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 フレンちゃんが見つかって、ガルグ=マクが日常を取り戻し始めてから数日が経った頃、両親から一通の手紙が届いた。
 ゴネリル家に隣接する小貴族、ケント家の長男から縁談を持ちかけられたそうだ。縁談。おめでたいなあ。お兄様もとうとう結婚かあ。とぼんやりした頭で読み進めたものの、「学生の身分であることを考慮して」と続いた文面に縁談とやらが自分に関係していたことに気が付いた。長男から持ちかけられたとある時点で分かりそうなものだったが、それほどまでに、それは私にとって青天の霹靂だったのだ。
 卒業まで返事は待つ、と先方から言われているが、このまま話を進めても構わないだろうか。と続いたそれに、「構わなくない!」と咄嗟に叫んでしまった。
 何故よりにもよって資格試験の前にこういう手紙を送ってくるのか。ただでさえ最近は色んなことに頭を悩ませていた。自分が実戦でまともに役に立てなかったことや、紋章の件、すぐには自分の中で解決できない問題の上に、更に重たいものを積み上げられてしまって身動きが取れなくなる。資格試験のための勉強に身が入らなくなってしまったのも仕方ない。
 だって、会ったこともない人と結婚だなんて。記されたオミッドと言う名前には何となく見覚えがあるけれど。年齢は兄の一つ二つ上だったと聞いたような気がしないでもないが、突然そんなことを言われて快諾できるほど自分の人生に責任を持っていないわけではない。
 悪い話ではないのだろう。だからお父様もわざわざ私に手紙を送ってきたのだ。紋章を持たない、十傑の血を継がない小さな貴族。ケント家といえばアレキサンドルとほとんど変わらない穏やかな気候に、安定した土地を持っている。いや、パルミラに近くなっただけ少し危険かもしれないけれど、隣の領土はあのホルスト将軍がいらっしゃるゴネリルだから、そう心配するほどではない。
 結婚なんて。そう思ったけれど、でも、賊相手にまともに戦えもしなかった私は、いっそそうして影から夫を支える方が性に合っているのかもしれない。紋章がなくても許される相手と添い遂げるのが、私にとっての幸せなのかも。
 悩んで悩んで、私はとうとう教本を閉じた。身体を動かせば少しは気が晴れると思ったのだ。








 そして数日前、ベレト先生に訓練をお願いしたわけだが、人間らしくなった、なんてちょっと上から目線とも思える物言いで最近の先生の変化を表現してしまったことは自分でも口にしながら「しまった」と思った。だけど、生徒目線から見てもベレト先生は以前よりずっと先生らしくなったように思う。先生が抱えていた悩み事が解消されたが故の変化なのだろうか。私には結局それが何だったのかは分からないままだったけれど、先生が一人悩んで、誰にも感情を吐露できぬままに釣り糸を垂らす後ろ姿は、もうあまり見たくないなと思う。
 私はベレト先生にこの悩みを打ち明けることをしなかった。自分の将来について悩んでいる件について誰かを頼るなら、まずは担任のハンネマン先生に相談すべきだと思ったのだ。ベレト先生は、私が資格試験について悩んでいると思っていたみたいだったけれど。
 ハンネマン先生は、帝国貴族の出身で紋章学の権威だ。紋章学、と聞くと嫌でもリンハルトくんのことが思い出されて、何となく筆舌し難い感情に襲われてしまうのは否定しない。



「……ほう。将来のことについて悩んでいる、と」

「はい」



 端的に言えば。と心の中で付け加えながら、私は自分よりもずっと背の高いハンネマン先生を見つめた。
 大広間の二階にあるハンネマン先生の研究室を覗き込んだ時、先生は丁度本の整理をしていた。狭い室内の壁にぎっしりと並べられた蔵書は書庫に比べれば勿論少ない方だけれど、個人の所有物だと思えば圧巻だ。しかも、それがほとんど紋章に関する書物なのだから、その学問を志す生徒からすればハンネマン先生のような教師がいるというのは理想の環境に違いない。



「ふむ。確かにベレト先生からも聞いている。君が何か悩んでいるようだとな」



 蓄えられた口髭の先を撫でながら、ハンネマン先生は肩眼鏡の奥の双眸を僅かに細めた。ああ、本当にハンネマン先生に言っておいてくれたのか……と何だか複雑な気持ちになってしまう。



「我輩も明日あたりに君に声をかけようと思っていたところだが、わざわざ来てくれて手間が省けた。さて、話を聞こうか。生憎茶の類は切らしているが……」

「あ、そんな、お気遣いなく」



 私は紋章学の勉強は好きだし、成績も悪くない方だと思う。だけどやっぱり紋章がないから、先生にとってもそんなに歓迎されるような生徒じゃないのかもしれない。なんて勝手に悩んでいたけれど、杞憂だったのだろうか。先生は何となくうきうきとした様子であるようにすら思えた。元々茶目っ気のある人だと思っていたけれど、面倒見がいい性格なのかもしれない。
 来客用の椅子を準備してくれた先生は、私に座るように促す。「さあ、聞かせてくれたまえ」と言いながら椅子に腰を下ろしたハンネマン先生の瞳は、私が思っていたよりもずっと柔らかかった。








「つまり紋章の発現が自然発生ではなく遺伝によるものではないかという説も考慮に入れるべきではないかと我輩は思うのだ。我輩の家系はなかなか紋章が生まれやすい家系でね。近しい者同士での婚姻が多かったせいもあるのだろうが、血が濃かったのだよ。親から受け継ぐ紋章と言う情報がそれだけ濃かったということだ。勿論中には紋章のない子供が産まれることもある。しかし例え自分が紋章を持っていなくとも、さらにその子供が紋章を持って生まれることなどざらにあるだろう? だが、それでも何人子を産んでも紋章が発現しない者もいる。血が濃いはずなのに、だ。ではなぜそんなことが起こりうるのかというと、これには抑制という遺伝情報が絡んでくるのだよ。ああ、勿論我輩の持論だ。だがね、これには説得力がある。身近にそういう人間がいたからね。紋章を持たない人間には、紋章の発現を抑制する何らかを親から継いでいる。我輩の仮説では、これは恐らく対の構造をしたものであるだろう。一対のうちその双方に抑制の情報が刻まれていた場合、その人物はどれほど子を成そうとも紋章持ちの子供を産むことは出来ない。片方にのみであれば、つがいの相手によっては紋章持ちが産まれることもあるのだろうが」



 結婚が決まりそうなのですが、紋章を持たない自分はそういう、紋章を重視しないような家の人と婚姻関係を結ぶべきなのでしょうか。
 思い切ってそう尋ねた私に、ハンネマン先生は部屋の黒板を使って図解しながら解説をしてくれた。未だ解明されていないことの一説に過ぎないが、要するにその対の構造をした遺伝情報のうち、どちらか一つにでも抑制の情報が組み込まれていなければ、子供に関してはそう悲観すべきではない、ということらしい。
 ぽかんとしていた私に我に返ったのか、ハンネマン先生ははっと目を見開いて咳払いをした。「すまない。今は君の話だったな。つい熱が入ってしまった」と謝られるので、慌てて首を振る。子供か、考えてもみなかったけど、全く関係ない話というわけではなかったし、実際とても興味深かった。だけどもしも自分に紋章があれば、結婚についてこんなに悩まずに済んだだろうな、と考える。紋章のない私に何かを選択する権利なんてない、私はどこかでそう諦めていたのだ。ハンネマン先生は先生なりの論理でそんな私を慰めようとしてくれた。その気持ちは、痛いほど伝わってくる。
 ハンネマン先生はふと声量を落とす。初めて先生は、長い息を吐いた。その目線が、過去を思い出すように細められているのを、私は言葉もなく見つめている。



「身内にいろいろあってね。結婚だの、紋章だのと聞くと、つい後に生まれるだろう子孫が持つであろう紋章の有無についての持論を展開してしまう。悪い癖だな」



 君。私の名前を呼んで向き直ったハンネマン先生は、続ける。



「我輩は紋章が好きだ。よって、紋章を持った人間を研究の対象としているが、だがな、この紋章至上主義の風潮には、多かれ少なかれ辟易しているのもまた事実なのだよ」

「はい」

「紋章の有無で将来の選択を狭めるのは、如何なものかと我輩は思う。最近の君は、そういうところがあるようだからね」

「……はい」

「だからその縁談とやらも、少なからずであろうと、紋章がないが故の自信の無さを根拠に結ぼうとしているのならば、我輩は勧めない」

「……」

「なに、君はまだ若いし、人生だって長い。顔も知らぬ相手と焦って結婚する必要などない。……まあ好機を逃せばどうなるかはすぐそこに反面教師がいるわけだが……」



 扉の奥、廊下を出た真向いの部屋に目線を送って、ハンネマン先生はため息を吐きながら首をゆるゆると振った。マヌエラ先生のことを言っているのは分かったけれど、神妙な顔で頷くに留める。



「だが、君は待たせておけばいいさ。それすらも心苦しいと言うならば、断ると良い。我輩だって教え子の式に出るならば、笑った顔が見たいからね」



 冗談めかしてそう続けるハンネマン先生に、私は何だか目頭の奥がじわじわと熱くなるのを感じた。
 私はどうやら弱っていたらしい。紋章学の権威である先生に、もしも「紋章がない以上価値はないのだから抱いた思いなど捨てて結婚したまえ」と言われていたら、そうしていただろうと思ってしまうくらいには。唇を噛みしめながら頷く。少しでも気を抜けば泣いてしまいそうだった。
 自分の中で納得のいく答えはすぐには出ないように思えたけれど、それでも、私は紋章の無い私を認めてくれる人がここにいることを、とても心強く思う。








 紋章なんかあろうがなかろうがどうだっていい。まあ、紋章がなきゃ天帝の剣が使えないっつーなら、ないと困るわけだけどな。
 でも、まあそれは俺の話だ。なんか、紋章があってもなくても関係ないだろうに。結婚だの紋章だの、フォドラは実に煩わしい。そんなもん、枷にしかならないじゃないか。なあ?
 書庫に籠ろうとハンネマン先生の部屋の前を通りかかった際、の声が聞こえた気がして思わず立ち止まった。盗み聞きなんて大層なもんじゃない。聞こえちまっただけだ。級長として、俺は皆の情報を少しでも知りたかったからな。特に最近のの思い悩んだ様子といったら、教室の中まで一緒に暗くなっちまったみたいだった。まあ、試験前だってのも関係はあるんだろうが。
 ローレンツが「に何かあったのは間違いないが……まあ僕を差し置いてクロードに相談するはずがないか」と探ってきたこともは知らないだろう。「なんだろうねー? 資格試験で緊張してるのかなって思ってたけど、終わっても変わらないようだったら、あたしもちょっと話を聞いてみるよー」そう神妙な面持ちで言ったヒルダも、を心配していた。
 が、まさか縁談だったとは。そう言ったことに頭を悩ませるような人間がヒルシュクラッセにいるとは想像していなかったが、なるほど紋章の有無を重要視しない、上昇志向に薄い貴族であれば、穀倉地帯を持つアレキサンドルはそこそこ優秀な結婚相手だろう。兵糧は、いついかなる場合にも重要だ。
 しかしハンネマン先生も教師歴が長いだけあってなかなかやり手だな。あっという間にの心を軽くしてしまった。含み笑いをしながら、会話が終わった気配を感じて部屋の前を離れる。書庫への道を行きながら、薄暗い天井を見上げた。
 紋章の有無なんかな、。ひろーい世界を前にすりゃ、些事だってわかっちまうぜ。直接本人には言えない言葉を、強く思う。
 深く息を吸ったら、なんだか埃っぽいにおいがして嫌気がさした。
 ああ、やっぱりフォドラは小さいな。 


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