしょうから」

「え、嘘、うれしい……ありがとうイグナーツくん……」



 差し出された釣竿とイグナーツくんの顔を交互に見つめる。本当にイグナーツくんは良く気の付く人だ。ローレンツくんが将来はグロスタール仕えの騎士になってほしいと言うだけあって、弓の腕前だけでなく視野も広い。お礼を言う私に、眦を細めたイグナーツくんは穏やかに首を振った。有り難く釣竿を頂戴して、見様見真似で池に垂らしてみる。



「何か引っかかるような感覚があったら声をかけてくださいね」

「はい!」

「三十数えて、もしも手応えがなければ位置を少しずらしましょう」

「はい!」



 イグナーツくんの言う通り、心の中で数字を数える。あまり大きな声を出すと魚が驚いて逃げてしまうらしい。なかなか釣れないらしいアロイスさんが「なぜだ……」と項垂れるのを、フレンちゃんが慰めている姿が視界の端に映った。
 フレンちゃんが食べたいという魚はとても大きいものらしいから、初心者の私では釣り上げることはなかなか難しいだろう。でも、何だかこういうのってワクワクする。
 ウキが水面に描く波紋を熱心に見つめていると、ぴくりと反応があったような気がした。「わ」と呟けば、隣のイグナーツくんが私のウキに視線を向ける。



「あ、あたってますね」



 ぴょこぴょことした細かな反応に慌てていると「そのまま少し待って。ウキが静かに沈んだ瞬間を見計らって引き上げます」といつもの調子で言われた。手に汗が滲んできてしまった。瞬きもせずに凝視する。イグナーツくんの言う通り、ウキはやがて沈み始めた。それが水面に沈んだ瞬間に腕に力を込める。ぐ、と持ち上げれば、水面から音を立てて引き上げられた針の先に、果たして魚はいた。



「おお〜」

「釣れましたね! すごいじゃないですか。一回で釣り上げられるなんて」

「そ、そんなそんな、イグナーツくんの餌の付け方が良かったんだよ」

「あはは、だったら嬉しいですけど」



 ぴちぴちと暴れる魚を針から外して、予め準備しておいた桶に放す。制服に水滴が落ちて、丁度楕円の染みを作った。桶の中を泳ぎまわるそれはやっぱり小さな魚だったけれど、何だか達成感がある。水面が太陽を反射したのか、或いは鱗か。眩しくて目を細めた。



「釣れると楽しいですよね」

「うん、私でもできるんだね、嬉しい」

、釣れましたかー?」



 離れた位置からアッシュくんに声をかけられて、顔をあげる。「釣れたー!」と大きな丸を作って返事をすれば、彼は「おめでとうございまーす!」と宛ら大物を釣り上げたかのように大袈裟に誉めそやすから、私はすっかり恥ずかしくなってしまう。彼の隣で、丁度イングリットちゃんもあたりが来たようだ。慌ててアッシュくんを呼ぶイングリットちゃんに彼が視線を戻したのを見送ってから、私はもう一度餌を針に刺そうとしてくれているイグナーツくんに気が付いた。うぞうぞと蠢く茶色く透き通ったカワムシはやっぱり触ってみたいとはどうしても思わないけど、毎回面倒を見てもらうのも申し訳ない。



「あの、次は私がそれもやるから、やり方教えてくれる?」



 しゃがんだまま窺うようにそう尋ねた私に、イグナーツくんは眼鏡の奥の双眸を一度はっきりと瞬かせて私を見つめた。入学したときは小柄で、まだ幼さを残した顔立ちをした子だと思っていたけれど、最近は随分と頼りがいがあるように感じられる。「ええ、勿論」と答えながらも、「でも本当に無理だったら遠慮しないで言ってくださいね」と続けてくれたので、私は安堵を滲ませながらも頷いた。








 桶いっぱいに泳ぐ魚たちを見て私は息を吐く。最初の一匹だけがまぐれだったらしく、以降はほとんど釣り上げることが出来なかった。だからこの桶に入っている魚の多くはイグナーツくんが釣ったものだ。滲み出た欲が釣竿から池の中に伝わってしまったのかもしれない。
 けれど秋の空気は澄んでいて、外に出ておしゃべりしながら釣りをしている間に、今朝まで燻っていた靄のようなものがなりを潜めていることに気が付いた。父の真似事をして、隣に座って釣り糸を垂らしていた昔のことを思い出して、童心に返ることができたおかげなのだろうか。あの頃は何の疑いもなく、自分は愛されるに足る存在だと信じていた。



もいたのか」

「あ、先生。おめでとうございます、大きいの釣ってましたね」



 ぼんやりとしていたところを声をかけられて、思わず肩を震わせる。振り向いた先にいたベレト先生に微笑め
ば、彼は無表情のまま、こくりと小さく頷いた。
 結局フレンちゃんの求めていた魚を釣り上げたのは、途中から参加したベレト先生だった。
 ベレト先生はしゃがみ込んで桶の中を覗いていた私の隣に立つと、しげしげと魚を見つめる。



「随分釣り上げたな」

「いや、これはほとんどイグナーツくんですね。私が釣ったのはこの中のちょっとだけなんで」

さんも頑張ったんですよ、先生。まさか本当に自分で餌をつけるなんて思いませんでした」

「餌?」

「カワムシですよ。女の子にはちょっと気持ち悪いでしょう?」



 ベレト先生は分かっているのか分かっていないのか、小首を傾げながらイグナーツくんの言葉に曖昧に頷く。先生にとってはあの、触覚が長かったり足が何本も生えていたりするカワムシに触れることそれ自体が、造作もないことなのだろう。
 ちらほらと釣った魚を食堂に運ぶ生徒たちが出始めたことに気が付いたイグナーツくんは、「じゃあボクもこれを食堂に持って行きますね」と言って桶を持ち上げた。



「え、いいの?私も一緒に……」

「あはは、大丈夫ですよ。これくらい」



 重そうだったけれど、よろめく気配もない。彼は足取り軽く食堂へと続く階段を昇って行く。ちょうど竪琴の節でローレンツくんに怒って食堂を飛び出した私が座っていた階段だ。良く行き来する場所であるのに、今それを思い出してしまうのは隣に居るのがベレト先生だからなのだろうか。
 先生がそれを覚えていると思ったわけではない。ヒルシュクラッセに属する私をわざわざ追いかけて、背後からぽつりぽつりと声をかけてくれた。私にとっては印象的な出会いだったけれど、ベレト先生は私だけじゃなくて、士官学校に在籍している生徒一人一人に対してそう言う出会いがあったはずだ。今更あの時の会話なんて、覚えているはずがない。
 だけど、先生はイグナーツくんを見送る私の横顔をじっと見ていた。視線が気になってそちらを向けば、先生が、あの春の日では考えられないような、柔らかな瞳を私に向けていた。だから、私は言うつもりのなかった言葉を、つい口にしてしまう。「本当ですね、先生」と。



「釣りをしてたら、本当に気が紛れちゃいました」



 先生があの時の言葉を覚えていたかどうかは定かではない。先生は一瞬だけ目を丸くして、それから「そうか」と、何だか判別のつきにくい返事をして小さく頷いた。
 空に広がる鱗雲を見上げる。秋は空気が澄んでいて、空が高い。思いきり息を吸ったら、胸が引き攣ったように痛んだ気がしたけれど、きっと気のせいだ。明日からは、クロードくんともヒルダちゃんとも、前みたいに笑って話ができる。なんとなくだけど、そう思う。














 魚釣り大会で気持ちを入れ替えた私は、夕方からずっと無人の教室で理学の勉強をしていたのだけど、気がつけば陽が暮れてしまっていた。集中すると、時間ってあっという間に過ぎてしまうもので、おかげですっかりお腹が空いてしまった。食堂に向かえば魚釣り大会のおかげで魚尽くしとなった夕食がずらりと並ぶ。こんなに新鮮なお魚がいっぱい食べられるんだったら、定期的に魚釣り大会を開くのも良いんじゃないだろうか。
 食事を終えて、それから寮へと戻ろうとしたときには、既に空に星が瞬いていた。頬に触れる夜風は少し冷たかったけれど、熱を冷ましてくれて気持ちいい。満腹なのと、心地よい疲労感とで、ふう、と長く息を吐いたちょうどその時だった。「よ」と短く声をかけられたのは。



「ひっ」



 ちょうど花冠の節でそうされたように、彼は釣り池側にある食堂の出入り口のすぐ脇に立っていた。薄紫色の髪は、暗闇だと少しだけ白んで見える。丁寧に化粧の施された、女性のように綺麗な顔で、彼は私を見つめていたのだった。本当だったら怯える必要なんかないはずなのに、私は彼を認めるまでのほんの僅かな時間、明らかに身構えてしまう。



「な、なんだ、びっくりした。あなたですか」

「はあ? こんな美少年を捕まえて、他に言うことはないのかよ」

「いや、だって、いつもいきなり声をかけるから」

「お前、この前は全然びっくりしてなかっただろ。驚いたり驚かなかったり、面倒くさいやつだな……」

「時と場合があるじゃないですか、今はめちゃくちゃ気を抜いてたんですよ……!」



 気ねえ、俺から見たら、常にだるっだるに抜いてるようにしか見えねえけど。なんて酷い言葉を吐き出され、私ははっきりと傷ついてしまう。もう少し言葉を選んで話してくれたら良いのに。そう思うけれど、彼は私がそう文句をつけるよりも早く「ところで」と彼は口にした。
 食堂にはまだぽつぽつと人がいて、そこから談笑が漏れ聞こえてくるのに、一歩外に出ただけでまるで別の世界に切り離されてしまったかのように思う。それは飛竜の節に入って、気温が下がり始めたせいなのかもしれない。



「今日の昼間、なんかあったのか?」

「昼間?」

「ああ、なんかやたら騒がしくなかったか? 妙に生臭えし」

「ああー」



 あんなに大々的に行われていた魚釣り大会に気がつかなかったのだろうか。また不在にしていたのかな。なんてことを考えながら「魚釣り大会ですね」と言えば、彼は「はぁ? 魚釣り大会だ?」と上擦った声をあげてみせた。いつも悠々としている彼が目を見開くのは珍しくて、ちょっと嬉しくなってしまう。



「大きい魚を釣り上げたら優勝だったんです」

「そこの釣り池でか?」

「そうですそうです。私もこんなの釣りました」



 こんなの。と指で大きさを示してみせると、彼はさして興味もないように目を細めるのだった。



「優勝者、知りたいですか?」

「いや別にどうでも」

「なんとベレト先生です」



 こんな大きいお魚でしたね、と手を広げて見せると、彼は「そんな主みたいな魚、この池にいるかよ」と全く信じてくれない。本当なのに。ため息を吐いた彼は私に背を向ける。



「あーあ。待ってて損したぜ」



 そんなことを言われても、勝手に待っていたのはそっちだ。そう言いかけて、あれ、と思う。わざわざ話を聞くために私を待っていたっていうのは、何だか妙に感じられた。だってそんなことしなくても、話をしてくれる人なんか大勢いるはずなのに。
 階段を降りていく彼は「じゃあな」と振り向かずに告げる。学生でも、教師でも、どうも騎士の人でもないように思える彼は一体どこに帰るというのだろう。気になったけれど、尾行したところですぐばれるだろうな。そう思った私は「はい、また」と手を振るに留めた。


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