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「えっ! 結婚ー?」
「いや結婚じゃなくて縁談……」
「えーでもほとんど同じでしょー? すごーい! 縁談ねー!」
「でもヒルダちゃんの方がそういうのはいっぱい来るんじゃないの?」
「あー、うちはほら、兄さんがそういうのは全部握りつぶしちゃうからー……」
「あ、そっか……」
ホルスト将軍のヒルダちゃんへの溺愛ぶりは今に始まったことではない。頻繁に届く手紙の返事に窮してヒルダちゃんが「最近ちゃんの話ばっかり書いてる気がするー……」と唸っていたのは記憶に新しく、私は彼女の言葉に苦笑を浮かべた。そこまでお兄様から気にかけてもらえるのは傍から見れば羨ましいようにも思うけれど、当事者であれば煩わしいものなのかもしれない。
「ちゃんのところのお兄さんはどうなのー?」
不意に話を振られて、一瞬言葉に詰まる。
「えっ、うち? うちはそういう話はしないしなあ……縁談とかも兄妹揃って本当に縁がなかったから、今回が初めてだったはずだし……」
教室で話せば目立ってしまうような話も、元々騒がしい食堂であれば周囲の雑踏に飲まれやすい。食後の紅茶を飲みながら話題にするのに抵抗がなくなったというのは、それが自分の中で既に区切りがついたことだったからだ。
私の隣に座っていたヒルダちゃんは、身体をこちらに向けて「で、で、相手は誰なの? あたしの知ってる人ー?」と興味深そうに目を輝かせている。知っている人であることには間違いないだろう。何せ、縁談の相手はゴネリル家の南西側に隣接した領地を持つケント家の子息だ。
この件についてはハンネマン先生と話をして自分の中で落としどころを見つけたとは言え、けれど仔細を話すには気が引ける。勿論ヒルダちゃんと共有したくないというわけではなく、紋章の有無について悩んでいたことを口にすることを避けたかったからだ。
「そうだねえ……」
言葉を濁しながら茶器の縁あたりに目を落とす。その時見慣れた琥珀の液体に影が落ちた。ふと顔をあげると、そこにいたのはクロードくんだったから息が止まる。
「よう。ここ、空いてるか?」
「あっクロードくん。やっとお昼ご飯ー? あたしたち、もう食べ終わっちゃったよー」
「いやー。なかなか忙しくてな。鷲獅子戦のことでハンネマン先生と相談してたんだよ」
「うわー。ご苦労様ー。あ、鷲獅子戦、あたしは今度こそ後ろで応援してるからねー」
「いや、ヒルダはうちの切り札だろ?」
「ちょっと、そんなわけないでしょー? ほんと、あたしに期待するのはやめてくれないかなー?」
「いやいや、あの試験での斧捌き、見事だったぞ」
眉根を寄せるヒルダちゃんは至極迷惑そうな口調でそう呟くも、クロードくんはどこ吹く風だ。昼食を私の前の席に置くと、彼は椅子を引いてそこに座る。
「試験と言えば、も合格おめでとう」
「あ、ありがとう。でも私は結構ギリギリで……」
「ギリギリでも合格は合格だよー」
「そうそう、運も実力のうち、ってやつだな。うちの学級は全員合格してくれたし、おかげで鷲獅子戦もそれなりに乗りきれそうだよ。作戦のたて甲斐もあるってもんさ」
「おー? 自信ある感じー? 今回はベレト先生に勝てそうー?」
クロードくんの言葉に、ぱっと目を見開いたヒルダちゃんが僅かに身を乗り出す。クロードくんは銀食器を片手に「いや実はな」と大仰な素振りで肩を竦めてみせた。
「前節フレンの失踪事件に関連してマヌエラ先生が怪我を負っただろ? それでどうも、鷲獅子戦はアドラークラッセの生徒に任せるつもりらしいんだよ。それを聞いたハンネマン先生も『積年の好敵手が棄権するならば我輩も今回は見学させてもらうことにしよう』とか言い出してな」
「えー! でもベレト先生は出るんでしょ? 先生たちがいないんじゃ戦力に差が出ちゃわない?」
「そうそう、だからちょーっと腹でも痛くなる薬を調合してだな」
「悪巧みはもう少し人のいないところでしたらどうだ?」
不意に真後ろから苦々しい声が響いて、身体がびくりと反応した。振り向けばそこにいたのはルーヴェンクラッセの級長、ディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッドその人で、私は思わず背筋を伸ばしてしまう。ファーガス神聖王国の次期国王である彼のことを、私は一方的に近寄りがたく思っていたけれど、苦笑を浮かべたディミトリくんはどこか人好きのする雰囲気すら感じさせた。後方に控えているのはダスカー人で、確かドゥドゥーさん、という名前だっただろうか。クロードくんとはまた違う浅黒い肌に強面の彼は、私と目が合っても表情をピクリとも変えなかった。
「おーっと。これはこれはディミトリ殿下」
「全く……お前はよくもまあそこまで小賢しいことを思いつくものだな。正々堂々勝負しようとは考えないのか?」
「俺がお前と正々堂々勝負しようものなら、この細腕はあっという間に使い物にならなくなっちまうからな」
「何が細腕だ。その前にその矢で近づかせようともしないくせに、良く言う」
「あっはっは。そいつは偶々さ、鷲獅子戦でも通じると良いんだがなあ」
私とヒルダちゃんを挟んでなされる二人の会話に制止をかけたのは、ディミトリくんの傍に立っていたドゥドゥーさんだった。「殿下、そろそろ」と声をかけられて、ディミトリくんも思い出したように彼に向き直る。
「じゃあクロード。鷲獅子戦、楽しみにしているぞ」
と最後は真っ直ぐクロードくんを見つめるから、さすがのクロードくんも苦笑いをせざるを得なかったようだ。
二人が食堂を出ていくのを見送ると、クロードくんは「やれやれ」と肩を竦める。
「冗談の通じないやつだよなあ」
「……クロードくんの冗談って、ちょっと分かりにくいよー? ねえ、ちゃん」
「う、うん……」
「ほー? そりゃ心外だ。俺は常日頃から皆を笑わせんがため、こうして日々研鑽を積んでいるんだがなあ」
丁度冷めて食べやすくなっただろうチーズグラタンを掬いながらクロードくんは言うけれど、やっぱり冗談なのか本気なのか分かりにくい。茶器に手を添えて曖昧に笑っていると、不意に「そういえば」とヒルダちゃんが切り出した。私が残りの紅茶を口に含んだ、丁度その瞬間だった。
「さっきの話、途中だったよね?」
気が抜けていたせいで「んっ」と妙な声が漏れてしまう。一瞬紅茶が気道に入りかけて、咽そうになった。
さっきの話とは、お見合いの件で間違いないだろう。涙目になりながら思わず小さく首を振る。ヒルダちゃんにはどうってことない話題として切り出せた話も、目の前にクロードくんがいるとなると話は違う。案の定クロードくんは「さっきの話?」と首を僅かに捻る仕草をしてみせた。
「あ、いや、でもあの、もう断ったの。まだそういうことは考えられないからって」
「えっそうなのー?」
「断った?」
「えっと、あの、お見合いの話があって」
断ったんだけど。もう一度念を押すようにそう言いながら、顔が酷く熱くなっていることを自覚する。曲がりなりにも、片思いをしている相手に、縁談が来たなんて話を自らしなくてはいけないとは思ってもみなかった。話す分にはいいのだ。ただ、反応を見るのが怖い。私はクロードくんの考えが全く読めないから。
優しい人だし、私たちのことを良く見てくれている。そこに情があることも分かっている、だけど、その情はきっと誰に対しても押し並べて均等だ。だから恐ろしかった。彼が一体、どんな顔をするのか。何か特別な反応をしてくれるんじゃないかって思ってしまうあさましい自分が嫌で、だけど、やっぱり期待してしまう。
ちょっとでも顔色を変えてくれるんじゃないかって。相手が誰かを尋ねてくれるんじゃないかって。私に興味を持ってくれているんじゃないかって。
私は彼の特別でもなんでもないのに。
「あっ」
クロードくんの顔を見ないようにして立ち上がったのは、彼の反応を見ることが怖かったためだ。
耐えられなかった。そうして立ち上がっても、足が震えていた。隣に座っていたヒルダちゃんが目を見開いていたことだけは分かる。その表情で、今の自分がどんなに不自然であったかも。
だけどどうしてもその場に居続けることができなかった。クロードくんの傍にいることが怖かった。「わ、私、先生に呼ばれてたんだった」そうする以外になかったとはいえ、分かりやすい嘘だっただろう。空になった茶器を持って、私は二人に「ごめんね、行ってくる」と言い残して背を向けた。人の間を縫って、食堂のおばさんに食器を返却する。ごちそうさまでした、と言いかけた声が、喉に詰まる。
心臓がばくばくしていた。もう二人の方を見ることができないと思っていたけれど、食堂を出る寸前に一瞬だけ横目で見た二人は、何かを相談し合うように顔を寄せ合っていたから、勝手に胸が痛くなる。
好きでいるだけなら誰に咎められることもないはずだ。そう思って縁談を断った。こんな気持ちで受けることは相手にも失礼だと思ったし、何よりも流されたくないと思った。私にそう思わせてくれたのは、クロードくんだ。
自分に自信がない。それが原因なのは分かっている。食堂を出てすぐ、壁に背を預けてずるずるとしゃがみ込む。もう完治したはずの足が疼いたような気がして、思わずそこに触れた。彼を独占していたあの春が、今はもう遠い。