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 産まれて何十年という月日が流れようと、人はまだ成長することが出来るらしい。
 まるで教師のようなことを考えている自分に気が付いて、思わず口内を緩く噛んだ。そうでなければ、また表情が変化しそうに思えたのだった。



「おぬし、自身の変化に動揺しておるな?」



 物心ついたときから時折夢に現れたこの少女は、あの、ルミール村でディミトリたちと出会った夜からその形をはっきりとさせている。自分の脳の中に限り。他の人間には見えず、聞こえず、触れることもできない幻覚をそういうものと受け入れることは案外簡単だったが、時折こうして確信をついた物言いをされると返事に窮するのだ。
 自分自身、自覚はなかった。行方を晦ましたフレンのことは確かに心配していたし、どうにかして見つけてやらなければならないと奔走した。だけど、振り返ってみればそれすらもおかしな話だったのかもしれない。自分は他人のために、こんな風に走り回れる人間ではなかったはずなのだから。
 ソティスはそれに返答しなかった。いや、飲み込んだのかもしれない。



「それは、先生がこれまで人と関わってこなかったせいなんじゃないですか?」



 代わりに首を傾げながらそう言うの顔を、言葉もなく見つめ返す。








 時は数刻前に遡る。
 授業が終わった後、稽古をしてほしいとのの申し出を受けて打ち合うことになった。華奢で力はないが、剣や槍を持たせれば彼女は並以上には動ける。身体が柔らかいため、身のこなしがしなやかなのだろう。力の不足を技や速さで補うという点では、イングリットと似ているのかもしれない。
 空き時間は常に訓練場に居るフェリクスが「後で俺にも稽古をつけろ」と言わんばかりの視線を送ってきたので、目線だけで頷いたものの、いざの訓練が終盤に差し掛かった頃、彼は訓練場に突然現れたイングリットに「フェリクス、あなた今日は温室の水やり当番だったでしょう!」と連れられて行ってしまった。傍から見ればほとんど喧嘩しているようにも見える二人だ。は彼らの背中を見送って「あの二人も、幼馴染なんですよね」と目を細めている。
 丁度資格試験を控えた週末であるせいかもしれない。フェリクスが去った今、訓練場には他に生徒の姿はなかった。ほとんどの生徒は座学の追い込みに入っているのだろう。騎士を目指すものはここで躓くわけにはいかないし、研究職を志すものにとっても重要な試験だ。
 の出来不出来やその目標については知る由もないが、「試験勉強は良いのか?」と尋ねた自分に、彼女は困ったような顔でゆるゆると首を振るだけだった。
 一度休憩を取ろうと武器を置いたとき、はこちらをじっと見た。何かおかしなところでもあるのか、まじまじとこちらを見つめた彼女は、やがて首を傾げる。



「先生、やっぱり何か雰囲気変わりましたね?」

「は?」

「あ、気に障ったならごめんなさい。いや、これクロードくんとかヒルダちゃんとも言ってたんですけど、なんか最近の先生は穏やかな? 感じ? がします。前よりも」

「……穏やか」

「そう、なんか、表情筋の可動域が広まった感じが」

「可動域」



 私も笑いすぎた次の日とか頬の筋肉が痛くなるときあるんですけど、多分そうやって筋肉がついていくんでしょうねえ、頬にも。そう続けた彼女から目を逸らして思案する。ディミトリに笑顔を浮かべていたことを指摘されたのは数日前だったが、以降自分は度々他の生徒や、教師仲間から同じような言葉をかけられていた。
 意識はしていない。自覚もない。だけど、の言う通り、この表情が柔らかくなったということはどうやら事実であるらしかった。



「先生、春は何だかもっと怖い顔をしてましたよ。だから私も今日こうして個別の訓練をお願いできたのかもしれません」

「……そうか」



 は汗を拭うと長く深いため息をついて、肩甲骨の裏の筋肉を伸ばす。彼女の方こそ、初めて話をしたときよりは随分警戒心を解いてくれたように思うのは気のせいか。



「前は先生、歩いているときも進行方向の一点しか見てなかったじゃないですか。しかも歩くのだってやたら速いし。でもね、最近のベレト先生とは良く目が合うなって」

「……そうだろうか」

「そうですよー」



 良く一緒に居るせいでうつったのか、同じヒルシュクラッセのヒルダのような、間延びした声音で彼女は目を細めてみせた。自分の笑顔を確認してみたわけではないから定かではないが、彼女や、ヒルシュクラッセの生徒たちのようには自分は笑えてはいないだろうと思う。級長の色もあるのだろうが、ヒルシュクラッセは傍から見ていて随分と気楽であるように思えた。
 笑えるようになったからと言って、決定的な何かがあったわけではないし、教師として成長したわけでもない。生徒の求める答えを提示してやることは相変わらず苦手だし、それ以外にも悩むことばかりだ。武器を振るい、指揮を執る。兵の潜ませてありそうな場所の見分け方や、応急処置、自分ができるのはそういう、傭兵時代に父や周囲の人間から叩き込まれ、学んだことばかりだ。果たしてこれで教師と言えるのか。
 気がつけばそういうことを口に出してしまっていたらしい。剣を抱えたまま、は物珍しそうに自分を見つめている。



「それは、先生がこれまで人と関わってこなかったせいなんじゃないですか?」



 そして冒頭に戻るのだ。



「あ、いや、せいって言うと語弊がありますね……。関わってこなかったから、じゃないですか? の間違いです」

「関わって」

「だって、先生ってこれまでジェラルトさんと一緒だったんでしょう? 傭兵の仕事っていうのをきちんと理解していないので、ちょっと違ってたら申し訳ないんですけど、依頼人とのやりとりだって先生じゃなくてジェラルトさんがやってたんじゃないですか?」

「……ああ」

「家族以外の人とこれまで親交を深めることがないまま傭兵をしていたんだったら、人間らしさってのが他の人よりも希薄になっても仕方ないんじゃないかなあと思うんですけど」

「……」



 勿論、元々の性格もあるとは思うんですけどね。と補完しながら続ける彼女に曖昧に頷く。依頼の関係上、父と離れて生活をしたこともある。まるで一心同体のように思われているようで不服だったが、その間、では必要以上の会話を他者と交わし、名のある関係性を築いていたかと言えば首を振らざるを得ない。



「そんな人がガルグ=マクでいきなり先生をやれ、なんて言われて戸惑わないわけないじゃないですか。そうやって悩んでる先生、人間らし……っていや、すみません、これだとなんかちょっと私、偉そうですね……そう言うつもりじゃなくて……」



 慌てて訂正しようとしているが、元々人間じゃなかったと思われていたのが透けて見えて、思わず口の端が緩んでしまった。その瞬間を見られたのか、が「あ」と顔を綻ばせるから、咄嗟に口元を手で覆う。「ほら、先生また」そんな風に目を細められてしまえば、返す言葉もない。
 アッシュの件から思っていたが、この少女は上手く他人を見て距離を取っている。相手が不快にならないであろう線を見極めて、そこからは爪先の一つすらも出さないように気を張っているのだ。
 シルヴァンに対してもそうだった。マイクラン討伐の前日、前日の会議に現れなかったシルヴァンは、ヒルシュクラッセの教室で彼女と談笑をしていた。普段他の女生徒と一緒に居る時は軽薄な印象の拭えない彼の横顔は、彼女と話をしているとき、どこか幼い子供のように見えた。
 シルヴァンが彼女を、そういう対象として見ていないせいだったのかもしれない。だけど、ならば猶更、彼にそう思わせるの物差しは正確だ。生まれもっての性質なのだろうか。その器用な生き様は自分とはまるで正反対の生き物のように思えて、興味深かった。
 だけど、自分に対してまでそうされるとは、思ってもみなかったのだ。



「そういえば、先生の悩み事は、少しは解消されましたか?」



 思わず飲み込んだ息が、喉の辺りでごくりと音をたてた。目を見開いていたせいなのか、は穏やかな表情のまま、首を傾げる。
 教師としての資質などないと思っていた。生徒の考えていることが分からなかったから。求められている答えを自分では出せなかったから。そう言う点で言えば、彼女の方が余程教師に向いているのだろう。表情から考えていることを察したらしい彼女が苦笑を浮かべる。



「私に『悩みがあるときは釣りをするといいらしい』って言ってた先生本人が、釣りばかりしていたから」



 アッシュの力になれずに悩んでいた。シルヴァンに何と声をかけてやるのが相応しいのかが分からなかった。いくら釣り糸を垂らしても気分は紛れず、その時自分は初めて父と同体ではないのだと知った。
 ガルグ=マク士官学校の教師として赴任して、半年が経とうとしている。生徒の気持ちは未だに汲み取れない。教師らしいことは、どんなに甘く見積もっても半分程度しかしてやれていないだろう。だけど自分は、ルーヴェンクラッセの彼らが大切だ。ここで出会った彼らは、既にそう言う枠の中に収まっている。何かしてやれることはないだろうかと、自然と考えてしまう程度には。
 だけど自分がそんなことを考えていると知られることは、何だか気恥ずかしく思えた。恥ずかしいだなんていう概念が自分の中にあったことも驚きだが。人間らしさとやらの数値が可視化されれば、彼女の言うとおり自分はようやくそこに何らかの線が書きこまれた程度だろう。
 自分の悩みは解決されたのか。どうだろう。だけど、自分にできないことを平然とやってのけるお前のような人間がここには大勢いることに気が付いたから、前ほどは思い悩むこともないな。
 それを口にする気は毛頭ないけれど。



「そんなことより」



 彼女の質問には答えず話を変えれば、は僅かに目を丸くした。



「さっき言葉を濁したが、資格試験はどうなんだ」

「はい?」

「他の生徒に比べて全く焦っている様子がないが……まさか受けないわけではないだろうな」

「えっ? あ、いや、へへ」

「……」



 言葉もなくじっと彼女を見つめるが、は決まり悪そうに笑うばかりだ。
 都合の悪いことには笑って誤魔化す癖がある。彼女の情報を脳に刻み込みながら、小さくため息を吐いた。
 折角それなりに見所があるのに、と思いながら彼女のことをまじまじと見つめる。居心地悪そうに視線を逸らしたに、「自分からもハンネマン先生に言っておく」と言えば、彼女はさあっと顔を青くしてしまった。それが先ほどまでの彼女とは思えなくて、こちらを見ていないのをいいことに、小さく笑った。


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